国鉄橋場線 および橋場駅  

探索日 2006.05.03
公開日 2006.05.05
大幅改稿 2011.11.06

ここに、数奇な運命を辿ったひとつの終着駅がある。
その駅は、橋場駅という。
国鉄橋場線の終着駅である。
だが、この駅が機能を停止して、既に60年以上の時間が過ぎている。

橋場駅は、鉄道省の橋場軽便線(軌間1067mm)の終着駅として、大正11年6月25日、地元の熱烈な歓迎の中に開業の日を迎えた。
県都盛岡から西へ約24km延びた鉄路がたどり着いた橋場地区は、当時人口1000人ほどであった岩手郡御明神村(現在の雫石町の西部)にあり、その沿線には小岩井農場などの牧畜で有名な雫石村があったが、いずれにしても、単独で採算性があるような路線ではなかった。
やがては橋場駅の西に奥羽山脈を貫通する大隧道を穿ち、隣県秋田の生保内(旧:田沢湖町・現:仙北市)から大曲(大仙市)へ至るという、壮大な「盛大横断鉄道」(または盛曲線)を構想した上での、その第1段階としての開通であった。
そのためか、開通翌年の大正12年には軽便鉄道から普通鉄道に格上げされ、橋場線へと改称された。
同じ使命を帯びた秋田県側の生保内線が、大曲から生保内まで開業したのは大正13年のことで、橋場線と生保内線という2つの盲腸線が、奥羽山脈の約20kmほどの距離を隔て向き合う形となった。

その後、政局のうねりや太平洋戦争による工事の中止など、次々に難局に見舞われ、奥羽山脈の貫通という終局の目的は容易に達成されなかったが、計画自体は死滅せず、昭和41年になって、鉄建公団の手でようやく国鉄生橋線が開通。
生橋線は橋場線および生保内線と併合されて、全線開業と同時に国鉄田沢湖線が誕生した。
橋場線の開通から、実に45年もの歳月が流れていた。
その後もローカル線でしかなかった田沢湖線が、軌間1435mmへ改軌されたうえ「秋田新幹線」の線路として生まれ変わったのは、JR化後の平成9年のことである。

だが、この秋田岩手両県民の百年の大計の影で、ひっそりと放棄され、既に忘却の彼方へと消えてしまったかのような、橋場線の休止区間が存在する。
それが表題の橋場駅と、橋場駅に隣接する約1kmの休止線である。

周辺地図

橋場駅の休止は、太平洋戦争が激烈を極めた昭和19年に行われた。
政府は不足しつつあった鉄材の補給のため、軍事上重要でないと判断された鉄道のレールを剥がして転用するという、世に言う「不要不急路線」のレール供出を強制した。
その巻き添えを食ったのである。

当時、仙岩峠越えの延伸工事は、生保内側から営々と続けられていたのだが、橋場線の中でも末端で輸送量が少なかった雫石〜橋場間の7.7km(当時は途中駅の赤渕は存在せず)は不要不急の鉄道と見なされ、延伸の希望から一転、無惨にレールを奪われた同区間は、当然休止となった。もちろん、生保内線の延伸工事も休止されている。
このとき橋場線から剥がされたレールは、当時建設中で軍事的にもより重要とされた釜石線にまわされたと伝えられている。

終戦後も雫石〜橋場間のレールは撤去されたまま放置されていたが、地元の熱心な再開運動が功を奏して、昭和39年にようやく再開される運びとなった。
また、この頃には念願の県境区間である生橋線の建設も決定していた。
だが、ここが橋場駅にとっては、真に命運を分けた場面である。

当初は当然のように、雫石から橋場までの全区間のレールが再敷設されるかと思われたが、現実には橋場駅の雫石側約1.5kmの地点に赤渕駅が新設され、ここが橋場線の新たな終着駅となったのである。
赤渕〜橋場間については、戦前の休止のまま、レールは再び敷かれることがなかった。

続いて岩手側でも始められた生橋線の建設は、赤渕を起点に行われた。
戦前までの計画(生保内〜橋場を結ぶ盛曲線)は、いつの間にか生保内〜赤渕を結ぶ生橋線へと変更されていたのである。
この路線変更の理由や経緯はつまびらかではないが、トンネル技術の向上により、より短絡的な路線が建設可能になったことや、詳細な地質調査の結果が作用したものと思われる。
路線変更によって影響を受ける住民も、橋場周辺のわずかな人口であったためか、大きな問題になった形跡はない。

結局、このような複雑な経緯を経て、橋場駅という大正時代の終着駅が、とりのこされた。
国鉄が解体されてJRに財産が引き継がれた際、橋場駅が引き継がれた形跡もないので、今日に至っては、改めて「廃止」処分を下せる主体さえ存在しないように思われる。
2011年現在も、当然この橋場駅は休止のままであって、未来永劫終着駅である。




永遠の終着駅


2006/5/3 14:01 【周辺図(マピオン)】

今日、橋場線の廃線跡(厳密には「休止中」)というのは赤渕駅から橋場駅までの1.5kmほどの部分である。
この区間は、現在の国道46号線と平行しており、駅以外には特に構造物と言えるものはない。

だが、私が想像していた以上に線路跡の再利用は進んでおらず、地形も平坦で1時間ほどもあれば十分に辿れるので、ミニ廃線跡としてはいい散歩コースだ。





橋場線を橋場駅から赤渕へと辿ってみよう。

当然のことながら、休止(実質的には廃止か)から60年を経た駅には看板がでているわけもなく、地図にも記載はない。
通行量の多い国道46号線からはじっくりと観察することは出来ないので、橋場小学校の駐車場に車を止めさせてもらった。

橋場小学校から、仙岩峠の白い山並みを背に数分歩くと、いよいよ駅が近付いてくる。



国道の山側(盛岡に向かって左側)には、一段高い位置に段丘状の地形が見えている。
これが駅の敷地であり、下から見ても畑などしかないように思われがちである。
この段丘状の地形は駅敷地からさらに仙岩峠側へ100mほどは続いているように見えるが、いずれにしても橋場駅という名前とは裏腹に、実際に駅が置かれていたのは安栖(あずまい)集落である。
本来の橋場集落は、さらに仙岩峠方向へ2kmほど上った場所にあり、安栖と橋場の間には「ヘグリの難所」と呼ばれた狭窄地がある。



駅が健在であれば駅前商店となっていたと思われるのが「木村商店」さんで、商店の真っ正面の小径の先に駅へ続く階段がある。
また、木村商店さん前は「安栖バス停」となっており、世が世ならバス停の名前は「橋場駅前」となっていたに違いない。
この橋場駅が使用不能となったのは昭和16年で、当時は駅前の国道46号線はまだ国道でさえなかったが、安栖地区唯一の商店とバス停がここに固まっていることは、駅の存在が何らかの影響を与えたと考えられる。
そこにいまも現役の駅があるのではないかと思えるほど、ありきたりな田舎の駅前風景があって、思わず嬉しくなった。



国道から駅までは50mほど山側へ歩く。
一応車も入れるのだが、既にここは民家の敷地内のように思われ、駐車するのは止めた方が良さそうだ。
駅が健在ならば、小さな駐輪所がこの辺に置かれていたのか。
色々と想像しながら、奥に見えるコンクリート製の階段へと歩みを早める。



知らない人が見ればまるで神社の参道のようだが、総コンクリート製の無装飾な姿は、どこか産業的な香りを残しているようにも思われる。

この30段ほどの階段の上に、60年以上もの間だ、一度も列車が来ていない「休止駅」が睡っている。

そう思うと、鼓動が自分でも分かるほど早くなった。
一歩一歩、剥がれた瓦礫がカラカラと音を立てる階段を上る度、興奮は増していく。
この駅の辿った運命を知れば知るほど、ただの廃線の駅とは比べものにならない感慨を覚えるのである。




コンクリートの欄干の上には、所々錆びた鉄の柱の基礎が現れており、おそらくは手摺りのようなものがあった名残と思われる。
また、階段の各段の縁は全て角が取れたようになっており、ステップが付いていた痕跡かも知れない。
冬期間には3m近い積雪に覆われる環境が、大正時代に作られたであろう粗悪なコンクリートを容赦なく風化させている。
 




残り数段となると、段上には妙に明るい雑木林が見えてきた。


それと同時に、

駅が、

姿を見せた!!


 

 


国鉄橋場線 橋場駅

戦渦に身を引きちぎられた 希望と絶望の混じり合う地。

もはや廃止されることも、時刻表に載ることもない。

ただ時に身を委ねた、永遠の終着駅。





振り返れば、慌ただしくゴールデンウィークの交通を捌く国道と、時の止まったような駅とを隔つ、短い階段がある。

淡い春の木洩れ陽に照らされた階段は、もはや無機質的なコンクリート構造物の顔をしてはいなかった。

人はいないが、情感はある。

そんな場面だ。



驚いたことに、駅はその基礎の部分をほぼ完全に残していた。

「橋場駅が現存する」というのを、以前から新聞のコラムやら人づてに聞いた事はあったが、よもやこれほどまでとは。

廃線跡としては距離も立地も小粒で、国道からきわめて近接しているために、まさかこれだけの遺構が現存するとは想像できなかった。
ここは、東北全体で見ても相当に稀で良好な残存度を誇る駅遺構である。
(ただ、当たり前だが、いくら正式には「休止中」であるとはいえ、レールを敷いただけで再開できる。というレベルではない。60年の時はそう甘くない。)



ホームや建物の基礎はほぼ完璧に残っている橋場駅であるが、現地で私が見たところから想像した構内図は右の通りである。
意外に大きな駅だというのが第一の感想である。
特に、一番線ホームはとても長く、もちろん計ったわけではないが150m以上あると思われる。
一般的なローカル線のホームなどと比較すると、倍くらいの長さがあるように見える。
また、残念ながら確固たる痕跡は残っていないが、終点駅ということで転車台もあったらしく、そのスペースと思われる広い草原が、駅西側に綺麗な更地として残っている。
また、一番線のさらに内側には、貨物取り扱いホームと思われる短いホームがコの字型に存在している。
さらに、将来は途中駅となる予定があったためか、立派な2番線も存在する。
2番線のさらに外側も山までは広々としており、レールはさらに幾筋か引かれていた可能性もある。
1番線と2番線の間の移動手段となるような、ホームからレール面に降りる階段などは設置されておらず、現役当時から2番線は未使用だったように想像する。
現在では、1番線の東側半分と2番線は大きな木や雑草に覆われているが、1番線の西半分と貨物ホーム、転車台跡地(想像)などはかなり綺麗なままに残っている。

※この構内図は後の探索で大幅に書き換えられねばならない。→【準備中】



もっとも集落側にある貨物ホーム(と思われる)は、一面の“ばっけ畑”(ばっけ=ふきのとう)のようになっていた。

真ん中に見えるのが1番線で、奥が2番線である。
ホームの高さは、現在の駅のものと比べると明らかに低く、さらにこれにバラストやレールの高さを勘案すれば、当時の列車が如何に小ぶりであったかを知らしめる。
また、ホームはコンクリート製だが、それは縁の部分だけで、それ以外は土が露出していたようである。





貨物ホームには一基だけ車止めが残っている。
この周囲だけはレール面よりも土が盛り上がったようになっており、これももともとはバラストの小山のようになっていた名残か。
ちなみに、橋場線からはレールだけでなく、バラストや枕木も全て撤去されてしまったようで、辺りにはそれらしいものは何一つ残っていない。




貨物ホームのさらに西側の駅敷地と集落を隔てる斜面に沿って残っている、数棟の建物の基礎。
駅事務所の跡であろう。
このような建物まで、戦争は奪い去っていったのであろうか?





全てのホームが途切れたさらに西側(仙岩峠側)から、駅全体を振り返る。

右が貨物ホーム。
中央が1番線ホーム。
左が2番線と3番線がある島式ホームだ。

信じられないほどに綺麗な草地として残っているが、現在特に跡地が何かに利用されている様子はない。
(島式ホーム上には作業小屋の廃墟が乗っており、以前は何かに使われていたようだが)

なお、このように敷地が整然としている風景は、毎年雪解け直後にのみ見られるもので、それ以外の時期にこのような風景を期待していくと、大いに絶望することになるだろう。
そのうえ、最近は春先でも前年の枯れ草が大量に残るようになり、この平成18年の探索以降何度も再訪はしているが、これほど綺麗な状況には一度も出会えていない。





さらに西へ進むと、集落へ降りるスロープのような下りがある一方、台地上の敷地はなおもう少しだけ先まで続いていた。
だが、それもやがて森の一部となって消えており、史実通り、橋場より先の実際の工事は行われなかったようである。
当初の計画通りに鉄道が敷かれていれば、秋田新幹線のE3車両がここを疾走していたに違いない。

ふたたび駅へと戻る。




島式ホーム上に何棟かの廃墟がある。
また、ホームを横切るように一部分が通路状に崩されている。
現在、駅跡地の西側半分だけが綺麗な更地のままなのは、跡地利用に除草剤が使われた為かもしれない。

数十年前までキノコ栽培ハウスとして転用されていたとの情報有り
安本さまより情報提供





列車の来ないホームにて。




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 橋場〜赤渕間の廃線跡を軽く散策



階段から反対に東へ進むと、やがて2番線が無くなってもまだ、1番線だけは杉の植林地の中に緩いカーブを描きながら続く。
ホーム上には、人一人が歩く幅の踏跡があり、人家の間の通用路になっているようである。




  杉の林の先には、民家や小屋が線路敷きを縦断するように建っており、実質的には全くもってただの廃線跡なのだということを思い知らせられる。
土地は全て民間に払い下げられているようだ。

この民家の軒先で、やっと一番線ホームが終わりを迎えた。




大きな民家の軒下から庭の真ん中までが廃線跡であるが、元気そうな犬が睨みを利かせていたので、ここは犬の紐圏内を考慮し最小限度の迂回を計った。
当然のことながら、民家の敷地内には鉄道跡らしい痕跡は何も残っていなかった。

「当然のことながら、民家の敷地内には鉄道跡らしい痕跡は何も残っていなかった。」は大きな誤りであった。→【準備中】




民家から100mほどは何も残っていないが、その先では鮮明な築堤となって、雑木林の中を直線的に進む明瞭な廃線跡が現れた。




この辺りが併走する国道からもっとも離れており、その間隙は高さ20m、距離80mほど。

現存する築堤はかなり大規模なもので、山側には溝が掘られている。
しかし、暗渠や橋など、土以外の構造物は何一つ無い。




緩いカーブの山側が大きく崩れた痕跡があって、ここだけは路盤跡が狭かった。

廃線跡は、先ほどの民家の他は、駅からここまで特に手を付けられた様子もなく、ただ淡々と森の中の築堤として続いていた。
東北らしい、疎林と下笹の見晴らしのきく森である。
如何にもクマがでそうだ。 




鮮明な築堤を、下から見上げてみた。
この辺りは全て橋場駅へ向けての上り坂になっており、最大の難敵である仙岩峠克服のための高度稼ぎは既に始まっていたのだろう。
橋場駅にしても、国道よりも川側に十分な余地があるにも関わらず、敢えて山側に広大な盛り土と切り取りで台地を設け建設されている。
全ては、仙岩峠克服のための周到な用意だったに違いない。

仙岩峠克服の橋場ルートは、具体的に計画が出来上がっていたと思われるが、私はその資料を目にしたことがない。
誰か、ご存じの方がおられればご一報を。



やがて、国道が上り坂で近付いてきたかと思うと、嫌な予感が的中。
この先まもなく国道脇の宅地に切り取られて、路盤は消失した。




そこから赤渕駅までの500mは、民地、道路、農地など、地形の改変が著しく、廃線跡と断言できる痕跡は見あたらなかった。
また、赤渕駅にも分岐施設の痕跡は無い。




本稿で触れた、田沢湖線が橋場駅ルートを止めて赤渕駅分岐の志戸前川ルートを選んだ理由について、より具体的な証言が出て来た。

この情報の提供者は「そのみちのさき」の管理人で山行が合調隊のメンバーでもある現場監督の中村氏で、ソースは道の駅雫石近くの某ガソリンスタンドとのこと。
中村氏からのメールによると、次の通りだ。

雫石の春木場に住んでいた地元の有力者で当時農業委員会の雫石のトップだった方がこのルート選定に影響を与えた様です。
東北でもその筋では有名で力のあった人だったようですが、物腰の柔らかい人だったそうで、地元では名前で「シズマさん」とかなり慕われていたためかすんなり決まったようです。
このルート上にこの方の所有の山があったそうで、自分の山を買収してもらうためだったのか、あるいは自分の山を提供してでも早く鉄路の完成の後押しをしたかったのか、「私欲」かあるいは「地元のために」だったのか地元でもいろいろ噂はあるようです。

この情報の真偽を私は確かめていないが、さもありなんという感じはする。

現場監督の中村氏より情報提供