2020/1/23 6:53 《現在地》
国道6号が築堤で跨ぐ、名古谷地区の南にある谷戸の底へ降り立った。
(前回の最終シーンから50mほどしか離れていないが、20分近く経過している。この間にも探索上の試行錯誤があったのだが、略す)
この谷戸の地名は地形図に書かれていないが、楢葉町の公式サイトによると、上流の農業用溜池が「須賀作第二堤」と命名されているので、ここを須賀作谷戸と仮称する。
「作」の字が付くのは近世以降の開田地名だと思うが、築堤のせいで木戸駅周辺の市街地から隔絶されたこの辺りは、既に耕作されていない。谷底の道も雑草に覆われつつあった。(今回の探索では、この谷戸の周囲にある地形図には記載がない道をいくつか確認したので、《現在地》の地図に紫の線で書き加えた)
さて、お目当ての軌道跡だが、上流へ向かって左側の山腹の上の方を横切っていたと推定している。
そして写真は、谷底の道から見上げた、その斜面の様子だ。
かなりの急斜面だが、スギが植林されており、よじ登っていけないことはない。
ここに自転車を残し、さっそく直登して確かめようかとも思ったがが、この時の私は探索開始から50分を経過して未だなんの成果も上げられていないという、正直、探索日の始まりとしてはテンションが下がった状況になっていて、本当に軌道跡があったのかさえ疑いはじめていたから、ここでまた今日何度も空振りだった“試行錯誤”を、この薄暗い急斜面に対して行い、そして失敗することに、臆病になっていた。
そんな訳で、消極的判断をもってこれを見送り、もう少しアクセスしやすい場所が現われることに期待しつつ、このまま谷底の農道を進むことにしたのだった。
7:03 《現在地》
国道から450mほど谷戸の道を上流へ向かうと谷が狭まり、車道も終点を迎えてしまった。
ここからは見えないが、もう50mばかり上流には須賀作第二堤の堰堤が、谷を遮るように待ち受けているはずだ。
写真左に見える水路は、堰堤の放水路だろう。
ちなみに、堰堤は明治時代の地形図に既に描かれており、軌道より古いらしい。
私はここまで前進しながら、斜面上部に軌道跡の存在を想像し、容易にアプローチできる箇所が現われるのを待っていた。
しかし、先に谷底の道が終わってしまい、ここで登って見に行くか、引き返して別の場所から登ってみるか、決断を迫られることになった。
考えたが、どこから登っても大差はなさそう。なので、ここから“矢印”のように入山して登ることにした。もちろん、自転車は残していく。
斜面上部を軌道跡が横切っているはずだという予測は、またしても裏切られたようだ……。
適当なところを登ってみたが、斜面のてっぺんまで続くすり鉢のような凹んだ斜面があるだけで、横切る平場の気配は少しも感じられなかった。
……こうもことごとく空振りが続くのは、正直、あまり経験がないことだった。
同じ“軌道跡”ということで、それなりに経験値を積んでいる林鉄探索と比較したくなるが、曲がりなりにも国営事業の一環だった国有林森林鉄道と比較した場合、民営かつ零細に属するような鉱山軌道は、痕跡の消失も格段に早かったということなのだろうか。或いは、単にここが特別なのか……。昭和25年廃止という古さも、悪条件ではあるだろうが……。
このすり鉢状の地形に古い土砂崩れの痕跡を感じた私は、特に確信があったわけではなかったが、その影響圏外を見たいという気持ちから、“矢印”のようなルートで左側を目指した。
すると――
7:06 《現在地》
あるんだねぇ〜!
平場というか掘割発見!
しかも、想像していたよりずっと大規模。
驚き! 喜び! 躍るように突入した。
突入直後、振り返って撮影した写真。
私が登ってきた斜面は、案の定、大規模な土砂崩れの跡地だったようだ。
そこで軌道跡は完全に消失していた。
もし、斜面で諦めて引き返していたら、なんと悔しい勘違いからの敗北を喫することになったろう。危なかった!
崩壊地の外には、期待したより遙かに明瞭な平場が存在していた。
平場は掘割の中にあり、谷底からは決して見えなかったはずである。
そしてそれは、見慣れた林鉄跡にそっくりな風景だった。レールや枕木は撤去済みのようだが、機関車が入線していたというだけあって、自動車も通れそうなくらいの幅があった。
探索開始から約1時間、旧地形図上に示されていた軌道を辿ること約800mにて、初めて具体的な痕跡を見出したのである。
事前情報の少なさから思いのほか手こずったが、苦労して見つけたものほど愛おしいものだ。
いまや転禍為福、探索者冥利に尽きる喜びに私は湧いた。
掘割の全景を振り返って撮影。
廃線跡は、谷戸の側面にあたる急斜面の山林に眠っていた。
谷戸の底は農地、尾根筋も農地や宅地として利用されているなか、挟まれた斜面だけが、アカマツとスギの雑木林という低利用のままに残っていた。
背景の稜線上に白い空が見えるのは、切り立っているからではなく、開発されているからだ。
公共輸送手段ではなく、私的な施設に過ぎない鉱山軌道の敷設において、土地の取得にかかる費用の節減は重要だった。
この点、国有林内を通過する限り地代を要さない国有林森林鉄道よりも不利である。
だから、通過コースの選定にあたっては、集落や農地の潰地を出来るだけ避けたい思惑は強く働いた。
谷戸の周りの未開発な急斜面は、建設工事の難しさを差し引いても、メリットが大きかったと思う。
急勾配を避けつつ標高を稼ぎたい思惑と、地代が安い場所を通りたい思惑が合わさって、谷戸の斜面を延々と回り込むような軌道が生まれたように思う。
写真は、最初の掘割を過ぎた直後の路盤の状況だ。
私はこの時、ループがある終点方向ではなく、起点方向へ戻るように進んでいた。
少し前に自転車で通った谷底の道の20mほど上を逆行している状況だ。
最終目的地である軌道の終点からは遠ざかるが、ここにある路盤は気になるので、行けるところまで行ってみる。
旺盛な緑のため見晴らしは全く効かないが、斜面の中腹を通っている。
特に左側はかなりの急傾斜で谷戸の底に落ちている。
しかし、路肩を守る構造物などはなく、自然に任されていた。
軌道跡はほとんど森に還っており、太い樹木は避けていても、細い樹木はすっかり根付いていた。ここがもし平坦な森なら、よほど注意深くしないと見失ってしまうだろう。
写真でも、中央を直進していく路盤の存在は、緑の濃淡から、うっすら感じられる程度だ。
そんなわけで、明らかに道としては“廃道状態”にあるのだが、驚いたことに、極めて最近に刈り払いがされていた。それも丁寧に軌道跡に沿っており、偶然重なったわけではないようだった。そして、所々に目印のピンクテープが結ばれていた。
ピンクテープには、「NR-132」のような「NR」で始まる数字が書かれており、これは楢葉町の略号っぽい。
刈り払いの目的は不明だが、全国的によく見る国土調査関係か、さもなくば立地的に、近年の原発災害に関係するもの(除染関係?)かも知れない。
いずれにせよ、生活の中からは全く忘れ去られた軌道跡が、行政の中では未だ何らかの意味を残していることを伺わせる発見だった。
目には見えない、しかし土地に刻まれた何かが透けるようなこういう展開、ゾクゾクする。好き。
7:14 《現在地》
うほぅ! 良い切り通しだ!
初めて、土の下にある硬い地山に届く規模の土工が現われた。
チェンジ後の画像は、振り返って撮影したもので、同地点。
隧道を2本も掘り抜くような気骨ある軌道なら、このくらいの土工はさらりとこなして貰わなければ困るわけだが、のんびりした里山風景に潜む岩骨の迫力が心地よかった。
もし隧道が現存しなかったとしても、とりあえずこれを見られたなら成果ありと思えるくらいの満足度は、もう得られた感じだ。(私の探索中の満足度は、意外にすぐ満たされるのだ…笑)
秘境感のある切り通しだったが、抜けるとすぐに集落の“庭先”にいる現実へ引き戻されるような展開が待っていた。
軌道跡は民家の裏手を通過しており、その敷地を地すべりから守るための現代的なコンクリート擁壁が、路盤上に道幅の半分以上を埋めたてる形で作られていた。
新と旧の時代が入り交じる光景だったが、特に興奮できる要素はなく、苦笑いでここを通り抜けた。
このまま軌道跡を起点方向へ戻っていける残距離は、もうわずかだろう。遠からず【交差点から見えた民家】の裏手に突き当たって、国道へは抜けられないと思う。
擁壁地帯を抜けると平場が復活したが、そこにも容赦なくスギが植林されていて、知らなければ誰も軌道跡とは思わないだろう。
相変わらず簡単な刈り払いとピンクテープは続いている。
この段階で路盤は谷戸の南側斜面の上にある台地面にほぼ到達していて、そこにある住宅地や畑をちょっとの背伸びで見ることが出来た。
私が最初に軌道跡に到達した地点からここまで、路盤は終始緩やかな下り坂だった。
それなのに台地の頂上に辿り着いたのは、東へ向かうにつれ台地が急速に低くなっていたからだ。
7:17 《現在地》
最初に路盤を見つけた地点から東進すること約300m、GPS測定による現在地は国道の50mほど手前だが、
路盤は突如、猛烈に密生した笹藪によって遮られた。刈り払いも、ピンクテープも、ここで終わりだ。
私もこれ以上は踏み込む気にならなかった。
この先に隧道があるとかなら、時間を掛けて挑戦したかも知れないが、
この先にあるのは民家の裏側の壁だけだろう。
というわけで、今回の探索における“最初の軌道跡”は、ここまでだ。
次は反対側の上流、いよいよループ区間へ挑戦しよう! わくわく!