橋梁レポート 津軽ダムの旧大沢橋 前編

所在地 青森県西目屋村
探索日 2020.06.03
公開日 2022.05.18


もう10年も前になるが、平成24(2012)年8月の暑い盛りに、左の写真の川原平橋という道路橋を探索して紹介したのを覚えているだろうか。
青森県西目屋(にしめや)村の村道が、美山湖という人造湖に架けていた軽トラくらいの幅しかない華奢な橋だったが、非常に珍しい上路逆三絃トラスという型式の橋だったので、記憶されている方もいらっしゃるだろう。

だが、当時のレポートを読み返して貰えば察せられると思うが、残念ながらもう一度この橋を目にすることはできない。
この橋は、西目屋ダムが生み出した美山湖ごと、津軽ダムが生み出した津軽白神湖に水没してしまったからだ。
湖に架かる橋が、その湖ごと、さらに巨大なダムによって水没したのである。

津軽ダムの完成は、平成29(2017)年だった。




今回は、この津軽ダムに水没した、川原平橋とは別の橋を紹介したい。
その橋の名は、大沢橋という。

白神ラインや弘西林道という名前の方が通りが良いかもしれない青森県道28号岩崎西目屋弘前線の旧道にあった橋で、川原平橋の探索時にも通行しているが、津軽ダムの完成に伴う県道付け替えによって役目を終えた。

右図は、昭文社のスーパーマップルデジタルの平成22(2010)年版と、令和3(2021)年版の比較である。
目屋ダム(美山湖)から津軽ダム(津軽白神湖)への湖面の拡大と、それに伴って県道が付け替えられた様子がよく分かるだろう。

2つのダムの位置はわずか60mしか離れていないが、新ダムの堤高は約40m高くなり、設計上の最高水位も30m高くなった。これに伴って湛水面積は実に2.5倍へ拡大し(貯水量は3.6倍に)、その分だけ旧ダム湖畔の広い土地が水没したのである。


それでは、川原平橋の探索から8年後となる令和2(2020)年6月に現地を訪れた際の出来事を、これから紹介しよう。
もともと、このような探索をする予定で訪れたのではなかったのだが、これから紹介する風景を通りがかりに見つけてしまって……、
気付いた時にはもう湖に引きずり込まれていた!(怖っ!)



 ギリギリ水面の上に見えているアレって……?!


2020/6/3 15:52 《現在地》

ここは川原平橋の上だ。

8年前に探索したあの懐かしい橋と同じ名だが、あの橋はもういない。これは別の橋だ。
8年前は県道から見上げる高みで工事中だった橋が完成して、この名前を頂いたのである。
川原平というのはここにあった集落の名で、5万分の1地形図の図名になっているので少しだけ有名だが、
集落としては8年前にも既に移転は完了していたし、集落跡地の大半は新たな湖底に沈んでいる。

今回、私と助手席のHAMAMI氏は、ある探索の帰り道で、この橋に至った。
津軽ダムの湛水開始後に初めて訪れた、車窓の景色の変貌ぶりに驚きながらも、
ほとんど満水に近い状態らしき湖面に、かつて通った道の跡を自然と探していた。

そんな探求の視線が、奇妙としか言いようのない光景に出会わしめる。




なんだあれ?!

広い湖のど真ん中と言って良いくらいの沖に、湖面に浮かぶような道が見えた!

浮かんでいる道が本当にあるならそれは凄いが、しかしこれはそういう道ではない。

今日の水位が、奇跡的に水面スレスレの高さに浮上せしめた旧道だった!

マジで奇跡的な水位じゃん?!  それに凄い綺麗な景色…。



これは、前の全景写真の「1」の部分を望遠で撮したものだ。

よく見ると道は2本並んでいて、手前の道は、途中で橋桁が切れている!

そして奥の道は、本当に水面ギリギリに沈水した状態で、しかし切れずに続いている!



なんなんだこの状態は!と、思わず叫びたくなるかも知れないが、私は叫ばないぞ。

だって、この光景を見てすぐに思い出したもの。8年前に目にした、次の写真の景色を。↓↓↓



これが平成22(2010)年に撮影した、現役時代最後の頃の大沢橋の姿だった。

とても特徴的で印象に残っていたのだが、2本の橋がごく近接して並んで架かっていた。
2車線ある県道の車道は、昭和59(1984)年竣功の銘板を持つ右側の大沢橋(私がいる方)を使い、
車止めのポールがあって自転車および歩行者専用になっていた幅3m程度の狭い鋼アーチ橋が左隣にあった。
そしてこれは帰宅後に「橋梁史年表」を読んで知ったのだが、この隣の歩道橋も同じ大沢橋という名前で、
目屋ダム完成の年である昭和35(1960)年に完成した先代の道路橋だったのである。

これらは、現在の道路から見れば、旧橋と旧々橋だった。
現道には大沢橋という名前が継承されなかったが、
本稿が紹介せんとする主題は、この旧大沢橋である。



今度は全景写真の「2」の部分の望遠写真だ。

この2本の橋の特徴的な配置は、間違いなく8年前に渡った大沢橋だった。

そして驚くべき、本当に!真に!驚くべきことだが、

旧大沢橋は水面ギリギリ下に架かったまま温存されている!

旧々橋は、両側のコンクリート製の副径間だけを残して、鋼アーチの主径間は撤去されているのに!



最後は全景写真の「3」の部分の望遠写真。

ここには旧道と旧旧道の分岐があって、右の手前が旧旧道、その裏側に隠れるのが旧道だ。
旧道の方が低い位置にあるので、長い距離にわたって水没しているようだ。
水中に道だけがあるように見えるが、この辺りは橋ではなく、普通に地上の道だった。

再び8年前の写真を↓↓↓



いま遠望している部分は、こんな場所だった。
道の周囲には青々とした樹木の茂る地面があった。
旧大沢橋に向かって緩く下って行く県道の右側に、車止めのある細い道が分かれている。
それが旧々大沢橋へと通じる道だった。両者はここから50mほど並走してから橋を渡った。



この場所の“いま”を、見たくないか?

湖面ギリギリの高さに浮かび、あるいは沈んでいる大沢橋を、間近に見たくないか?!

急遽、湖畔へ下りて探索することにした!




 2度の移転を経験したものたち


2020/6/3 16:07 《現在地》

急遽、湖畔へ下りての探索を決行することに決めた我々だったが、どこから下りるかを考えることが最初の仕事となった。
しかしこれは実は簡単で、「地域に開かれたダム」を標榜している津軽ダムゆえか、湛水後も湖面利用がしやすいように付替県道の複数箇所から湖畔へのアプローチが可能である。車止めがあったりして、さすがに自動車のままでという訳にはいかないが。

そしてそんな湖面利用のための拠点施設のひとつが、目指す大沢橋のすぐ近く、冒頭の写真を撮影した現県道の川原平橋の西側袂の位置に存在する。その名も、津軽白神湖パークという。
そこから湖面へアプローチすることにした。

右写真は、津軽白神湖パークの入口の様子である。目の前の道が現県道で、左奥が川原平橋だ。
またチェンジ後の画像は、ほぼ同じ位置から撮影した2010年当時の写真だ。当時まだ川原平橋は橋脚を建てている最中だった。
そして――



これも2010年の写真で、上のチェンジ後の写真にある左の道(=工事用道路)から、旧県道が通っていた当時の美山湖畔を見下ろして撮影したものだ。
写真中の赤線の位置を旧県道が通っており、右奥の木々の隙間に大沢橋が見えている。
この大沢橋はオレンジ色のアーチ橋で、旧大沢橋ではなく、その隣にあった旧々大沢橋の方だ。

このように新旧の県道は、目屋ダムから津軽ダムへの更新によって貯水位が約30m上昇したことに対応する大きな高低差を持っている。




再び今回の探索時(2020年)の画像だ。
上の画像とだいたい同じアングルで撮影したものだが、景色が変わりすぎていて、俄には信じがたいかも知れない。対岸の山の見え方が信じて貰う根拠となるだろうか。
そして、これから向かおうとしている旧大沢橋が、やはり右奥の方に、新たな湖面に浸かった状態で見えている。

こうした写真の比較から分かると思うが、このアプローチ地点の地上は津軽白神湖パークとして徹底的に再整備されていて、かつての無骨な工事用道路は跡形もなくなって、全く完備した公園に変わっている。



改めて、現在地の津軽白神湖パーク周辺の地形図の変化も見てみよう。

現在は公園として整備されている半島状の地形を旧県道が横断していたのだが、巨大な盛り土によって地面ごと埋め戻されているので、この部分は本当に跡形がない。等高線の形まで変わっているのが分かると思う。

このような大変貌の中にあって、隣接する旧大沢橋が湖中で撤去されずに残っているという事実に衝撃を覚える。




我々はパーク内の入口に近いところにある駐車場に車を止め、自転車に乗り換えてから園内の探検を始めた。
すぐに目に付いたのが、3つの石碑が丘の上に集められた一角だ。
ここに立ち並ぶそれぞれの碑に、ここではない場所での見覚えがあった。

すなわち、これらは水没区画から移転してきた古い石碑たちだった。
碑へのリスペクトを感じさせる美しい様態で安置されていて、またチェンジ後の画像のような分かり易い解説板も併置されていて、実に素晴らしかった。

集められている3基の碑のうち2つは、水没した地区の偉大な先人に関する頌徳碑で、残りの1基が特に私の印象に残っている碑だった。



それがこの碑↑ 目屋林道開通記念碑

「弘前営林署長齋藤正雄書」の揮毫があるこの大きな自然石を用いた碑は、
現在の県道岩崎西目屋弘前線の元となった目屋林道の開通を記念して、
昭和10(1935)年に建立されたものと、隣の解説板に説明されていた。

『西目屋村誌』によると、昭和7(1932)年に県道弘前川原平線が初めて認定されている。
この路線名の通り、当時の県道の終点は、大沢橋東側の川原平にあった。
そして村誌に目屋林道に関する記述はないが、県道の川原平の終点から、
岩木川上流の暗門の滝方面へ向けて開設された林道だったのだろう。
この林道は後に岩崎村へ抜ける弘西林道へ組み込まれた。そして同林道の開通後、
県道弘前川原平線とともに、県道岩崎西目屋弘前線に組み込まれたのである。

だが、この最初の目屋林道は、昭和35(1960)年に完成した目屋ダムに水没している。
この碑が最初に置かれていた地点は不明だが、その場所も水没したらしく、移転している。
だが、それからまた60年近く後、平成29(2017)年完成の津軽ダムでも再び水没し、
2回目の移転によって現在の在処を得たのだった。本来は動かないものの代表のような石碑が、
ダム湖への水没によって2度も移転したという、珍しい経緯を持った碑である。



せっかくなので、1つ前の在処もご覧いただこう。
例によって平成22(2010)年の写真だが、赤矢印のところにあるのが、目屋林道開通記念碑だ。

この撮影場所は、現在は湖底に沈んでいる砂子瀬地区の旧県道沿い、県道西目屋二ツ井線分岐地点の角地だった。
移転前の位置移転後の位置
撮影当時、もう集落の移転は終わっていて、周囲の建物はダム工事関係の仮設建築ばかりだった。

なお、背後に見えている空中で切れた橋は、工事中だった現県道の砂子瀬橋だ。(もの凄く空中に張り出した橋の先端が物理的に不安定そうに見えるが、これはヤジロベー工法という名前の通り、一本の橋脚の両側に橋桁を均等に張り出させてバランスを取りながら全体を完成させる最中の風景である。とはいえこれが張り出し方のMaxであろう。ここまで張り出している状況はなかなか見ない)

ところで、当時この場所にはもう1つ碑があった。
もう1つの碑は、砂子瀬部落移轉(転)記念碑」というもので、「衆議員議員津島文治書」の揮毫があった。また裏面に「昭和三十五年十月建立」と刻まれていた。
こちらも目屋林道開通記念碑同様、目屋ダムの建設に伴って水没地から移転し、その時の付替県道の路傍にまとめられたものだった。

これから述べる内容は碑に書かれているわけではないが、砂子瀬の移転について少し付記したい。
碑の揮毫者である津島文治は戦後の最初の公選青森県知事で、目屋ダムの計画を進める立場であった。(ちなみに太宰治の実兄である)
当時、目屋ダムの建設によって砂子瀬と川原平の2地区に属する集落の合計92世帯が移転対象になった。先祖代々の住処を離れがたい彼らは、はじめ強い反対の姿勢を取った。だが、ダムの建設を待ち望む直接の受益者である下流の農民を中心に、移転予定地区の住民に対して無償で一握りの米を差し出すという「米一握り運動」が起こった。この義捐活動が移転住民の心を動かし、最終的に円満に解決したそうだ。

このとき、砂子瀬と川原平の住民の多くは、もともと河岸段丘地形の段丘面であった美山湖畔の平地に移転した。
そのようにして元の土地の近くに残った人々や、その子供たちは、津軽ダムによる2度目の移転を経験することとなった。
もはや湖畔に新たな住処となるべく段丘面はなく、下流や遠地への移転を余儀なくされたのであった。
これが、石碑の移転の背後にある、血の通った物語だ。

砂子瀬部落移転記念碑も津軽ダムによる2度目の移転を果たしていて、現在は同ダムサイトの天端左岸で見ることが出来る。



16:42 《現在地》

石碑の話で少し脱線したが、いまは旧大沢橋を目指している最中だ。
私とHAMAMI氏は駐車場でそれぞれの自転車に乗り換えてから、車止めとして置かれているコーンをすり抜け、真新しい園路を半島の先端目指して下って行った。
やがて行く手に青い湖面が広がってくると、そこに駐車場ともヘリポートとも思えるような舗装された大きな広場があった。
道はこの広場で左奥と右奥に分かれていくが、右奥の道は津軽ダムの名物である水陸両用バスを進水させるための傾斜路に通じている。

旧大沢橋はいま見えないが、右奥の方にあるはずなので、我々も右奥の道へ向かった。




これが右奥の道の入口だが、ここで我々は航空写真とGPSを見た。
このまま道を進んでも、旧大沢橋がある旧県道跡には通じていないようである。
パークの園路と旧県道の関係は、後者を地面ごと埋め立てた新たな地表に前者が敷かれているのであって、完全な没交渉なのである。

そんなわけだから、我々はここで園路という名の道を棄て、ちょうどこの写真の正面辺りからただの草むらを進んで、最短距離で旧大沢橋へ向かうことにした。




盛り土のために高台になっている地面の向こうに、目指す領域が現われた!

美しく整備された公園の一段下に、水没の経験を物語る黄色い色味を帯びたアスファルトの旧道路が、荒れ果てた漂流船のような姿で横たわっていた。
最初に川原平橋の上から見た印象の通り、両側を青い水面に囲まれた廃道が、水面スレスレの高さに浮上しつ、あるいは潜りつ、対岸まで続いていることが見て取れた。

微妙な水位によっては、このまま自転車で走破することさえ可能かも知れない。
もし、架かったままで水中に没した橋を渡ることが出来たら、それは20年を越える長い私の探索活動の中でも、極めて稀な体験となるだろう。



16:44 《現在地》

労なく旧県道の路面に到達した!

この探索時より8年前の8月11日の猛暑の日、大型ダンプの巻き上げる砂塵と、岩を砕く重機の喧騒する中、少し肩身の狭い思いをしながら、最後だと思って漕いだ路上に、戻ってきた。

津軽ダムの完成は平成29(2017)年だが、実際はそれより前に試験湛水が行われており、最初に満水位に到達したのはその前年、平成28(2016)年4月18日だった。
したがってこの直前に、旧県道は誕生以来初めて湖面に没したことになる。この探索の約2年前のことであった。これまで多くのダム水没廃道を探索したが、水没からこんなに日の浅い道を訪れたのは初めてかも知れない。

道なき斜面を下って辿り着いた旧県道は、ここから両側へ延びていたが、まずは左へ向かって大沢橋を目指そう。
反対側は帰り道として使えるかも知れないので、その時にチェックする。




さあ、刻まれろ!

刻まれるはずのなかった新たな轍よ!!




もうここから先は水没道路!!

ちょうど旧道と旧旧道の分岐地点だったところだ。



「見覚えのある場所だよ…ここ……。」


そう言った後、すぐに次の言葉は継げなかった。

しかし、感傷に浸りながらも、現金に探索の道筋を探る目も走った。

遠景からは分からなかったが、左の旧道は、思っていたより……



深い。



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