八郎潟 湖東橋めぐり
農魂尽きたる地
秋田県南秋田郡 井川町ほか
   
 皆さん、八郎潟はご存知だろう。
古くは日本第二の大湖として、そして、近年ではバス釣りやワカサギ釣りのメッカとして、全国的に有名である。
そして、皆さんの持つ八郎潟のイメージとはどんなものだろうか?

広い。

お米の産地。

チャリで走るとダルイ。

…これらはどれも、同感だ。


だが、広大な八郎潟の干拓によって誕生した多くの橋を、貴方はご存知だろうか?
東西12km、南北27km、周囲100kmにも及ぶ広大な八郎潟の湖畔のうち、特に湖東地区と呼ばれる東岸一帯は、もっとも古くから干拓が進められてきた部分である。
太平山系より西流する大小の河川が幾筋も湖に流れ込んでいて、その河口部にはかつての湖岸に沿うように小さな集落が点在している。
最近は町村合併の嵐が吹き荒れてきているとはいえ、現時点では小さな町が犇くように隣接している。

今回、湖東を南から北へと辿ってみた。
起点となった昭和町大久保は、一時期私が暮らしていた地に程近く、今回のコースは、かつて輪行など知らぬ頃頻繁に通った山チャリの“通学路”である。

今回は、のんびり行ってみる。






 私が以前暮らしていた天王町は、海岸に沿った砂丘を町域のメーンとする果樹のまちであった。
しかし、ひとつ隣町の昭和町は海岸線を持たぬ代わり、八郎潟の最南端の岸辺にある米どころだ。
その景色の変化は、私にとっては「湖東に来た」という実感を持たせるものに他ならない。




 『湖東農免』。
懐かしのチャリ馬鹿トリオにとっては、「湖東農道」という方が通りが良いが、昭和町大久保から、飯田川町、井川町を経て、八郎潟町一日市に至る、湖東のバイパス的道路である。
各町の中心地を走る旧国道(現県道303号線)と、山側をバイパスする現国道7号線、それに湖畔の湖東農道の三線は平行しており、朝夕のラッシュ時には農道といえども大変な通行量となる。
それ以外の時間帯は、極めて閑散としているが。

 湖東農道には、大変多くの橋がある。
そのうちでも、4色にそれぞれ塗り分けられたカラフルな4本のトラス橋が印象深い。
写真は、もっとも南にある馬踏川大橋である。
この少し先で、昭和町から飯田川町へと移る。



 この日は、雨の予報が出ていた。
だから、予定していた山チャリはキャンセルした。
でも、せっかくの休みにどこにも行かないのでは後悔が残るだろうと、カッパ持参で近場の探索に出掛けた。
普段は輪行でショートカットしてしまうような部分に目を向けてみたいと思って、北行きの奥羽本線にも沿った湖東を探索することにしたのだ。
だから、目的地はさしあたって、無い。

 何年ぶりかに走る湖東農道は、丁度朝のラッシュに重なった為、歩道もない2車線をひっきりなしに車の往来がある。
また、もう湖東農道といったら“おなじみ”なのであるが、やっぱりこの日も逆風である。
平坦な道なのだが、妙に疲れやすいというのが、トリオの湖東農道に対する共通認識であった。
そうこうしているうちに、二本目のトラスが現れた。
緑色の豊川大橋である。


 豊川大橋から眺める湖畔の景色。
奥に見える水面が、八郎潟調整池と呼ばれる、言わば残存湖である。
八郎潟は元来汽水湖であって、日本海とは高度差が無かった。
干拓事業の経過や、その後の防潮水門の建設によってだいぶ本来の水質とは変化しているといわれるが、現在でも蜆が採れるし、景色も淡水の湖とはどこか一線を画している。
対岸にかすかに見える山並みは、男鹿半島だ。
この日本離れした距離感のある景色は、秋田随一のものだ。



 飯田川町を北上していくが、ここまでただの一軒も民家は無い。
道の両側にあるのは、9割方が水田で、減反政策によってまだら模様に発生した耕作地も点在している。
民家も商店も、自販機すらも辺りには無い。
この傾向は沿岸だけではなく、むしろ干拓地の本体である大潟村に於いてはチャリにとっては死活問題といえるほどに顕著だ。
10km以上も一切の補給地がないというのは下手な林道以上であって、笑えない。



 妹川に架かる橋の手前で、ちょっと気になる脇道が目に付いた。
農道から向かって左側、すなわち湖畔側に伸びる畦道。
その先には、古びた小さな橋が見えている。
湖東農道が開通する以前の農道の橋と見受けられ、もはや通るものは少なそう。
私の興味を引いた。



 と、寄り道の前に、本線にも気になるものが。
妹川を渡る直前、目立たない橋がもう一本ある。
干潟橋といって、造り自体は飾り気も無く、面白みも何も無い橋だ。
ただ、この橋の『河川名』が珍しい。
橋梁銘板の一つに記された河川名は、こうだ。

 第三工区承水路

 いままで、河川名「排水路」というのはあったが、それ以上にレアっぽい。
そもそも、工区などというものは、完成後には余り一般に利用されないものであって、裏方のようなものだと思っていたが、堂々とその名を現している。
そして、余り聞きなれない承水路という言葉。
これは農業土木用語で、このような干拓地などへの不要な水の流入を避ける目的で、その周りに設けられる水路のことを言うらしい。
たしかに、地図帳にも湖東地区と大潟村を隔てる部分の水域には「東部承水路」とある。




 さて、脇道だ。
この橋は、“第三工区承水路”に架けられている。
極めて単純なコンクリート橋であり、欄干に鉄パイプを利用しているなど、思っていたほど古そうでは無い。
もっとも、ここも干拓事業によって誕生した陸地であって、昭和30年代より以前は浅い湖底にあったのだから、期待する方が悪い。

 期待したほど古くは無い。
これは、その通りであって、橋梁銘板によれば竣工昭和39年9月。
(ちなみに、これは干拓によって無から生じた大潟村の開村一ヶ月前である。)
しかし、橋の名が変っている。
ちょっとだけ。




 八橋

 秋田市住人は、おもわず「やばせ」、そう呼びたくなる。
しかし、ここは素直に「やつはし」が、正解である。
妙に新しい(ように見える)銘板には、大変達筆な文字で「八橋」とある。

私は不思議に思った。
この橋が誕生する少し前まで、ここには地名などなかったのである。
いや、一般に通用する地名など、今でもここには与えられていない。
人は住んでいないし、それでも殆ど誰も困らないのだ。
そこに、降って沸いた様な“由緒ありそうな”名である。

一体、八橋には、どんな由来があるのだろう。





 そしてこの謎は、この先、全く予期しない形で決着するのである。


 次回、

農業に生きた人々の素朴さと、
すこしのユーモアを、
廃墟のむこうに見る。



2002.9.6



工事中

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