10月23日、午前6時過ぎ。まだ太陽は山の陰から上ってはいない。
安比川から立ち上る蒸気によって、細く長い一帯の河谷は、すっぽりと靄に包まれていた。
旧青海橋は、もう目と鼻の先。
あの奇妙なシルエットの木の袂に、橋は架かっている。
昭和47年までは主要地方道だっただけあって、橋への道は十分に広い。
朝靄のなか、4トンの重量制限を従えて現れた旧青海橋。
対岸の青海集落の青い屋根が見える。
橋は、さしあたり全長50mほどのようだ。
この時点では、まだ異変には気づかなかった。
橋はちゃんと対岸まで繋がっているし、封鎖されているわけでも無い。
ただ、ちょっとそれまでの道よりも幅が狭いだけだ。
橋は、律儀にも両側に歩道が設けられていた。
本来の欄干の内側に金属パイプの欄干が追加されていたのだ。
そこを歩くのは、久々の登場… ミリンダ細田氏だ。
約10ヶ月ぶりの再会だったが、昔と変わらぬ青いツナギも鮮やかに、颯爽と出現だ!
それにしても、狭い歩道である。
今は旧道だから通行量もほとんど無いのだが、以前は秋田と八戸方面を結ぶ国道に匹敵する幹線道路であったから、歩行者の安全確保のために設置されたのだろう。
そんな歩道はあまり使われていないらしく、草が生えていて歩きにくそうだ。
細田氏に
何が
起きた?!
まさか、また足をつったのか?
いや、そうではなかった。
細田氏の行く手に、大変なことが起きていた。
この橋は、
本当に現役でも
いいの?
驚くべき事に、細田氏が歩道だと信じて歩いていた部分は、歩道などではなくて…
欄干の外だった。
実は、北東北一帯に数十年ぶりに激甚な水害をもたらした集中豪雨が9月27日にあったばかりである。
この二戸地方も被害が特に大きかった地域のひとつで、見たところこの旧青海橋などは欄干を乗り越えて濁流が橋上を越流してしまったようである。
旧欄干と新欄干の間に大量の漂着物が堆積していたが、これなどは水害の爪痕に違いない。
しかし、この橋の荒廃の全てを今回の水害のせいだとすることは出来ない。
崩壊した旧欄干の断面や、そのほか随所に見られる破損など、いずれも古くからのものに見える。
パイプ製の新欄干にしたって、ここ1ヶ月の間に急遽設置されたようなものではなさそうだ。
この橋は、水害の以前から、こんな姿のままだったのだ。
水害は、橋の上と橋脚周囲に大量のゴミを残していったに過ぎないだろう。
旧道になってからの35年の間に、この橋に何があったのか?!
橋はごく単純なコンクリートの桁橋であり、4本の橋脚と5連の桁がある。
この単純な積み木のような構造自体が崩壊しない限り、欄干がどれほど痛んでも橋そのものの安定度には殆ど影響が無い。
そんな考えから、規模の割には控えめな4トンという重量制限を課しながらも、なお現役で使い続けて来たのだろう。
古い欄干が崩れ落ちるに任せ、代わりに見栄えなど度外視して、施工の簡単な鉄パイプの欄干を設置したのだ。
まさにつぎはぎの修理術。財政難に喘ぐ地方自治体らしい苦肉の策だ。(旧浄法寺町時代の事だろう)
実際にここを4トンよりも重い車が通ることは無いだろうし、すぐ隣に現道が有るから利用しているのも地元の人に限られる。
…そうは言っても。
この橋の場合は、その「基本的な橋の構造」自体にも綻びが現れているのでは?
継ぎ目の部分には、最大で3cmくらいの電光型の亀裂が入っており、その亀裂はますます拡大する方向に向かっていそうだ。
私と細田氏は顔を見合わせて、「ここまで酷い現役橋がいままであったか?」「いや無い」と盛り上がった。
ともかく、そんな橋だがちゃんと対岸へ続いているのであって、その先には平然と青海の家並みが並んでいる。
橋の袂のお宅には沢山の犬が飼われていて、我々二人の姿がよほど怪しかったのか一斉に吠えられまくってしまった。
渡り終えた旧青海橋を振り返って撮影。
此方側はいきなり旧欄干が親柱ごと無くなっていて、どう考えても不自然な景観となっている。
誰かのように、歩道だと勘違いして進入する危険性は全くないが。
とにかく、怪しげな橋である。
…ところで、消えたかのような親柱だが、ちゃんと存在はしていた。
西側二基の親柱はそれぞれ…
一基が新旧欄干の間に横置き(写真左)…銘板見えず…。
一基が道路脇に欄干の残骸と一緒に投棄(写真右)…銘板見えず…。
酷すぎる扱いに、涙、涙!!
少し離れて撮影。
このアングルからだと、橋がある感じに見えなかったりする。
我々は直線の道路があるから橋があると理解するのではなくて、親柱とか欄干といった象徴的なものにかなり助けられていることを感じた。
細田氏は、犬に吠えられながら無惨な親柱に黙祷中。
一方、最初にアプローチした東側には、両方の親柱が銘板とともに健在であった。
現在の橋と同じ「青海橋」と、おそらく青銅製の銘板に陽刻されている。
もう一方の銘板には
「昭和八年十一月竣工」とあった。
おそらく、この場所に架けられた最初の永久橋が、この旧青海橋だろう。北東北で主要な道路にコンクリートの永久橋が架けられ始めたのが昭和初年代なのである。
本県道もこれまで幾度となく名前を変えており、大正時代には「福岡花輪線」、昭和34年以降は「福岡安代線」、昭和47年に福岡が二戸に改称されて路線名も「二戸安代線」に、最後は平成14年に市町村合併によって「二戸五日市線」になった。この橋はそのうち前者の二世代を担ってきたのだろう。
……しかし、
これを歩道と勘違いする細田氏って…。
まあ、お約束だから私も止めなかったというのが真相だけどね。
最後に、上流側からの遠景をお届けしよう。
河中に建つ4本の橋脚については、先日の洪水の凄まじさを伝えるように、膨大な漂着木が堰のように固定されている。
このような状況になると、木製の橋などではひとたまりもなく流されてしまうが、そこはどうにか“永久橋”のプライドがそうさせたか、持ちこたえている。
しかし、早急にこれを撤去せずに次の洪水が発生したら、おそらく橋は流出するだろう。
自然に流れるのを待つ手もあるが。
この橋は、多額の税金をかけて保守してまで存置する積極的な理由が思いつかない立地なのも、確かだ。
文化財として保存しようという意図は、既に地元にも行政にも皆無のようであるし。
本橋の未来は、かなり暗いかも知れない。
果たして、この外見を見て橋が現役だと思う人は居るだろうか。
この橋は元の作りがしっかりしていて、素朴ながら美的なだけに、満身創痍といえる現状は見ていて痛々しい。
もし、地元の誰からも愛されていないなら…
もういっそのこと、各部材を応力から解放し、元の土へと戻してあげてもいいのではないかと…
廃道大好きな私でさえ、ちょっとだけそう思ってしまった。