廃線レポート 双葉炭礦軌道 第1回

公開日 2020.02.12
探索日 2020.01.23
所在地 福島県楢葉町


先日、ミニレポで東日本炭礦広野炭礦専用軌道を取り上げたことがきっかけとなって、私の中で炭鉱軌道熱が盛り上がっている。
今回紹介するのは双葉炭礦軌道で、常磐炭田地帯の北端に近い双葉郡楢葉(ならは)町に、かつて存在していた。

(余談だが、「鉱」と「礦(砿)」の文字の使い分けを説明する。石炭の鉱山を炭鉱というが、金属鉱山ではないことを理由に、「鉱」の字を“かねへん”ではなく“いしへん”の「礦(砿)」で表記するケースが、古くからしばしば行われている。当サイトでは、炭鉱という一般名詞では「鉱」の字を、会社名、鉱山名、路線名などの固有名詞で「礦(砿)」が使われている場合には、そのまま採字している)

左図は、昭和28(1953)年の地形図と、最新の地理院地図の比較である。
前者には、常磐線の木戸駅から2本の「特殊鉄道」の記号が出ているが(緑と赤に着色)、北西方向へ向かっているのは木戸川森林鉄道で、西へ向かっているのが、今回紹介する双葉炭礦軌道だ。

地図上の軌道は、駅を出るとすぐに山間部へ分け入り、名古谷から椴木下(もみのきした)へ抜けるところに、かなり長いトンネルが描かれている。椴木下には「採礦地」(鉱山)の記号があり、名前の注記はないが、ここに双葉炭礦があった。

山中にある炭鉱と最寄りの積出し駅を連絡する、鉱山鉄道の基本に忠実な路線に見えるが、実はこの路線の“矢印”のところには、地図にもはっきり描かれている、とても珍しい構造物があった。





ルゥーーーープ
ズイドゥー!



なんとこの軌道には、トンネルを介したループ区間があったようだ。

“ループトンネル”と書くと、トンネル単体で地中を旋回しているイメージを持つ人が多いと思うが、このような小規模なものも立派なループトンネルの一種である。

道がループを描く場合、必ずどこかで自分自身を跨ぐ(潜る)必要があるが、そこに橋を用いればループ橋で、トンネルを用いればループトンネルだ。
橋を用いるものよりも、トンネルを用いるものは遙かに少なく、このように古い時期のものは尚更珍しい。

この手のもので、オブローダーに比較的よく知られているのは、三重県の矢ノ川峠旧道にあった矢ノ川隧道(昭和11年開通、全長107m)だと思うが、地形と線形の関係がこことよく似ている。
この隧道、もしも現存していれば、とても希少価値があると思う。

ぜひ確かめてみたいと思ったが、最新の地理院地図では、ループトンネル以下の軌道跡は描かれておらず、ネット上にはこの軌道の情報はほとんど(まったく?)ない。
だが、常磐地方鉄道研究の大家・おやけこういち氏の著書、『常磐地方の鉱山鉄道』および『常磐地方の鉄道』に、記述があった。
地形図には書かれていない「双葉炭礦」の名を知り得たのも、これら文献のおかげだった。


『常磐地方の鉱山鉄道』は、双葉炭礦株式会社が、椴木下に双葉炭礦を開坑し、これと木戸駅を結ぶ軌道を開業した年を、大正7(1918)年としている。
また、軌道全長5.1km、軌間762mm、動力は馬力(馬車軌道)との記述あり。

その後、軌道はいくつかの炭鉱企業の所有を転々とし、その都度の炭鉱の名前も変わっていく。
まず、昭和3(1928)年に箕田合資会社へ譲渡されると、炭鉱名は伊勢炭礦となる。
さらに、昭和17年に千代田礦業株式会社へ再び譲渡されると、鉱山名は木戸炭礦へ変わった。そしてこれが最終の所有者となった。
したがって軌道の路線名も、時期によって伊勢炭礦軌道木戸炭礦軌道と呼ぶべきだが、本稿では基本的に双葉炭礦軌道の名前で統一した。

また、昭和22年当時、千代田礦業はこの路線に機関車を入線させていたという。
しかし、これより前の昭和19年8月には、木戸駅より1.5kmの「菖蒲平」という地点に索道の基地が設置され、以奥の軌道輸送は廃止されている。
そして、昭和25年には残る区間も索道化され、軌道は全廃されたというから、昭和28年の地形図は少し過去を描いてしまっている。(その後、昭和31年に閉山)

まとめると、ループがあったとみられる軌道は、大正7年に誕生し、昭和25年に全廃(一部区間は昭和19年廃止)されている。
中小炭鉱軌道らしく比較的に短命だが、機関車が入線した区間があったようだから、それなりの規模の遺構に期待できるかも知れない。
なお、おやけ氏の著書群には、ループ区間に関する言及は特になく、廃線跡の現状についての報告も最小限だった。

果たして、希少価値絶大な戦前生まれループトンネルは、現存しているだろうか?!



軌道の起点、木戸駅周辺


2020/1/23 6:12 《現在地》

午前6時を少し回った木戸駅前。
私は探索する気満々で、自転車と一緒にここへやってきたが、ちょっとだけ早まった。この時期、まだ夜が明けていなかった。

時間つぶし代わりというわけではないが、駅について少し書く。
木戸駅は、明治31(1898)年に当時の日本鉄道磐城線の木戸駅として開業して以来、100年以上同じ場所、同じ名前でここにある駅だ。
駅名の由来は開業当時の村名で、当時、今回の探索で訪れる予定の範囲は全て、標葉(しねは)郡木戸村といった(郡名は明治29年に双葉郡へ変更)。
近くに村役場もあったが、昭和31年に隣接する竜田(たつた)村と合併し、現行の楢葉町となった。

駅は昔ながらの三角屋根の平作りで、震災後(約3年間列車の運行は休止された)、駅前の通りがリニューアルし、街灯には街の自慢であるJビレッジにちなんだサッカーボールの飾りがついていたりするので、駅だけが取り残された感じがする。なかなかアンバランスだが、嫌いじゃない。

写真は駅の南西側から北を見ており、ここから北西方向に木戸川森林鉄道が延びていたが、貯木場の跡を含め、痕跡らしいものは残っていない。
一方、今回の主題である炭礦軌道は、どこから始まっていたのか。



市街地化が進んでいる木戸駅周辺での遺構探しは、当初から難航が予想されていたため、いつも以上に念を入れて、事前の予備調査を行なっていた。
といっても詳細な位置が分かる資料を探し当てたわけではなく、単に、軌道が描かれている旧地形図と、現在の地形図を十分に見較べて、軌道の位置を推定することを、普段以上に念入りに行なったまでだが。

左図がその検討の結果である。
旧地形図を信じるなら、炭礦軌道の起点は木戸駅前より少し南寄りの線路沿いの土地だったようだ。
そこからほぼ真西へ向けて発しており、現在も同じ位置に細い車道の記号が(途中まで)描かれている。

この周辺が古くからの住宅地なら、軌道が存在していた時期から家並みや地割が大きく変化していないことも期待されるが、果たしてどうなっているのか。
駅舎で5分ほど休んでいると、少し明るくなってきたので、自転車に跨がって行動を開始した。




6:16 《現在地》

すまん。まだ暗いな…。
奥に見える明るい場所が駅で、やはり南側から北を向いて撮影している。(参考:日中のストリートビュー画像
軌道はこの辺りから西へ発していたと思うが、その方角の写真は次。

とりあえず、写真よりは発見力に優れた生の目であたりを探ったが、ここには軌道の痕跡といえるようなものは何も残っていないと感じたので、完全に明るくなるのを待たず出発することにした。

というか、ここが起点だったという確証に繋がる要素は特にない。
炭鉱軌道の起点ならば、貯炭のための広い敷地や、国鉄貨車への積み込み施設(ホッパー施設)などがあってもいいが、残っていない。
むしろ、この左側の角地にあるのは墓地とお寺で、鉱山企業の社有地のイメージではない。
もっとも、だからここではないと言えるほどの反証ではないのだが。



この小路が、新旧地形図の比較から導き出された、軌道跡だ。

森林鉄道と同じ762mm軌間だったので、このような小路も通行は可能だと思うが、けっこうな坂道なのが引っかかる。
そして、周囲も新興住宅地には見えなかったが、この路地に面して出入口を設けている家宅が結構ある。
全体として、軌道跡らしい風景というわけではなかった。
とはいえ、この路地に並行する東西方向の道が近くにないので、地形図を信じるならば、ここ以外ないという感じである。

そして、150mほど真西へ進んだ小路は、丁字路に突き当たって終わる。
この突き当たりの道は近世からの街道筋(明治時代に陸前浜街道として車道が整備される前からの道)で、この駅内という集落のメインストリートだ。




ここまでピンとくるものがまるでないが、改めて新旧地形図と現在地を照らし合わせてみると、いまのところ、旧地形図上の軌道のルートをちゃんと辿っているようだ。

しかし、現在の地図だと、この先の軌道に対応する道は描かれていない。
軌道は丁字路をそのまま真っ直ぐ突っ切って、現在の国道6号の先へ延びていたようだが…。


次第に明るくなり始めた集落の路地から、周囲の田畑の畦まで、いろいろ縦横に走り回って軌道の痕跡を探したが、結果としてこの序盤の探索は発見という成果を結ばなかった。

逐一、ここへ行き、この方向を見て、何もなかったという報告を繰り返すことは、次に探す人の手間を減らす程度の働きはあるかもしれないが、レポートの冗長を避けがたいので省略して、次の地点へ。




現地で発見できなかった軌道跡を改めて推定する  2020/2/14 追記

本編公開後、30年ほど前にこの辺りを探索したことがあるという、福島県在住の読者のほろすけ氏(@ef1234561より、私が現地で特定できなかった木戸駅周辺の軌道のルートについて、古い航空写真にラインが見えるという情報提供をいただいたので、検証してみた。


右図は、平成29(2017)年と昭和50(1975)年の航空写真を比較したものだが、後者の矢印の辺りに、前者には見られない直線的なラインが写っている。

情報提供者は、これが軌道跡だったのではないかと推測されているが、その可能性は極めて高いのではないか。
このラインは、旧地形図に描かれていた軌道ともぴたり符合している。

昭和25(1950)年に廃止された軌道跡は、少なくとも昭和50年代までは、耕地を東西に横切る直線的なラインとして痕跡を留めていた。
だが、耕地を南北に横断する新しい町道を建設する過程で土地改良事業が走り、地割が変わったせいで、ラインも消えてしまったのだと推測する。
私はなんとなく無自覚に、田舎の畑なんて昔からあまり変わってないだろうと考えていたが、現実はこの通りだった。



昭和50年の航空写真から推測された耕地を横切る軌道跡の直線を、建物の配置や旧地形図の表記も加味しながら注意深く東へ伸ばすと、図に赤線で示したようなルートで駅内集落を通り木戸駅周辺に達していた。これは情報提供者が主張するラインでもある。

駅内集落のどこを軌道が通過していたについても、現地探索では解明されなかった課題だが、この新たな推定ルートに沿ったA、B、Cの3地点の現在の風景を、グーグルストリートビューから追ってみた。

・A地点


私の現地調査では、ここを直進する小路を軌道跡と判断したが、昭和50年の航空写真に角の住宅はなく空き地になっており、軌道はそこを通って斜め左前方へと抜けていたようだ。


・B地点

現地調査では意識を向けなかったこの地点で、軌道は駅内集落のメインストリート(旧浜街道)と交差していたようだ。

地点の東側は家屋があり道形は残っていないが、西側(画像の初期方向)には砂利道が伸びており、おそらくこれが軌道跡である。
奥には風防林とみられる緑地帯があり、そこを抜けると、かつて軌道跡が鮮明に写っていた耕地(C地点)に通じる。

なお、この地点にはかつて踏切があっただろう。当時の風景をご存知の方はいらっしゃらないだろうか。


・C地点

耕地を横断する町道(昭和50年の航空写真にはない道)と、軌道跡が交差していただろう地点は、このような風景だ。

画像の初期方向は東向きで、奥にB地点との間に横たわる林が見えるが、軌道跡のラインは見えない。 逆方向には、昭和50年の航空写真にはなかった家屋があり、やはり軌道跡は明瞭ではない。


以上、追記でした。
再訪することがあれば、B地点の小径は歩いてみたい。





6:29

起点から、正確に辿ることができない旧地形図上の軌道を約500mで、国道6号と交差する地点に達する。

もっとも、軌道があった時代、この位置を通る国道は影も形もなかったから、これまた軌道跡を攪乱する“難敵”である。

新旧地形図の比較によれば、この交差点は軌道跡とだいたい重なっていて、軌道は概ね正面の方向へ向かっていく。
現在もそこに2車線の町道があり、これが木戸駅周辺と椴木下を最短最速で連絡する山越えのルートである(よく整備されている)。
しかし、そこはもうここから見ただけで軌道跡でないと分かる勾配だ。

軌道は、この山越えを達成するために、ループトンネルを含む2本の隧道を開削する手間をかけており、自動車のパワー頼りで直線的に山を乗り越えていく町道と同じ径路ではあり得なかった。

旧地形図の軌道を精査すると、正面の町道よりやや右寄りに伸びていたように見える。
しかし、そこにはちょうど民家があって進入不能。
最初からなかなか思うような展開にならず、次第に焦りも出てくるが、まずは落ち着いて、この民家を迂回して裏手へ抜ける道を探すことにした。



この軌道の最も興味深いところは、ループや隧道といった“技”を駆使して、山越えを克服するところにある。
その面白みを読者諸兄にも共感していただきたいが、平面的な地形図では起伏の様子が伝わりづらいと思ったので、ここに立体的な地図を用意してみた。

低地に始まる軌道が、平地と山地の境界線をなす複雑に入り組んだ谷戸の側面を長くトラバースすることで緩やかに高度を稼ぎ、さらにループトンネルを穿つことで、無理なく名古谷の尾根の上に到達するまでの軌跡が、よく分かると思う。
この手の非力な軌道に限らず鉄道全体に視野を広げても、山越え区間の途中で稜線の頂上を走ることは珍しく、特異なルーティングといえるだろう。

もう一度、現在地に焦点を戻して考える。

この先の軌道跡は、どういう風に進んでいるか。

次(↓)の写真は、右図の「現在地」から、国道6号をわずかに北(図では右)へと移動した地点で撮影した。
そこは、かつて軌道が登っていた谷戸を横断する巨大な築堤であり、そこから谷戸を見通すことで、地図上にイメージした進むべきルートを、実際の地形の上にセットしたい。




ずっと奥まで続くこの谷戸の、向かって左側の山腹、

その現在地と同じくらいの高さ(黄線の位置)
を、軌道は通っていたのではないか。

それから奥をぐるっと回り込んで、最終的には、右側の尾根の頂上へ辿り着く……。

そういうルートだったはずだ。


……やっと、いつもらしい探索ができる、その足掛かりを踏めた気がする……。




須賀作の谷戸で軌道跡を徹底捜索


2020/1/23 6:53 《現在地》

国道6号が築堤で跨ぐ、名古谷地区の南にある谷戸の底へ降り立った。
(前回の最終シーンから50mほどしか離れていないが、20分近く経過している。この間にも探索上の試行錯誤があったのだが、略す)
この谷戸の地名は地形図に書かれていないが、楢葉町の公式サイトによると、上流の農業用溜池が「須賀作第二堤」と命名されているので、ここを須賀作谷戸と仮称する。

「作」の字が付くのは近世以降の開田地名だと思うが、築堤のせいで木戸駅周辺の市街地から隔絶されたこの辺りは、既に耕作されていない。谷底の道も雑草に覆われつつあった。(今回の探索では、この谷戸の周囲にある地形図には記載がない道をいくつか確認したので、《現在地》の地図に紫の線で書き加えた)




さて、お目当ての軌道跡だが、上流へ向かって左側の山腹の上の方を横切っていたと推定している。
そして写真は、谷底の道から見上げた、その斜面の様子だ。
かなりの急斜面だが、スギが植林されており、よじ登っていけないことはない。

ここに自転車を残し、さっそく直登して確かめようかとも思ったがが、この時の私は探索開始から50分を経過して未だなんの成果も上げられていないという、正直、探索日の始まりとしてはテンションが下がった状況になっていて、本当に軌道跡があったのかさえ疑いはじめていたから、ここでまた今日何度も空振りだった“試行錯誤”を、この薄暗い急斜面に対して行い、そして失敗することに、臆病になっていた。

そんな訳で、消極的判断をもってこれを見送り、もう少しアクセスしやすい場所が現われることに期待しつつ、このまま谷底の農道を進むことにしたのだった。



7:03 《現在地》

国道から450mほど谷戸の道を上流へ向かうと谷が狭まり、車道も終点を迎えてしまった。
ここからは見えないが、もう50mばかり上流には須賀作第二堤の堰堤が、谷を遮るように待ち受けているはずだ。
写真左に見える水路は、堰堤の放水路だろう。
ちなみに、堰堤は明治時代の地形図に既に描かれており、軌道より古いらしい。

私はここまで前進しながら、斜面上部に軌道跡の存在を想像し、容易にアプローチできる箇所が現われるのを待っていた。
しかし、先に谷底の道が終わってしまい、ここで登って見に行くか、引き返して別の場所から登ってみるか、決断を迫られることになった。

考えたが、どこから登っても大差はなさそう。なので、ここから“矢印”のように入山して登ることにした。もちろん、自転車は残していく。



斜面上部を軌道跡が横切っているはずだという予測は、またしても裏切られたようだ……。
適当なところを登ってみたが、斜面のてっぺんまで続くすり鉢のような凹んだ斜面があるだけで、横切る平場の気配は少しも感じられなかった。

……こうもことごとく空振りが続くのは、正直、あまり経験がないことだった。

同じ“軌道跡”ということで、それなりに経験値を積んでいる林鉄探索と比較したくなるが、曲がりなりにも国営事業の一環だった国有林森林鉄道と比較した場合、民営かつ零細に属するような鉱山軌道は、痕跡の消失も格段に早かったということなのだろうか。或いは、単にここが特別なのか……。昭和25年廃止という古さも、悪条件ではあるだろうが……。

このすり鉢状の地形に古い土砂崩れの痕跡を感じた私は、特に確信があったわけではなかったが、その影響圏外を見たいという気持ちから、“矢印”のようなルートで左側を目指した。

すると――




7:06 《現在地》

あるんだねぇ〜!

平場というか掘割発見!

しかも、想像していたよりずっと大規模。

驚き! 喜び! 躍るように突入した。




突入直後、振り返って撮影した写真。

私が登ってきた斜面は、案の定、大規模な土砂崩れの跡地だったようだ。
そこで軌道跡は完全に消失していた。
もし、斜面で諦めて引き返していたら、なんと悔しい勘違いからの敗北を喫することになったろう。危なかった!

崩壊地の外には、期待したより遙かに明瞭な平場が存在していた。
平場は掘割の中にあり、谷底からは決して見えなかったはずである。
そしてそれは、見慣れた林鉄跡にそっくりな風景だった。レールや枕木は撤去済みのようだが、機関車が入線していたというだけあって、自動車も通れそうなくらいの幅があった。

探索開始から約1時間、旧地形図上に示されていた軌道を辿ること約800mにて、初めて具体的な痕跡を見出したのである。
事前情報の少なさから思いのほか手こずったが、苦労して見つけたものほど愛おしいものだ。
いまや転禍為福、探索者冥利に尽きる喜びに私は湧いた。




掘割の全景を振り返って撮影。

廃線跡は、谷戸の側面にあたる急斜面の山林に眠っていた。
谷戸の底は農地、尾根筋も農地や宅地として利用されているなか、挟まれた斜面だけが、アカマツとスギの雑木林という低利用のままに残っていた。
背景の稜線上に白い空が見えるのは、切り立っているからではなく、開発されているからだ。

公共輸送手段ではなく、私的な施設に過ぎない鉱山軌道の敷設において、土地の取得にかかる費用の節減は重要だった。
この点、国有林内を通過する限り地代を要さない国有林森林鉄道よりも不利である。




だから、通過コースの選定にあたっては、集落や農地の潰地を出来るだけ避けたい思惑は強く働いた。
谷戸の周りの未開発な急斜面は、建設工事の難しさを差し引いても、メリットが大きかったと思う。
急勾配を避けつつ標高を稼ぎたい思惑と、地代が安い場所を通りたい思惑が合わさって、谷戸の斜面を延々と回り込むような軌道が生まれたように思う。

写真は、最初の掘割を過ぎた直後の路盤の状況だ。
私はこの時、ループがある終点方向ではなく、起点方向へ戻るように進んでいた。
少し前に自転車で通った谷底の道の20mほど上を逆行している状況だ。
最終目的地である軌道の終点からは遠ざかるが、ここにある路盤は気になるので、行けるところまで行ってみる。



旺盛な緑のため見晴らしは全く効かないが、斜面の中腹を通っている。
特に左側はかなりの急傾斜で谷戸の底に落ちている。
しかし、路肩を守る構造物などはなく、自然に任されていた。
軌道跡はほとんど森に還っており、太い樹木は避けていても、細い樹木はすっかり根付いていた。ここがもし平坦な森なら、よほど注意深くしないと見失ってしまうだろう。
写真でも、中央を直進していく路盤の存在は、緑の濃淡から、うっすら感じられる程度だ。

そんなわけで、明らかに道としては“廃道状態”にあるのだが、驚いたことに、極めて最近に刈り払いがされていた。それも丁寧に軌道跡に沿っており、偶然重なったわけではないようだった。そして、所々に目印のピンクテープが結ばれていた。

ピンクテープには、「NR-132」のような「NR」で始まる数字が書かれており、これは楢葉町の略号っぽい。
刈り払いの目的は不明だが、全国的によく見る国土調査関係か、さもなくば立地的に、近年の原発災害に関係するもの(除染関係?)かも知れない。

いずれにせよ、生活の中からは全く忘れ去られた軌道跡が、行政の中では未だ何らかの意味を残していることを伺わせる発見だった。
目には見えない、しかし土地に刻まれた何かが透けるようなこういう展開、ゾクゾクする。好き。




7:14 《現在地》

うほぅ! 良い切り通しだ!

初めて、土の下にある硬い地山に届く規模の土工が現われた。
チェンジ後の画像は、振り返って撮影したもので、同地点。

隧道を2本も掘り抜くような気骨ある軌道なら、このくらいの土工はさらりとこなして貰わなければ困るわけだが、のんびりした里山風景に潜む岩骨の迫力が心地よかった。
もし隧道が現存しなかったとしても、とりあえずこれを見られたなら成果ありと思えるくらいの満足度は、もう得られた感じだ。(私の探索中の満足度は、意外にすぐ満たされるのだ…笑)



秘境感のある切り通しだったが、抜けるとすぐに集落の“庭先”にいる現実へ引き戻されるような展開が待っていた。

軌道跡は民家の裏手を通過しており、その敷地を地すべりから守るための現代的なコンクリート擁壁が、路盤上に道幅の半分以上を埋めたてる形で作られていた。
新と旧の時代が入り交じる光景だったが、特に興奮できる要素はなく、苦笑いでここを通り抜けた。

このまま軌道跡を起点方向へ戻っていける残距離は、もうわずかだろう。遠からず【交差点から見えた民家】の裏手に突き当たって、国道へは抜けられないと思う。




擁壁地帯を抜けると平場が復活したが、そこにも容赦なくスギが植林されていて、知らなければ誰も軌道跡とは思わないだろう。
相変わらず簡単な刈り払いとピンクテープは続いている。

この段階で路盤は谷戸の南側斜面の上にある台地面にほぼ到達していて、そこにある住宅地や畑をちょっとの背伸びで見ることが出来た。
私が最初に軌道跡に到達した地点からここまで、路盤は終始緩やかな下り坂だった。
それなのに台地の頂上に辿り着いたのは、東へ向かうにつれ台地が急速に低くなっていたからだ。




7:17 《現在地》

最初に路盤を見つけた地点から東進すること約300m、GPS測定による現在地は国道の50mほど手前だが、
路盤は突如、猛烈に密生した笹藪によって遮られた。刈り払いも、ピンクテープも、ここで終わりだ。

私もこれ以上は踏み込む気にならなかった。
この先に隧道があるとかなら、時間を掛けて挑戦したかも知れないが、
この先にあるのは民家の裏側の壁だけだろう。

というわけで、今回の探索における“最初の軌道跡”は、ここまでだ。
次は反対側の上流、いよいよループ区間へ挑戦しよう! わくわく!