2020/6/3 16:07 《現在地》
急遽、湖畔へ下りての探索を決行することに決めた我々だったが、どこから下りるかを考えることが最初の仕事となった。
しかしこれは実は簡単で、「地域に開かれたダム」を標榜している津軽ダムゆえか、湛水後も湖面利用がしやすいように付替県道の複数箇所から湖畔へのアプローチが可能である。車止めがあったりして、さすがに自動車のままでという訳にはいかないが。
そしてそんな湖面利用のための拠点施設のひとつが、目指す大沢橋のすぐ近く、冒頭の写真を撮影した現県道の川原平橋の西側袂の位置に存在する。その名も、津軽白神湖パークという。
そこから湖面へアプローチすることにした。
右写真は、津軽白神湖パークの入口の様子である。目の前の道が現県道で、左奥が川原平橋だ。
またチェンジ後の画像は、ほぼ同じ位置から撮影した2010年当時の写真だ。当時まだ川原平橋は橋脚を建てている最中だった。
そして――
これも2010年の写真で、上のチェンジ後の写真にある左の道(=工事用道路)から、旧県道が通っていた当時の美山湖畔を見下ろして撮影したものだ。
写真中の赤線の位置を旧県道が通っており、右奥の木々の隙間に大沢橋が見えている。
この大沢橋はオレンジ色のアーチ橋で、旧大沢橋ではなく、その隣にあった旧々大沢橋の方だ。
このように新旧の県道は、目屋ダムから津軽ダムへの更新によって貯水位が約30m上昇したことに対応する大きな高低差を持っている。
再び今回の探索時(2020年)の画像だ。
上の画像とだいたい同じアングルで撮影したものだが、景色が変わりすぎていて、俄には信じがたいかも知れない。対岸の山の見え方が信じて貰う根拠となるだろうか。
そして、これから向かおうとしている旧大沢橋が、やはり右奥の方に、新たな湖面に浸かった状態で見えている。
こうした写真の比較から分かると思うが、このアプローチ地点の地上は津軽白神湖パークとして徹底的に再整備されていて、かつての無骨な工事用道路は跡形もなくなって、全く完備した公園に変わっている。
改めて、現在地の津軽白神湖パーク周辺の地形図の変化も見てみよう。
現在は公園として整備されている半島状の地形を旧県道が横断していたのだが、巨大な盛り土によって地面ごと埋め戻されているので、この部分は本当に跡形がない。等高線の形まで変わっているのが分かると思う。
このような大変貌の中にあって、隣接する旧大沢橋が湖中で撤去されずに残っているという事実に衝撃を覚える。
我々はパーク内の入口に近いところにある駐車場に車を止め、自転車に乗り換えてから園内の探検を始めた。
すぐに目に付いたのが、3つの石碑が丘の上に集められた一角だ。
ここに立ち並ぶそれぞれの碑に、ここではない場所での見覚えがあった。
すなわち、これらは水没区画から移転してきた古い石碑たちだった。
碑へのリスペクトを感じさせる美しい様態で安置されていて、またチェンジ後の画像のような分かり易い解説板も併置されていて、実に素晴らしかった。
集められている3基の碑のうち2つは、水没した地区の偉大な先人に関する頌徳碑で、残りの1基が特に私の印象に残っている碑だった。
それがこの碑↑ 目屋林道開通記念碑。
「弘前営林署長齋藤正雄書」の揮毫があるこの大きな自然石を用いた碑は、
現在の県道岩崎西目屋弘前線の元となった目屋林道の開通を記念して、
昭和10(1935)年に建立されたものと、隣の解説板に説明されていた。
『西目屋村誌』によると、昭和7(1932)年に県道弘前川原平線が初めて認定されている。
この路線名の通り、当時の県道の終点は、大沢橋東側の川原平にあった。
そして村誌に目屋林道に関する記述はないが、県道の川原平の終点から、
岩木川上流の暗門の滝方面へ向けて開設された林道だったのだろう。
この林道は後に岩崎村へ抜ける弘西林道へ組み込まれた。そして同林道の開通後、
県道弘前川原平線とともに、県道岩崎西目屋弘前線に組み込まれたのである。
だが、この最初の目屋林道は、昭和35(1960)年に完成した目屋ダムに水没している。
この碑が最初に置かれていた地点は不明だが、その場所も水没したらしく、移転している。
だが、それからまた60年近く後、平成29(2017)年完成の津軽ダムでも再び水没し、
2回目の移転によって現在の在処を得たのだった。本来は動かないものの代表のような石碑が、
ダム湖への水没によって2度も移転したという、珍しい経緯を持った碑である。
せっかくなので、1つ前の在処もご覧いただこう。
例によって平成22(2010)年の写真だが、赤矢印のところにあるのが、目屋林道開通記念碑だ。
この撮影場所は、現在は湖底に沈んでいる砂子瀬地区の旧県道沿い、県道西目屋二ツ井線分岐地点の角地だった。
(移転前の位置→移転後の位置)
撮影当時、もう集落の移転は終わっていて、周囲の建物はダム工事関係の仮設建築ばかりだった。
なお、背後に見えている空中で切れた橋は、工事中だった現県道の砂子瀬橋だ。(もの凄く空中に張り出した橋の先端が物理的に不安定そうに見えるが、これはヤジロベー工法という名前の通り、一本の橋脚の両側に橋桁を均等に張り出させてバランスを取りながら全体を完成させる最中の風景である。とはいえこれが張り出し方のMaxであろう。ここまで張り出している状況はなかなか見ない)
ところで、当時この場所にはもう1つ碑があった。
もう1つの碑は、砂子瀬部落移轉(転)記念碑」というもので、「衆議員議員津島文治書」の揮毫があった。また裏面に「昭和三十五年十月建立」と刻まれていた。
こちらも目屋林道開通記念碑同様、目屋ダムの建設に伴って水没地から移転し、その時の付替県道の路傍にまとめられたものだった。
これから述べる内容は碑に書かれているわけではないが、砂子瀬の移転について少し付記したい。
碑の揮毫者である津島文治は戦後の最初の公選青森県知事で、目屋ダムの計画を進める立場であった。(ちなみに太宰治の実兄である)
当時、目屋ダムの建設によって砂子瀬と川原平の2地区に属する集落の合計92世帯が移転対象になった。先祖代々の住処を離れがたい彼らは、はじめ強い反対の姿勢を取った。だが、ダムの建設を待ち望む直接の受益者である下流の農民を中心に、移転予定地区の住民に対して無償で一握りの米を差し出すという「米一握り運動」が起こった。この義捐活動が移転住民の心を動かし、最終的に円満に解決したそうだ。
このとき、砂子瀬と川原平の住民の多くは、もともと河岸段丘地形の段丘面であった美山湖畔の平地に移転した。
そのようにして元の土地の近くに残った人々や、その子供たちは、津軽ダムによる2度目の移転を経験することとなった。
もはや湖畔に新たな住処となるべく段丘面はなく、下流や遠地への移転を余儀なくされたのであった。
これが、石碑の移転の背後にある、血の通った物語だ。
砂子瀬部落移転記念碑も津軽ダムによる2度目の移転を果たしていて、現在は同ダムサイトの天端左岸で見ることが出来る。
16:42 《現在地》
石碑の話で少し脱線したが、いまは旧大沢橋を目指している最中だ。
私とHAMAMI氏は駐車場でそれぞれの自転車に乗り換えてから、車止めとして置かれているコーンをすり抜け、真新しい園路を半島の先端目指して下って行った。
やがて行く手に青い湖面が広がってくると、そこに駐車場ともヘリポートとも思えるような舗装された大きな広場があった。
道はこの広場で左奥と右奥に分かれていくが、右奥の道は津軽ダムの名物である水陸両用バスを進水させるための傾斜路に通じている。
旧大沢橋はいま見えないが、右奥の方にあるはずなので、我々も右奥の道へ向かった。
これが右奥の道の入口だが、ここで我々は航空写真とGPSを見た。
このまま道を進んでも、旧大沢橋がある旧県道跡には通じていないようである。
パークの園路と旧県道の関係は、後者を地面ごと埋め立てた新たな地表に前者が敷かれているのであって、完全な没交渉なのである。
そんなわけだから、我々はここで園路という名の道を棄て、ちょうどこの写真の正面辺りからただの草むらを進んで、最短距離で旧大沢橋へ向かうことにした。
盛り土のために高台になっている地面の向こうに、目指す領域が現われた!
美しく整備された公園の一段下に、水没の経験を物語る黄色い色味を帯びたアスファルトの旧道路が、荒れ果てた漂流船のような姿で横たわっていた。
最初に川原平橋の上から見た印象の通り、両側を青い水面に囲まれた廃道が、水面スレスレの高さに浮上しつ、あるいは潜りつ、対岸まで続いていることが見て取れた。
微妙な水位によっては、このまま自転車で走破することさえ可能かも知れない。
もし、架かったままで水中に没した橋を渡ることが出来たら、それは20年を越える長い私の探索活動の中でも、極めて稀な体験となるだろう。
16:44 《現在地》
労なく旧県道の路面に到達した!
この探索時より8年前の8月11日の猛暑の日、大型ダンプの巻き上げる砂塵と、岩を砕く重機の喧騒する中、少し肩身の狭い思いをしながら、最後だと思って漕いだ路上に、戻ってきた。
津軽ダムの完成は平成29(2017)年だが、実際はそれより前に試験湛水が行われており、最初に満水位に到達したのはその前年、平成28(2016)年4月18日だった。
したがってこの直前に、旧県道は誕生以来初めて湖面に没したことになる。この探索の約2年前のことであった。これまで多くのダム水没廃道を探索したが、水没からこんなに日の浅い道を訪れたのは初めてかも知れない。
道なき斜面を下って辿り着いた旧県道は、ここから両側へ延びていたが、まずは左へ向かって大沢橋を目指そう。
反対側は帰り道として使えるかも知れないので、その時にチェックする。
さあ、刻まれろ!
刻まれるはずのなかった新たな轍よ!!
もうここから先は水没道路!!
ちょうど旧道と旧旧道の分岐地点だったところだ。
「見覚えのある場所だよ…ここ……。」
そう言った後、すぐに次の言葉は継げなかった。
しかし、感傷に浸りながらも、現金に探索の道筋を探る目も走った。
遠景からは分からなかったが、左の旧道は、思っていたより……
深い。