その77山形一般県道342号線 大学橋2005.3.2撮影
山形県東田川郡余目町廻舘



 山チャリ活動を続ける中で得られる楽しみは多いが、そのなかでも、街のなかに融けこんだ現役の古物件を見つけた時の、なにか愛おしい気持ちは、なんだろうか。

「 ああ、 まだ頑張っていたのか 」

そんな声を、思わずかけたくなってしまう。
全然派手ではないが、私の悦びには欠かせない存在。

それが、地図を眺めただけでは決して分からない、小さな街の古物件




 

 国道47号線を酒田から新庄へと向かう途中、余目町廻舘交差点を通過時に、なんとなく右手の県道の入り口に違和感を感じた。
このような違和感が、小ネタ発掘のきっかけとなることは、多い。
今回も、そのうちの一つである。

青看には、
→県道342号(西袋)
←県道358号(小出新田)

とある。
この地点は、県道342号線の終点であり、358号線の起点でもある。





 違和感の正体をつかむため、右折して県道342号線に入る。
この道は西袋廻舘線といい、同町内の羽越線西袋駅付近よりここまでの、約2.5kmと短い県道だ。
センターラインも敷かれていない、いかにもローカルなムードの生活道路。
何となくそそられるものがあったが、違和感の正体は、この先ではなく、今私が立っている、その足もとにあった。




 振り返ると、国道の交差点までの僅かな距離に、二つの橋が並んでいる。
いずれも、何の変哲もないと表現しても、何ら問題ないだろう、いたってフツーな、コンクリート橋である。

…かのように見える。

だが、手前に見える橋の様子は、どうもおかしい。
これが、違和感の原因であったことは、確定的だ。
しかし、何がおかしいのか…・。




 橋の名は、大學橋。
学ぶの字は旧字体が使われており、重厚な厚みをもった欄干の様からも分かるとおり、古い橋である。
そして、この橋のもっとも肝心な部分は、この橋が、何も渡っていないことにある。

古今東西、橋とは、何かを跨ぐために設けられた建築物と相場が決まっている。
しかし、この橋に関しては、まるっきり、欄干の外は民家の庭先なのだ。
これまでも、河道変化や河川改修などによって、橋から流れが消えて、欄干だけが残ったケースを目撃したことはあったが、大概欄干の片方は撤去されていたり、また河川跡は更地のままであったりした。
しかし、この大学橋は、まるっきり川は消えてしまい、その役目は奥の橋にバトンタッチしている様なのに、欄干はおろか、銘板まで現存するレアケースである。




 欄干の外の様子。
車道と同じ高さにしっかりと地面があり、そのまま民家(駐在所)の軒下である。
反対側の様子も、同様であった。
もはや、欄干は、垣根の役目しか果たしていない。




 親柱は、三柱までが現存しており、銘板もそれに対応して、三枚残っている。




 竣工年は、なんと昭和六年であった。
どおりで、年季の入り方が本物だ。

そして、もう一つの注目は、現在とは大きく異なる路線名だ。
大山松嶺線」。
現在、この名を冠する県道はない。
しかし、大山は鶴岡市の大山地区(羽越線羽前大山駅がある)で、松嶺は最上川対岸の松山町松嶺地区のことだろう。
そう考えると、このローカルな道が、かつては主要な路線だったのではないかということに気が付かされる。

このふるき起点・終点間の距離はおおよそ30km。
網の目のように様々な県道が縦横に走る庄内平野だが、大山と松嶺を結ぶ道は、現在はいくつもの県道の部分部分に細分化され、どこがその経路であったのかは判然としない。

そして、このかつての大道が、今はひっそりと生活道路に転じた原因は、交差点の反対に続く、一般県道358号線廻舘松山線にあるのではないかと、私は考えたのである。

以前は大山松嶺線の一部だったことは疑いようのない一般県道358号線には、今時珍しい、「川を渡る橋がないために不通の区間」が存在するのである。





 大学橋の発見により、私の興味は、思いがけず県道358号線の不通区間に注がれることとなった。

こうして、山チャリは転がっていくから、面白いのだ。

さて、おちが付いたところで、終了。
写真は、大学橋の隣にあって、明らかに人工的な水路を渡っている無名の橋。
この水路の完成により、元々の河道は消え、この不思議な光景が生まれたのだと思う。




 
2005.3.9作成
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