昼時
さて、末広の隣の土深井駅もまた、私にとって忘れられない駅の1つである。
濁音のイメージが強烈な駅名自体が印象的なのだが、この駅名も当初からのものではなかった。
当地に花輪線の前身たる秋田鉄道によって駅が置かれたのは、大滝温泉から毛馬内(現:末広駅)まで延伸開通した1915年(大正4年)で、当初の駅名は「尾去沢(おさりざわ)」であった。
この駅名は、恣意的な命名であった。
通常、駅名は駅の近くの地名からとるが、尾去沢はこの駅から南東に7kmも離れており、しかもその間には丘陵性の山地が立ちはだかっている。
現在の花輪線の駅としてみても、1931年に開業する陸中花輪駅(現:鹿角花輪駅)がまさに尾去沢地区に近接しているのだが、当駅が「土深井」と改称されたのは、陸中花輪駅が尾去沢に開業した11年も後のことであった。
尾去沢から山を越えた反対側にある土深井集落の駅が「尾去沢」で、尾去沢集落にある駅が陸中花輪だったのだから、さぞ間違って降りる人も多かったのではないだろうか。
もちろん、この地に尾去沢という駅名で開業したことには、理由がある。
それは後述する。
2004年真夏の暑い日の土深井を紹介しよう。
土深井駅へは、国道103号線から土深井集落にあたりを付けて曲がる。
案内標識はない。
駅は土深井集落の真ん中にある。
ここから駅までの191mの市道は、昭和34年から52年までの間、一般県道138号「土深井停車場線」に指定されていた経緯がある。
幅1車線の荒れた舗装路を100mほど進むと、大型車通行止めの小さな踏切がある。
そこから駅の方を見ると、個人的には土深井駅のベストショットと思っている絵が撮れる。
いろいろな季節に見に来てはいるが、この駅は夏が一番似合うような気がする。
単線のレールが背の低いホームにカーブしながら続き、そして駅の先ではまたカーブして視界の外へ消えていく。
レールはバラストと共に夏草に隠され、まるで何処かの廃線跡のよう。
背後には、何処か遠近感が狂った陽炎のような山並みが迫り、蝉の声が雨のように村を覆っている。
だれしもが、この駅を初めて間近で見ると一様に驚く。
駅が、
めちゃくちゃオープンなのである。
この駅を一言で言い表すなら、大草原の小さな駅。
駅前駐車場は砂利敷きだが広々としており、ホームとの間には色とりどりの花を咲かせる花壇が広がっている。
そして、この花壇の他には、ホームと、駐車場とを隔てるものは何一つないのである。
この駅には、特にこれと決まった入口はない。
柵も段差もない。
その気になれば、車のままホームに入ることさえ出来るだろう。
ある意味、極限のバリアフリー。
この駅で、JR入場券(140円)を買うことが出来ないのが、とても残念だ。
細田氏は初見でぼそっと。
「まるで公園かどっかさあるトイレみたいダスな。」
たしかに、遠目に見るとこれは公園とトイレにしか見えない…。

広大すぎる駅前駐車場。
おそらく100台は駐車できる。
だが、いつ訪れても、自分ら以外に人がいるのを見たことはない。
語弊の無いようにいっておけば、別段秘境駅というわけでもない。
周囲には、土深井集落の民家が点在しているし、集落内にはもちろん井戸端会議に興じるおばさま方の姿もある。
ただ、駅の周りだけが、異常とも思えるほど、ガランとしているのだ。
そして、よくよく観察すると、現在のレールから30m以上も離れた、駐車スペースの隅、民家の敷地と接する部分に、枕木を改造した柵があることに気がついた。
現在は駐車場となっている広大なスペースも、かつては駅構内であった事を示す証拠だ。

夕暮れ
とびきり狭いホーム。
白線の後ろに下がったら、もうそこは花壇だ。
こんな駅でも、ちゃんと列車は来るし、列車に乗れば、全国どこへでも行ける。
そんな当たり前のことだが、駅があることのうれしさ、安心というのは、車に頼り切った生活に慣れた人の多くは忘れてしまっている。
私も、今は車を持つようになったが、チャリで生活する日々のなかでは、電車は唯一の外界との窓だった。
一日の旅を終え、駅にたどり着いた時の安堵感は、本当に甘美なものであった。
そこに人の住む場所がある限り、出来うる限り鉄道を存続させて欲しいというのが、私の願いだ。

雨の日
土深井駅の不自然に広大な敷地も、不自然に狭いホームも、この駅が縮小し尽くした末期的な形である。
元々は、尾去沢駅として、尾去沢鉱山への物資輸送の窓口を担っていた。
鉱石の運搬にはあまり鉄道は使われなかったが、同鉱山で働いた人々の数千の暮らしが必要としたあらゆるものが、この駅を通じて、山中の鉱山へと運ばれていたのだ。
当駅は2線の島式ホームだったし、さらに貨物取扱所があり、幾つもの引き込み線があった。
いまも、花壇の中には島式ホームのもう一方の縁のコンクリが、残っている。
広大だった駅の敷地は、当駅が尾去沢鉱山の窓口としての役目を終えたのち、徐々に減り、埋め戻されてきたのだろう。
現在では、小さな待合室と、一面のホームのみしかないという、究極のシンプル駅になっている。
尾去沢鉱山 馬車軌道跡
2004.9.1
ここからはオマケだが、ついでに小さな廃線跡を紹介しよう。
実は、尾去沢からは一山挟んで相当に離れている土深井に、尾去沢という名前の駅が建てられたのには、ちゃんと理由がある。
江戸時代の土深井は、尾去沢鉱山から搬出された鉱石を米代川の水運と西廻り航路で出荷するための積み出し場になっていた。
鉱山から土深井までの約6kmの山道は、その当時に開通されたものである。
当時の尾去沢鉱山の玄関は、純粋な鉱山街であった尾去沢集落ではなく、むしろ米代川に面した、この土深井だったのだ。
そして、秋田鉄道が尾去沢駅を当地に置いた後しばらくの間は、鉱山と同駅の間を往復する鉱山馬車軌道が利用されていた。
この軌道は最後まで馬力に頼ったもので、鉱石の運搬には余り利用され得なかったが、鉱山が必要とする物資を運んでいた。
軌道は、昭和に入りしばらくして廃止されたようだが、現在もその道の後は林道のようにして残っている。
鹿角市史第3巻297頁によれば、馬車軌道は秋田鉄道の工事を受け、大正3年頃に「土深井〜尾去沢山許(やまもと)」までの全線が開通した。
大正12年に花輪まで花輪線の全線が開通した後も、距離に劣りはしたが、馬車軌道をつかって物資の輸送を行った。
昭和9年に山許〜陸中花輪駅間に架空索道(鉄索)が開通し、貨物輸送は陸中花輪経由となったが、なお重量物などの輸送の便のため、陸路である馬車軌道も残されていた。
廃止の年度については触れられていない。
鹿角市史第3巻より 2005.11.05追記
馬車軌道跡とは言っても、市道として使われるようになって時間が経っているので、残念ながら鉄道跡らしい遺構は見られない。
土深井集落から尾去沢に抜ける道として、道路地図にも一応記載されている。
集落の端から沢へ入る。
狭いダートが、杉林の中直線的に続いていく。
途中には、簡易水道場がある。
中程まで登っていくと、えもいわれぬ怪しい色の沼がある。
鉱山の成分が溶け込んでいるのだろうが、怪しすぎる。
軌道跡の道は、ヒョロヒョロとこの脇を通ってさらに登っていく。
約5kmほど登ると、すでにそこは尾去沢鉱山の背後である。
前方には巨大な暗渠が現れるが、これは県道によるものだ。
これをくぐると、軌道跡から車道が別れ、車道は急な上りで県道に合流する。
軌道跡は、大正時代の現役当時の地図によれば二本の隧道で鉱山の中心地へと抜けているのだが、
いくら探しても、一つめの隧道は影も形もない。
もし現存すれば200m程度の延長を持った隧道だったと思われるが、一帯は鉱山閉山後に相当に地形の改変が行われており、特に観光坑道マインランド尾去沢としての整備などによって、消失した可能性が高い。
無い隧道は潜れないので、やむなく県道に上り、隧道があったはずの尾根を越える。
青看に従ってマインランド尾去沢へと入ると、間もなく大きな駐車場が現れる。
鹿角を代表する観光地マインランド尾去沢は、全国に先駆け観光坑道を解放した歴史がある。
秋田県には鍾乳洞が存在しないから、ここが県内唯一の「地中の観光地」である。
駐車場の周囲にも多くの坑道がかつて存在していたが、現在はそれらも埋め戻され、痕跡を伺うことは出来ない。
一号隧道は、駐車場の辺りに鉱山側の坑口があったはずだが、いくら探しても、こちらも見つけられなかった。
全く痕跡を見つけられない一号隧道に対し、近接していた2号隧道は、呆気なく発見された。
とはいえ、見つけたときには数多ある坑道の一つではないかと思った。
入口には立ち入り禁止と書かれた柵があり、その奥には無惨に押しつぶされた坑口の跡が。
木で築かれた坑門は、まさに鉱山坑口の代表的な姿であり、馬車軌道との関連性を当初疑ったのも無理はない。
こうして写真を撮っている私の背後には、公園でボール遊びに興じる課外授業中の中学生達。
私の姿に気がついている者が居ないとも限らず、私がここで立ち入り禁止を破って坑口に近づこうものなら、
「せんせ〜い! ヨッキくんが穴に入っていきました〜」
とチクられるかもしれない。
しかし、私はおもむろに柵を越えると、思いっきりカビくさい坑口に頭一つ突っ込んでみた。
ものの見事にひしゃげている坑口だが、なんと内部に通じていた。
だが、内部にも土の山が見えており、相当に荒廃が進んでいることは明らかだった。
しかも、かつてないほどに、この穴はカビくさい。
正直、躊躇った。
青少年の目に付かぬよう、速やかに洞内に身を隠した私だったが、SF501の頼もしい灯りを持ってしても、この穴の不気味さには、失禁を禁じ得なかった。
いや、それは大袈裟だが、ともかく、生きた心地のしない洞内の有様だった。
木製の支保工はすべからく重力に絶えかね破壊されており、一部の地肌は崩壊している。
なにより不快だったのは、かつて天井を覆っていたらしいブルーシートが支保工と共に落ちており、まるでお化け屋敷か何かのようにこのシートを掻き分け潜り込みながらの前進となった点である。
とにかく、洞内は水分が飽和しており、カビくさく、辛気くさい。
裸電球がぶら下がっている。
また、洞床は柄にもなくコンクリートで固められている。
実はこの隧道、10数年ほど前までは遊歩道として現役だったようだ。
遊歩道時代には、ちゃんとこの隧道が「馬車軌道由来」であることが立て札で紹介されていたらしいが、いつの間にか廃止されていた。
観光客にとっては無料で坑道(っぽい)体験が出来るとあって、そこそこ人気があった様なのだが、やはり老朽化が廃止の原因なのだろう。
なんと言っても、築100年近い年数が経過しているのだ。
ブルーシートや、支保工なども、おそらく遊歩道時代に整備されたものだろう。
適切な管理の手を離れた坑道は、見るも無惨な荒廃を見せている。
おそらく、そう遠くない未来、馬車軌道唯一の遺構は地中に還ってしまうだろう。
特に荒廃しているのは、隧道の西側半分であり、東側は崩れていない。
もっとも、支保工には怪しい斑模様の白や黒がびっしりと発生しており、腐りきっている。
呼吸するのも嫌になるほど、臭い。
(じきに慣れたが…)
決して長い隧道ではなく、全長は50mほどでしかない。
しかし、まともに歩けないので、出口に近づく頃にはかなりストレスを感じてしまう。
不快指数という点では、かつてない水準だ。
無論、崩壊の危険もあり、まったくオススメできない隧道だ。
なんと、東側の坑口も破壊されていた。
天井が落ち、そこから膨大な土砂が洞内に流入している。
崩壊地点からは、頭上に空が見えているのだが、ここから外に出ようとすれば、狭い斜洞を這い蹲って登るしかない。
よじ登る よじ登る。
土まみれ 土臭い。
あと、もう2m。
なんとか、脱出。
崩れ落ちた土砂の隙間から、僅かに本来の隧道の天井が、覗いている。
ふぅ。
嫌な隧道だった…。
さあ、明るい大地に踏みだそう!
って、なんだ出て行きにくい雰囲気なんですけど。
そこは、マインランド尾去沢のチケット売り場や、観光ミニ電車、屋台などがひしめき合う中心部だった。
大音響で響き渡るJポップミュージック。
すぐ足元を大勢の観光客達が行き来している。
売店のオヤジも、チケット売り場の係員もいる。
未来ある、若人達もたくさんいる。
…ここは、私の出て行って良い場所ではなかった…。
すごすごと、もと来たカビくさい穴蔵へと引き返す、わたし…。
こんなにもわびしい隧道突破は、初めてだった。
後日、静かな時に、あの坑口を見に来てみた。
私は、あのブルーシートに隠された坑口の上の、岩盤が見えている辺りに立っていた。
それを確認すると、私はまるで隧道には無関心のような顔をして、離れた。
駐車場に掲示されていた巨大な案内図には、私が探索した2号隧道が描かれていた跡がある。
やはり一号隧道については、ここにも痕跡はなかった。
観光坑道は華やかだが、そこから少し離れると、まさに廃鉱山の絶望がそこにある。
この山中にも、長大な通洞隧道の記録が残されているが、未だ発見できない。
ともかく、馬車軌道の終点は現在の観光坑道入口のミニ電車がある辺りだ。
観光化しており、全く痕跡はない。
これにて、史上最強のシンプル駅「土深井」と、
痕跡乏しき馬車軌道のレポートを、終了する。