2003(平成15)年11月10日に公開したミニレポート【能代駅近くの謎の廃鉄道橋】を記憶しているという方は、当サイトの熱心な読者さまの中でも、かなり少ないと思われる。
本橋は、秋田県内に残る数少ない鉄道用廃橋ではあるが、余り目を引く規模ではなかったし(特に川面からの高さが小さいことがインパクトを薄めている)、私自身もレポートから数年後に住居を秋田から東京ヘと移してしまったため、ますます印象から遠ざかってしまっていた。
しかし実はこの廃鉄橋、わが国の橋梁史上に燦然と名を連ねうる、逸材だった。
本編は「再訪&机上調査編」と題して、2012(平成24)年の再訪をきっかけに判明した本橋にまつわる「貴重な事実」と、未だ解き明かされぬ謎について、まとめておきたい。
なお、文責はいつも通りヨッキれんだが、気持ち的には「鉄道友の会」秋田支部郷土誌編纂室長として公表している。支部長ミリンダ細田氏を中心に、私を含む総勢5名(2016年4月現在)の少数からなる秋田支部では、随時支部会員を募集しています。ご入会お問い合わせは鉄道友の会本部へ。
1. 橋の再訪で発見したものは――
2012/4/2 16:30 《現在地》
約8年半ぶりに訪れた、東能代駅裏手の現場。
そこには桧山川を渡る連続5径間、総長70mほどの上路PG(プレートガーダー)廃橋が、特に変化した様子もなく、泰然と存在していた。
正式名は相変わらず分からないので、鉄道橋の命名法に則って「桧山川橋梁」とする。
変わらず架かっていたことに安堵した私は、挨拶がてら、この橋を再び渡ってみることにした。
写真の向かって右、東能代駅のある側から、懐かしの渡橋へ挑む。ちなみに前回とは反対方向也。
遠目には「変わらなかった」廃橋も、実際に渡ってみると、過ぎ去った年月は確かに感じられた。
隙間だらけのPGを突き破って生えた、氾濫原に根を張る生きた木々はさらに太く生長していたし、半面、以前は気にせず歩けたはずの枕木や中央の踏み板など死んでいる木々は、一層朽ちてスカスカになっていた。
橋上の枕木を延長する形で空中に設けられた、木製の勾配標も、肝心の羽根の部分がすっかりお辞儀してしまい、遠からず完全に形を失いそうである。
…以上のような橋上環境の変化(悪化)のため、前に較べて渡橋の難度は確実に上昇していた。
しかし、慣れていることもあって、特に問題無く渡り終えた。
重大な発見があったのは、この後だ。
16:35 《現在地》
橋を渡り終えた廃線跡は、すぐに市道とぶつかり、敷かれたままの線路もここで終わっている。
だが、廃線跡は市道の反対側へと続いていて、明瞭にそれと分かる敷地が、米代川の河川敷の方向へ伸びている。
しかし、そこを歩いて探索する事は出来ない。
前回来た時もそうだったが、大きな木材工場に呑み込まれてしまっている。
というか、この線路が廃止される直前までやっていたことは、この木材工場と東能代駅を結ぶ専用線であった。
現在の工場の名前は、アキモクボード株式会社という。
「あきもく」という音に聞き覚えがある人は、おそらく秋田での生活経験があるのだろう。
かつて「あきもく」秋田木材株式会社といえば、県内有数の規模と歴史を誇る木材会社として、“木都”能代の花形であったのだ。
本橋は、その繁栄の名残のひとつであった。
で、 新発見 というのは…
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製造銘板を、見つけたことだった。
これは橋銘板と呼ばれるものの一つで、鋼橋を好きでよく見る方にはとうにお馴染みだと思うが、
その名前の通り、桁の製造者や製造年(場合によっては製造地、発注者、規格、材質なども)を記載した一種の記念プレートである。
橋の親柱に取り付けられた橋名や竣工年の書かれたプレートも橋銘板の一種であるが、
それとは別の製造者に由来する(鋼橋ならではの)銘板が、製造銘板である。
製造銘板自体は珍しいものではない。新旧を問わず、ある程度規模の大きな鋼橋には、高い確率で付属している。
だが、本橋の製造銘板は、さほど“この道”(鋼橋)に詳しくない私でさえ、一見して分かるほどに貴重なものだった !!
PATENT SHAFT&
AXLETREE Co.LD
ENGINEERS
1900
WEDNESBURY
銘板に刻まれた文字は、この桁が、1900年に、「PATENT SHAFT&AXLETREE」(パテントシャフト社)の「WEDNESBURY」(ウェンズベリ工場)で生産されたものであることを示している。
西暦1900年といえば、わが国では明治33年である。
横浜に本邦最初の鉄道が開業してからわずか28年後に、イギリスはバーミンガム近郊の町で製造された橋桁が、わが国へ輸入され、最後はこの地方の小川の上で役目を終えたということだ。
専用線の廃止は平成5(1993)年頃といわれているから、最長93年間働いた計算になるのか。
このパテントシャフト社の銘板を最初に発見した場所は、連続5径間の最も右岸(工場側)寄りの桁の下流側の面であった(矢印の位置)。
一般的に、同じ形の桁を連続して使っている橋では、それぞれの桁の同じ位置に銘板を揃えることが多く、かつ設置位置は陸に近い側というのが普通だ。
だが、本橋の場合、そうはなっていなかった。
それどころか、後述するように、かなり複雑怪奇な状況が現出していたのである。
最初の銘板を発見したことで、今日は探索目的で来ていたのではないにも拘わらず、とてもテンションが上がってしまった私。
当然、2枚目を探し始めたのであるが……。
ただ渡っているだけでは気がつくはずのない場所に、次なる銘板との出会いがあった。
1枚目の発見場所(第5径間)からは遠い、最も左岸寄りの桁(第1径間)と次の桁(第2径間)を結ぶ橋脚が、その場所だった。
2枚目のみならず、3枚目の銘板も発見!!
しかして、その内容は?!
LECOQ
1896
実は、先ほどのパテントシャフトという会社名は、これまでの廃道人生で他の橋の銘板でも目にしたことがあったので、知っていた。
だが、「LECOQ」(ルコック)という会社名は、見たことも聞いたことのないものだった。
しかも、刻まれた数字は「1896」。
先ほどの桁よりもさらに4年古い、明治29(1896)年に製造された、やはり外国からの輸入の桁なのだった。
いやはや、これは大変なものが残っていたのである。
その後、さらに橋の周辺をよく観察し、撮影し、そして興奮を胸に帰宅した。
以後、机上調査フェーズ。
2. 5枚の製造銘板と、補強の痕から推測されること
銘板を発見した2011年4月2日の訪問および、補充撮影を行った同年4月18日の訪問により、「桧山川橋梁(仮称)」の連続5径間のPGには、合計5枚もの製造銘板が確認された。
それぞれの銘板の位置を示したのが右図だが、パテントシャフト社とルコック社の銘板が混在しており、一つの桁に2枚の銘板が取り付けられていた桁(第5径間)がある一方、1枚も銘板のない桁(第4径間)もあった。
なお、パテントシャフト社とルコック社それぞれの記銘内容は、それぞれ上記レポートで紹介した一通りのみであり、他の製造年のものは混ざっていなかった。
本橋の桁が、製造年や製造元の異なる二種類の桁からなっていて、かつ銘板の取付位置にもなんら整理された様子が見られないのは、おそらく一つの理由によるものだ。
それは、もとは別の場所で使われていた中古の桁を寄せ集め、一本の橋にしたということである。
そして、本橋が中古の桁の寄せ集めであることは、一部の桁に残されてた「前任地での激務の痕跡」からも、窺われるのだ。
桁の耐荷重性能を向上させるため、添接材が取り付けられていた、その痕跡である。
この写真は、国鉄黒石線の廃線跡(青森県黒石市)に所在する、補強を施されたPGだ。
補強の方法は何種類かあったが、このようにPGの下側にトラス状の補強材を加える方法を、フィンク補強という。わが国では大正12(1923)年頃から行われ、全国で700本程度の桁に施されたという、メジャーな補強法である。
そしてこれは、桧山川橋梁に残るフィンク補強の痕跡である。(図示したのは第5径間だが、隣の第4径間側にも同様のものが見える)
補強材は、この最終任務地での専用線という用途では必要なかったために撤去されたか、それ以前に中古品として放出された段階で、より汎用性を高めるために撤去されたのだろう。
いずれにせよ、この補強の痕跡は、これらの桁がはじめからここに架けられていたのでは無いと考える、有力な根拠だ。
また、連続5径間のうち、フィンク補強の添接痕が見られるのは、第4、第5の2径間のみである。
第1〜3径間にはそれがない。
そしてまた、現地で見つけた5枚の製造銘板により、第1〜3径間はルコック社製、第5径間はパテントシャフト社製と判明しており、第4径間のみ銘板が見あたらないので製造元不明である。
これは計測によらない目測だが、本橋の各径間は同じ長さではなく、【第1=第2=第3<第4=第5】という関係であるように見える。
このことも、本橋各桁の由来を2つのグループに分けて考えることの合理性につながっている。
以上の推測の結論。
本橋は、少なくとも2箇所の異なる土地に架けられていた桁を寄せ集めて完成した橋である。
3. 桧山川橋梁と、専用線の歴史
8年半前の私のレポートでは、この廃鉄橋のある廃線の正体について、特に根拠もないまま、かつて米代川で盛んに行われていた筏流し(木材流送)関連の陸揚げ用ではにあだろうかと書いていた。だが、恥ずかしながらこれは全くの誤りだった。
本路線については、Matagi☆Fighter氏の『秋田各駅停車の旅』に詳しくまとめられており、大いに参考にさせて頂いた。
それによると、本路線の端緒は、大正元(1912)年以前に、米代川からの砂利採取線として国鉄が敷設したものだという。
正確な開業年は不明であるが、明治34(1901)年に青森から延伸してきた奥羽本線(奥羽北線)が当地に至り、現在の東能代駅の位置に、以後1年間の終点となった能代駅を開設している。
砂利採取線の開業はそれ以降であるはずで、また大正元年の地形図に既に描かれているから、それ以前だとも判明している。
右図は昭和28(1953)年の地形図だが、ここに描かれている盲腸線が、明治生まれの砂利採取線というわけだ。
ここまでを読んで、あなたはこう考えたかも知れない。
明治34〜大正元年に開設された砂利採取線であれば、明治29(1896)年と明治33(1900)年にそれぞれ輸入された桁が、そのまま(中古でなく)ここに設置された可能性もあるのではないかと。
もちろん私もその可能性を疑った(というか期待した)のだが、残念ながら、これらの桁はやはり中古で流れてきたものだと思われる。
その根拠は、右の2枚の航空写真の比較である。
昭和23(1948)年当時と、昭和50(1975)年当時とでは、桧山川の流路や川幅にかなりの変化が起きている。
これは、米代川の河口地帯で、古くから洪水が多発していたこの一帯での河川改修の成果であるのだが、このように大規模な河川改修が行われた結果、航空写真上に見える橋の長さも、位置も、変化してしまっている。
(かつての砂利採取場なども、既に川の中洲になっている)
現在、現地には旧橋の痕跡らしいものは何も見られないが、それは小規模な木橋であったのかも知れないし、河川改修で完全に失われたのかもしれない。
いずれにせよ、今残っている桧山川橋梁は、砂利採取線時代の橋ではない。
左図は、上で比較した2枚の航空写真に描かれた線路を重ねて表示したものとなる。
(赤線は昭和28(1953)年の線路、青破線は昭和50年の線路、黄色い部分はそれぞれの橋の位置だ)
こうして見ても微妙な違いではあるが、それでも両者が同じ橋でないことが分かると思う。
なお、河川改修や橋の架け替えが行われた正確な時期は不明だが、『秋田各駅停車の旅』の調べによると、砂利採取線は昭和32(1957)年頃に秋田木材株式会社の専用線になっている。
「秋木」の工場は砂利採取線の上に重なっているので、この時点までに砂利採取線は廃止されたのであろう。
右図は、『トワイライトゾーンマニュアル7』に収録されていた「昭和32年版専用線一覧表」の一部だが、ここには東能代駅に付属する秋田木材の専用線が記録されている。
これによると全長は0.4kmで、機関車と手押の両方の貨物扱いが行われていたようである。
その後、秋田木材は昭和39年に秋木工業へ、昭和59年には新秋木工業と社名が変遷するが、専用線は受け継がれていたようだ。そして最終的に廃止されたのは、平成5(1993)年頃と見られている。
先日、細田氏がアキモクボードで関係者から聞き取りをしてくれたが、実際の運行はそれよりもだいぶ前から止まっていたのではないかという証言があった。昭和50年代には、既に使われていなかったのではないかというのである。
枕木などの腐朽具合を見ても、昭和59年に秋木工業が会社更生法を適応された頃には、既に運行終了した可能性が高そうである。
この項での結論。
本橋は、昭和32(1957)年頃に、桧山川の河川改修や、砂利採取線→秋木専用線の切り替えに関連して、新たに架設されたとみられる。
(←)
ところで、現地にはこんなものがある。
机上調査を終えてから改めてみると、これは旧橋の橋脚なのではないかという疑いを持たせる位置なのだが、残念ながらそういうものでは無いようだ。
上から見て見ると(→)、
内部は空胴になっていて、周囲に梯子を取り付けていた痕のある、何か水槽のようなものである。
これが何なのかは、依然として不明だが…。
4. レア! なパテントシャフト社と、激レア!! なルコック社
さて、最後は製造銘板に話を戻そう。
世の中には、鋼橋を詳しく研究している方が大勢いて、彼らの成果として色々なものがまとめられている。
たとえば、土木学会附属図書館のサイトにある「歴史的鋼橋調査台帳」は、全国にある古い鋼橋のデータベースであり、これを検索することで、パテントシャフト社やルコック社の銘板が、それぞれどれくらい現存(もしくは記録)されているかが分かる。
まずは、私が過去に別の場所でも目撃している程度には数が多いはずのパテントシャフト社について、「PATENT and SHAFT」のキーワードで検索してみた結果、全国で21本の橋がヒットした。
(そこに本橋は含まれていない)
古いものだと明治初年代(1876年以前)までの例があり、鉄道黎明期にはイギリスから多くの鋼橋を輸入していたわが国にとって、最初の友人…有力なパートナーだったことが伺える。
その後、輸入先の国も多様化したことや、小型の鋼橋から順次国産化が進められたことから、1900年以降はかなり少なくなり、今回発見されたのは「1900」年だったが、パテントシャフト社の銘板の中では、かなり遅い輸入品であることが分かった。
さて、次はお待ちかね、謎の「LECOQ」である。
「LECOQ」のキーワードで検索してみた結果――
全国で、2件、だけ…!
マジかよ…。
マジだった。
なお、この桧山川橋梁における発見は、鉄道構造物の大家である小野田滋先生(『鉄道構造物探見』などの著者)にも連絡してある。
氏曰く、ルコック社はパテントシャフト社と同じくイギリスの企業とみられており、『鉄道技術発達史』にも名前が登場するが、詳細は不明であるという。
また、小野田氏を通じて、「歴史的鋼橋調査台帳」の作者である小西純一先生のコメントも頂戴できた。その中で、ルコック社については、概略以下のようなご指摘を頂いた。
ルコック社の銘板を持つ2件のうち1件は、中央本線の名古屋市内にある矢田川橋梁下り線で、銘板には「J.L.LECOQ CO.1898」とある。
もう1件は、篠ノ井線の長野県麻績村にある麻績川橋梁で、銘板の記述は「LECOQ 1896」であり、今回発見されたものと全く同じ内容である。
右図は、今回調べた「歴史的鋼橋調査台帳」に記載されていたパテントシャフト社とルコック社の銘板を持つ橋の現在地を示した地図である。(桧山川橋梁は台帳に記載されていないが、書き加えた)
パテントシャフト社で製造された鋼橋は、全国に広く点在しているものの、既に最初の架設地から移転しているものが大半だ。
また、PG(プレートガーダー)よりはトラス橋の方が多く残っている(≒確認されている)ようである。
ルコック社で製造された鋼橋は、確認されている全てがPGである。
既知の谷田川橋梁も麻績川橋梁も開業は明治33(1900)年であり、今日まで無移動なのだが、桧山川橋梁は、どこかから移転されて現在地にある(可能性が極めて高い)。
…といったところまでが、現在分かっている内容である。
私が今一番知りたいのは、これらの明治時代にイギリスから輸入されてきたPGが、どのような経歴を辿って、能代に辿り着いたのかということだ。
移転元は、決して距離的に近い場所とは限られない。移転した例を調べてみても、数百qの移転は珍しくない。
このうちルコック社の銘板を持つ3本の桁は、同じ内容の銘板を持つ篠ノ井線から移動してきたのかも知れない。
パテントシャフト社の銘板を持つ桁は、数がそこそこ多いだけに、さらに予想は立てづらいのだが、皆さまのご賢察に期待している。
以上、能代市の桧山川に影を落とす小さな廃橋が、遙か昔にイギリスで産まれた舶来品であり、日本のどこかの地方の発展を、その姿を変えなければ支えきれないほどに支え続けた末、ここで長い旅を終えた、そんなお話し。
「もったいない」は、わが国のほんものの美徳であった。