廃線レポート  
船岡林鉄 滝の又支線 後編
2004.6.1

一号木橋
2004.4.29 10:28


 滝ノ又支線、起点から600m程の地点。
程度の良い軌道跡を熊への恐怖から、ややペース上げ気味に歩いてきた私の足を、完全に止まらせたもの。
それは、未だかつて見たことがないほどの、大きな木橋の残骸であった。

これまでも、いくつもの林鉄跡で、木橋が存在した痕跡を発見してきた。
だが、これほどまでに姿を留めたものは、これまで見たことがない。
これまで歩いた多くの林鉄は昭和初期頃の竣工が多く、そこにあった木橋もまた、廃止直前の時点でも、もう痛みが進んでいたものも多かったろうと思われる。
しかし、この支線は、昭和33年という開設時期が幸いしたのか、これまで40回余りの冬を耐え、まだ、その形を留めているのだ。

感激した。
感動のあまり、しばし動くことが出来なかった。


 橋は、太さ40cmほどの太い杉の丸太3本を本体構造としたもので、延長は20mほど。
中央部に、やはり木製の橋桁を置き、ここで両岸から伸びる丸太を支えている。
現在は、枕木代わりにもなっていただろう横木は殆どが落ちてしまっているが、中央付近にそれらしいものが2本残存している。
流石に、橋桁には負担が掛かるようで、崩れている。
そのせいで、中央部が落ち込んでいるものの、まだ橋としての体裁は保っている。

私は、ここを渡ってみることにした。
写真は、中央部の接合部分。
巨大な釘で木々はとめられている。
横木がないので、橋渡は平均台の要領となり、スリリングだ。



 橋は、びくともせず、私の通行に耐えてみせた。

僅かな地形の起伏に合わせて、木橋が架けられていたことが分かる。
この程度なら、土木工事でどうにか出来そうだが、木橋の方が工期短縮など、メリットがあったのだろう。
そういえば、本路線については急峻地についても法面の施工というのは一カ所も見られなかった。
路肩の石垣は僅かに見られるが、全体的に長く使う路線ではない設計と言う印象だ。


2号木橋
10:30

 驚きは、連続して訪れた。
一つめの木橋から、わずか50mほど。
再び、木の桟橋が現れた。
先ほどのものよりも短いが、一本の丸太が両岸を渡しているお陰で、傾きもなく極めて良好な状況だ。
しかも、今度は横木もかなり残存している。

迂回は容易だが、この様な状態で木橋を残存させていた林鉄への礼儀として、これも渡る。



 先ほどの写真からは、別に墜落してもどうと言うことのない高度に見えるかも知れないが、実はそうでもない。
谷底を流れる滝又沢は、おおよその斜度70%という、もの凄く急な林(殆どが断崖に等しい)の向こうに音を上げてく流れており、もし丸太を踏み外せば、この斜面に放り出されることになる。
運が良ければ、そこで止まるだろうが、落下の勢いのまま谷へと放り出されれば、肉は削がれ、骨を砕かれるに違いない。

前日の雨に湿気を帯びた丸太は、良くすべる。
慎重に、足を運んだ。

そして、クリアー。


 行く手は、幾重にも連なる山脈。
遠くの稜線が、滝又沢の源流である太平山地の主稜線であり、そのむこうは西木村である。
一際高い山は、大石岳(1059m)だろうか。
本軌道は、この様に人跡稀な奥沢に分け入る道である。




 滝又沢という名にしては、谷底にある流れは意外に優しい。
もっとも、これはその入り口の一つの姿に過ぎないけれども。
このあたりでは水量のわりに河床が広く、無垢な自然に親しむ絶好の水遊び場に見える。
河原に降りるのは容易ではないが。

写真には、残雪残る崖にレールが一条写っている。
軌道敷き上にはレールは見られないが、この様に谷へと落ちたものは、さすがに回収されなかったらしい。


 おなじ鉄道とはいえ、森林軌道ともなればカーブに対する要件は相当に緩い。
それでも、自動車が通う林道と比較すれば、やはりその小回りの効かなさは命取りとなったわけだが。
谷の起伏に沿って素直に蛇行を繰り返しながら、ほぼ水平に奥へと進んでいく。
この軌道は、トラック道へと転用されなかった。
延長が短いせいもあるだろうが、よく林道沿道に見られるような大規模な伐採地が見あたらず、伐採計画自体に変更が生じているのかも知れない。

作られたものではない、生のままの森を往く。


3号木橋
10:34


 





 ろっ、ロケーション最高でーす!!

そう、思わず叫ばずにはいられなかった。
3本目に現れた木橋は、これまでで最大規模だった。
途中に2カ所の接続部(=橋脚)を配し、なによりも、私を最も驚かせたのは、全体で緩いカーブを描くという、その線形だ。
そして、この複雑な接ぎ木細工は、毎冬の数トンにも及ぶだろう積雪重量にも耐え抜いた。
全体が緑の苔におおわれ、相当に腐食も進んでいる。
だが、その橋脚はなお微妙なバランスを保ち、その偉容を支え続けている。




 谷底から標高差100m以上を一気にせり上がる斜面に刻まれた、増水時のみ水を通す涸谷。
カーブを描きながら、木橋はここを渡っている。
この橋については、はじめ渡ることを躊躇した。
墜落を恐れたのではない。

橋を破損することを、心配したのだ。
だが、帰りは堂々と渡った。

橋が人を通さぬなら、そこに在る価値は何だ。
棄てられた橋に今一度存在価値を与えてやりたかった。



 橋長約30m。
あんまりにも良くできていて、アトラクションのようだ。
だが近くで見れば、その年季を経た姿が、作ろうとして作り出せるものでないことを知るだろう。

永遠に崩れて欲しくない林鉄の生き証人だが、次の冬を越せるかは、誰にも分からない。



支線の奥地
10:37

 繊細かつ豪快な木橋の芸術は、さらに奥地へと断続的に続いた。
ご覧の場所のように、桟橋が崩落に呑まれ、埋め立てられたような箇所もある。
進むにつれ、それまで比較的状況の良かった軌道上も、大小の落石が散乱しする荒れた道へと変化していく。



 谷を渡る迂回困難な木橋と、その行く手を立ちはだかる崩れ落ちた切り通し。

こんな、絵になる景色が至る所に見られる。
全長2,1kmという軌道跡は、軌道としては長くはないが、歩くぶんには丁度良い。
冗長な場所のほとんど無いこの路線は、軌道歩きの醍醐味を存分に味わえる、またとない路線だ。
まさか、地図にも載らない末端の路線が、これほどに面白いと思わなかった。




 対岸より撮影。
この橋もかなり大いが、捻れるように崩れ始めており、結構高いこともあって渡るのには勇気が要った。





 殆ど高度を上げない軌道は、徐々に谷底に近づかれてきた。
水音も大きく感じられるようになるが、間もなくそれは、狭い峡谷に谺するような轟音へと変わっていく。
滝又沢の本領発揮は、すぐ先だった。

写真は軌道を横切るワイヤー。
この様な錆びたワイヤーが幾筋が、山上から谷底へと続いていた。
材木の切り出しに使われた索道の痕跡だろうか。



 橋を設けるほどではないけれども、軌道幅が確保できるほど崖を削り取れなかった場所では、このような路肩代わりの大きな丸太が渡されている。
これも一種の桟橋だ。
その丸太の太さに、驚く。

背景は、いよいよ荒々しい姿を見せ始める滝又沢の、一つめの滝。



 木橋を跡形もなく壊し、軌道を削りなお勢いよく落ちる支流の滝。
ここまでの道に多くの木橋が現存していたのは、やはり奇跡的だったのだと感じさせる。
写真では簡単に越えられそうな小川に見えるが、ここは両岸に充分な足がかりが無く、地形も急のため飛び越える以外出来なかった。
結構恐い場所だった。

 


 再び瓦礫の山と化した切り通しの道。
この先いよいよ谷が狭まり、ますます荒々しい斜面が目立つようになる。
軌道敷きの荒廃も、一気に悪化し、ペースも鈍る。
もう500m程度で終点と思われるが、度々頭に去来するのは、熊の恐怖だ。

頼みの綱のラジオを失ってしまった私は、熊よけの道具を一切持ちあわせてない。
仕方がないので、ときおりケータイの着メロを鳴らしながら、歩いた。
沢の音に殆ど掻き消されつつも、微かに谷を渡る「宇宙戦艦ヤマト」のテーマ。

 

連瀑の終点
10:46

 眼下の谷底には、様々な瀑布が連続的に出現した。
雪解けの水量のせいもあるだろうが、それぞれが巨大で立派な滝であり、交通の便さえ良ければそこそこ名の売れた観光地になっていたかもしれない。
滝を一つ見るたびに、一気に軌道敷きと水面との距離は縮まっていく。
この沢に軌道が追いつかれた時が、終点だろうか。
そんな予感がした。



 本路線では余り見られない石組みの土工が、終点も近い場所にあった。



 そして、その先には久々の大きな橋が。
この橋が、現存するものでは最も奥にあるものだ。
ただし、もう渡れない。
次の冬には、雪解けもろともに崖下に消えてしまいそうだ。






 ブナの巨木が、軌道の脇に何本も生えている。
いまでこそブナは、手つかずの大自然の象徴のような、貴重な存在として宣伝されているが、ほんの100年ほど前の日本列島には、低地高地分け隔て無く、至る所に豊かなブナの森があった。
本格的に人が森をお金に換え始めた時、ブナは加工するにも扱いが難しく、林業の対象としては価値の薄い存在になった。
そして、ブナは各地で皆伐の対象となり、代わりに杉が植えられた。
こうして、現在の日本には飽きるほどに杉の森が広がり、ブナは、奥山に残るばかりとなったのだ。

軌道脇のブナの老木。
その恐ろしげな樹皮には、人の身勝手を嫌う怒りの形相が浮かんでいる。




 崩落が進む軌道跡。
既に、判然としなくなっている場所さえある。




 変化に富んだ滝又沢の瀑布群。
余り知られていない場所のように思われるが、もっと積極的にアピールしても良い景勝地だ。
協和町は、軌道跡を再整備し、ここに歩道を設けることを考えないのだろうか。
この地が手垢にまみれる事を望むわけではないが、活用されぬままの資源を惜しいと言う気持ちもある。
本当に、立派な滝の数々だ。




 起点から2kmほど。
いよいよ流れが傍に寄ってきた。
前半はバラストの名残らしい砂利が多く見られた軌道上にも、水辺になるにつれ植生が繁茂し、ますます歩きにくくなる。
木橋の連続地帯が、この支線のハイライトであった。
あそこまでなら、パタ氏のアプローチでも、私のように起点から辿ったとしても、往復1時間も掛かるまい。




 標高はそう上げてないと思うが、残雪が目立つようになる。
それだけ谷が狭まり、陽当たりが悪くなったと言うことかも知れない。
残雪は、まだこの時間比較的堅く、かんじきを用いなくとも歩くことが出来る。

このあたりで、まだ真新しい煙草の吸い殻を一つ発見した。
ポイ捨ては、いけないな。






 軌道敷きを容赦なく打ち、一帯を湿原化している支流の滝。
あたりには、瑞々しい山菜が山ほど生えていた。
自然の恵みを目の当たりにしても、私はそれを収穫しない。
私の目的は、山菜でも、山から何かを搾取することではない。
時に悪戯心でそれらを痛めつけることはあるが…。

私と山は、踏破を志す者と、力を誇示する者という、ライバル関係でいい。
私は、もっともっと沢山踏破したいと言う欲求に身を任せ、旅を続ける。



 遂に沢の流れが手の届く場所に登ってきた。
それとほぼ同時に、軌道は突然幅が広まった。
谷はまだずっと奥まで続いているが、軌道はここで終点だ。
特に、軌道の終点を示す遺構は見あたらないが、間もなく沢の本流に行く手を遮られる。

ここまで、やはり2km強。
時間にして、おおよそ45分間の軌道探索であった。
無論、この後来た道を戻る必要がある。




 終点の突き当たりにある、本流のせせらぎ。
パタリン氏の話では、ここを渡渉して進むとまだ獣道が続いているそうだが、軌道の痕跡はなかったそうだ。
私は、軌道という目的も果たしたことだし、熊も恐いので、早々に引き返す事にした。




 終点の広場の一画には、多数のレールが回収されず放置されていた。
これだけのレールを置き去りにして、廃止の時に何かアクシデントでもあったのだろうか。
それとも、行き場のない回収レールを終点に廃棄したのだろうか。
確かに、本線の廃止された昭和43年頃は、各地で一斉に軌道が廃止されていった時期に重なり、狭軌用のレールなど屑鉄以上の価値はなかったに違いない。
今ならば、このような放置は法的に問われそうであるが。






 うち捨てられた無数のレール。
夏になれば深い雑草の底に沈むに違いない。

これにて、船岡林鉄滝ノ又支線の探索は終了であるが、パタリン氏は残雪上に車輪を見たと証言している。
残念ながら私は発見できなかったが、それは木製の車輪だったそうだ。


今後昭和30年代の林鉄遺構は重点的に調査していきたいと思うきっかけになった、美しき木橋の残る路。

ロケーション最高の叫びに、偽り無し!








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