私の山チャリ史



 「山チャリ」という単語を、私がいつごろから使い始めたのか?どこで知ったのか?
今となってははっきりしたことは分からないが、多分96年頃から使っていたと思う。

80年代前半 〜チャリとの出会い


 幼稚園に通っていたころ、初めて自転車に乗れた。
俺にとって物凄く劇的な事であるが、残念ながら殆ど記憶がない。
当時、神奈川県の川崎市から横浜市に引っ越したすぐ後であったとおもう。


80年代後半 〜小学生時代


 いま思うと、我が家は家族旅行がすきでよく行っていた、そして一番連れていかれて楽しかったのが、山だった。
この頃から、目的地での観光より車で移動する過程が一番好きで、何よりトンネルと山道が大好きだった。
親父は車が傷つくのを恐れてか悪路には行きたがらなかったがそのことでよくダダをこねて怒られた。
だから、たまに予想外に現れる悪路が嬉しくてたまらなかった。
「いつか、誰にも気兼ねすることなく好きなだけこの山を走りたい!」そう思ったものだった。
この頃既に自転車が好きで、帰りを考えず夕方まで家の近くを流れていた鶴見川の河川敷をひたすら遡ったりして、帰りが遅くなり怒られた。


89年 〜引っ越しと出会い


 小学6年生の夏に秋田県天王町に引っ越した。
都会と違い、生の自然がそこらじゅうにある秋田の大地は、住み心地の良いものだった。
しかしまだ、山チャリには目覚めてはいない。
 間もなく保土谷ずい道に出会い…どんな出会いであったのか忘れてしまったが…いずれ、親友となった。
ちなみにそれまで使っていたガキチャリは、横浜に捨ててきた・・・。(この頃から既にチャリ自体への執着は少なかったらしい。)


91年 〜山チャリに目覚める


 中学2年の初夏、保土谷と初めて林道を走る。
きっかけは、「秋田のハイキング 低山徘徊」という郷土書である。
市内の大滝山に向かった2人を待ち受けていたのは、初めての林道と峠であった。
町には無いどこまでもどこまでも続く登りに愕然となり。喘ぎ喘ぎ何とか登りつめたものだが、それは今も変わらぬ光景。
ただ、その後初めてのダウンヒルで受けた衝撃は、その後暫く我々をスピード狂と化けさせた。
また、目的の大滝山山頂で見た、秋田市の素晴らしすぎる眺望は、疲れを全て吹き飛ばすほどであった。

 この旅の前から、2人とも家の近くの海岸の砂防林をよく走っていたが、当時保土谷はママチャリだった!
俺は、いつのまにか2万円のMTB(なんちゃってMTB?!)に乗っていたが。

 この旅以来、2人は益々山チャリにはまり込み秋田市内の各地を走る。
この時期に早くも、山チャリで遭遇し得る様々な障害を一通り味わったように思う。
パンク(修理法も覚えた)、突然の夕立、落し物、迫りくる夕暮れ、事故、転倒、怪我、…。
ルーキーゆえの危機的状況もあったが、走る全ての道が新鮮で、見える全ての景色が鮮烈であった。


94年 〜トリオの結成と、活躍

<第一次全盛期>

 中学3年の時ホリプロに出会い…出合いのキーワードはピーシーだったかも…、親友に。
彼も山好きだった様で、間も無く山チャリに参加する。
ただ彼にとっては、そこいらの山さえも街乗りの延長だったようだが……げに恐ろしきママチャリ野郎!

 この年より97年まで毎年一回のキャンプサイクリングを実施、その度に多くの伝説が生まれた。

 本当にみんな山チャリが好きで、高校に上がり学校が離れてからも、休みの度に計画を練り、また時には無計画に。
深夜誰からとも無く電話で「山さいがねが?」…、そんなことも一度きりではなかった。
とにかく、毎月何度も何度も、走った。
 私は今でもこの時代のことを忘れられないが、それは皆同じであるという。
トリオの再結成の日は、きっといつか訪れると信じる。 (ヤベ、ちょっとアッつくなってしまったでぇ。)


97年 前半 〜忙しくなる

 トリオのメンバーのうち、俺を除いてはやや山チャリから遠ざかり始める。
保土ヶ谷は、体力の限界を訴え(これはガセと思うが…)。
ホリプロは、ピーシーに専念…ではなく、専門学校が忙しく、また大好き(愛してる?)な”車”趣味に傾倒していった。

 この年のキャンプサイクリングにおいて、とりあえず「今年が最後」と事前に話し合っていたのだが、トリオの締めくくりとなるような、余りに無茶なクライマックスが用意されていた。
それは全くの計画外のアクシデントであったが、私は内心嬉しく思った。
きっと、他のメンバーもそうだったに違いない。

 60Kmに及ぶ弘西林道と、100Kmに及んだ徹夜の帰還行、その最終日は歴史的な行程となった。


97年10月 〜暴走の時代

<第二次全盛期>

 突如思い立った2日後に、仙台への1泊3日の往復500Kmサイクリングを決行したことを皮切りに、堰をきったように長距離サイクリングを行った。
殆どは一人きりで行ったのだが、さながらストレス発散のような無茶な旅ばかりであった。
トリオの他のメンバーと俺との山チャリに対しての温度差に耐え切れなくなった為の、暴走。
一人で走ることは、俺の走りの欲求を極限まで突き詰めることを可能とした。
トリオで走ることは、少なからず俺のリミッターとして働いていたのだった。

「引き返したくない!!」

その欲求が、俺を多くの廃道に突入せしめ、血を流した。

そう、山チャリストとして自分のスタイルを確立し、現在に近い理念に至ったのもこの頃なのだ。


98年10月 〜倦怠期


 昨年秋以来、目的地までの往復に10時間も掛かってしまうような遠距離サイクリングが続く中で、何度も同じ場所を走るのに辟易していた。
そんなさ中、暴走一周年記念(?)として企画していた1泊3日の計画が出発直後、不意のアクシデントにより2度も頓挫し、興ざめ、ついに切れる。
この年の冬は、ぜんぜん走らなかった。


99年 春 〜輪行開始


 輪行袋をゲット。
往復の煩わしさから開放された私は、それまで日帰りが難しかった県南を中心に、幾つかの大きな計画を成功させた。
また、6代目のMTB(なんか高いヤツ)を購入。
これにより、なんチャってMTB時代は終わったが、それまでと同じ様な無茶(幼稚)な走りを繰り返しています。

 しかしその後、夏の猛暑が訪れると、突如山チャリ魂はクールダウン。
そのまま、ミレニアムを迎える。


2000年 春 〜激写BOY登場!!


 デジカメゲット!
これにより、これまで一度走った場所についても意欲が復活してきた。
ただ走るだけでなく、写真をとるという目的と楽しみが山チャリに加わったのだ。

「こいつは楽しいわい!」


2001年 21世紀の幕開け 〜そして、今

 
 んで、今なんだけどさ。
仕事忙しいのよ…。

今年は、久々に泊り込みのやつをやりたいなー。
夢は膨らむ。
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