その49東北本線 旧浦島隧道2004.3.14撮影
 青森県青森市 


 東北本線の長き鉄路も終わりに近い、浅虫温泉から終点青森までの約20kmの大部分が、開業時とは異なるものであることは、比較的よく知られている。
この路線の改廃については、廃線探求者のバイブル的存在である『JTBキャンブックス刊 鉄道廃線跡を歩く』の第2刊に詳しいが、この名著を読んでいて、いつも私が気になってしまうことがある。
それは、幾度と無く出現する廃隧道について、内部の様子が紹介されていないことだ。
私だったら、隧道だったらまず入る。
行き止まりだと言われていても、反対側の坑口が存在しないことをこの目で確かめていたとしても、やはり、入る。
それは、私が隧道を好むからに他ならない。

そういうわけで、この区間に存在する「旧浦島隧道」を、内部を含め紹介しよう。




 今回のレポは、東北本線を青森から出発して4つめの駅である、野内駅よりはじめよう。
この野内駅は明治26年に開業しており、一足早く明治24年に開業していた青森、浅虫(現:浅虫温泉)間に追加された駅である。
その当時は、この駅を出ると青森駅まで一駅もなかった。
また、東北本線というのは明治39年に国有化されて以来の名称であり、当初は日本鉄道会社という会社の敷設した私鉄だった。(全長700kmにも及ぶ私鉄!)

野内駅の山側には、採石場の積み出しホッパーが廃景を曝している。



 東北本線は野内から出ると、すぐにその旧線が向かって右手に並走する。
しかし、そこには車道はなく、草地となっているのみで通行は難しい。
ここは、山側を迂回する県道を利用し、旧浦島隧道の坑門へと進むことにする。
この県道は、青森県一般県道259号「久栗坂造道線」で、その大部分は国道4号線の旧道である。
現在でも、かつての一級国道の雰囲気を、微かに残している気がしないでもない。




 野内駅前から県道を500m弱で、旧線へのアプローチである、三井石油のプラントへの分岐点が左に現れる。
ここには守衛はいないが、この先一般車の立ち入り禁止されている。

チャリに跨って、コソコソと(巨大なプラントは現在線の反対側の海岸沿いにあり、線路手前までは監視されていないようだ)急坂を下る。




 下っていくと、正面には現在線の浦島トンネルが巨大な複線断面をあけている。
車道はそこを掠めて、そのまま線路の下を潜りプラントに続いているが、ここには信号機が設置されている。
見ていたところ、この信号は決して赤から変化しないようだ。
おそらくは、許可の出ている車が接近した時だけ、青になるのだろう。
この先に進むのは、さすがに躊躇われたが、幸いにして、旧線は現在線の山側にあり、これ以上進む必要はなかった。
チャリを信号の傍に置いて、徒歩で旧線に進む。



 線路の反対側には、巨大な石油タンクがそそり立っている。
また、さすがに幹線。
5分に一回は列車の往来がある。

この辺の線路が現在線に切り替えられたのは、昭和42年のことだ。
それまでは、単線だった。




 労なく旧線の築堤と思しき盛り土を発見。
盛り土は、先ほどまで私がいた県道も越える低い鞍部へ向けて真っ直ぐ続いている。
低いとはいえ、鉄道ではここを突破するにも隧道以外にはあるまい。

早くも、目的の隧道大接近の予感。



 さっそくにして、深い藪の奥に隧道の姿を発見。

この隧道を紹介している『無明舎出版刊 とうほく廃線紀行』にも、この坑門前をして「夏場は草木に覆われ、近づくは大変」とあるが、冬季ですらこの有様では、それも間違いないだろう。
イバラに気をつけて、さらに坑門へと近づく。



 現れた坑門は、黒い重厚なものであった。
これまで見てきた鉄道隧道の中で古いものは、奥羽本線の沿線に点在する、明治30年代後半に竣工したものであったが、これはさらに10年以上古いものだ。
東北で見られる鉄道隧道としては、最古の部類とも言える。
明治24年竣工、浦島隧道の姿だ。

ちなみに、万世大路は栗子山隧道(初代)の竣工は明治13年だったし、秋田県では二ツ井町のきみまち坂隧道が明治22年の竣工である。

僅か200mほどの隧道だったようだが、意外な構造物が残っていた。




 この隧道が昭和42年まで現役だったことも驚きだが、なによりも坑門が崩れもなく、きわめて良好な状態なのに吃驚した。
しかも、あそこに見えるは、扁額の姿ではないか!
鉄道隧道では余り見ることがない扁額が、このような短い隧道にも据え付けられているとは。
残念ながら、文字は完全に消えてしまっているが。






 内部へも容易に侵入することが出来るが、風の流れはなく、短いはずの隧道に光はない。

此方側の坑門の様子が良いだけに、通行可能を期待したのだが…。
怪しいムードだ。




 内部はさすがに老朽化が進んでいる様子だが、それでも見える範囲に崩落はない。
意外だったのは、内壁が煉瓦のままだったことだ。
コンクリートで補強する様な処置がとられがちだが、この隧道は、そのような痕跡が見られない。
廃止寸前までよほど煉瓦の状態が良かったのか?



 特に障害もなく、どんどんと歩くことが出来たが、進むこと150mほどで、突如として洞床が高くなってきた。
そして、そのまま30mほどで、完全に天井に洞床が触れて、閉塞してしまった。
まるで、流動体が出口から侵入してきたような埋まり方だが、実際は足元の土は硬く、重機などが入って埋めてしまった感じに見える。
諦めきれず、閉塞部分に身をよじらせてみても、やっぱり閉塞している。
出口の明かりはおろか、風も感じられない。



 ただし、閉塞部には、生きているっぽい木の根が頭上に見えたし、何かしら人工物が天井より高い位置の土砂に、半分だけ見えた。
これは不自然である。
天井に崩落や決壊の痕跡はないのに、なぜ閉塞部のみ天井より高い位置に空洞が存在し、しかもその上部に人工物が埋設しているのだろうか…?

かなり謎は深かったのだが、反対側を確認して少し納得することになった。




 いずれにしても、残念ながら旧浦島隧道は閉塞しており、通行は出来ない。
ここまでの路面は、轍などがある訳でもなく、特に再利用されてはいない。
枕木を撤去した後の凹凸がまだ、鮮明に残っていた。




 坑門付近の美しい煉瓦の光沢。

隧道の断面の形状は、どことなく独特なものに見える。
そんな印象を受けたのはもしかしたらただの勘違いかもしれないが、まだ断面の形状に統一規格が登場してくる前の、しかも私鉄として建設された隧道であるから、あり得ることだ。
この辺の事情は、奥羽本線など国営で建設されたものとは一線を画する。




 隧道を出て、県道に戻り反対側の坑門を確認しようと山を越えると、そこには巨大な廃雪の山が出来上がっていた。
「ここが坑門でないでくれ!」と祈ったが、辺りを見れば見るほど、この場所がかつて坑門のあった場所で間違いは無さそうだ。

はたして、この雪が解けた時、そこには坑門の姿が無事に現れるのだろうか…。

内部の様子から言って、埋められてしまったのだろうと思える。
それに、閉塞部の頭上にあった人工物は、坑門を覆う土砂や、或いは産廃の片鱗だったのではないだろうか。
外部から推定される隧道の延長と、実際に閉塞部までの内部延長を勘案すると、ますますそう思える。

夏の様子をご存じの方、ご一報下さい。





 浦島隧道から続く旧線跡の掘り割りを左に見つつ、県道も浅虫温泉方向へと下っていく。
この先浅虫温泉までは、もう二の隧道が存在していたが、そのうちの一つは複線化の際に改築され現行であり、もう一つは、国道の改築によって姿を消して久しいという。

いずれは、この改築によって消えたという「久栗坂隧道」の跡地も紹介したいと思う。






 


2004.3.29作成
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