国鉄橋場線 および橋場駅  

公開日 2006.05.05

 ここに、数奇な運命を辿ったひとつの終着駅がある。
その駅は、橋場駅という。
国鉄橋場線の終着駅である。
だが、この駅が駅として機能したのは19年の間だけで、既に休止されてから60年以上の時間が過ぎている。

 橋場駅は、橋場軽便鉄道の終着駅として、大正11年6月25日、地元の熱烈な歓迎の中に開業の日を迎えた。
県都盛岡から西へ延びた鉄路がたどり着いた橋場地区は当時、御明神村の一部で、その沿線途中には牧畜で有名な雫石村があったが、いずれにしても単独で採算性があるような路線ではなかった。
やがては奥羽山脈に大隧道を穿ち、隣県秋田の生保内(旧:田沢湖町・現:仙北市)を通り、大曲(大仙市)へ至るという、壮大な「盛大横断鉄道」(盛曲線)を構想した上での、その第1段階としての開通であった。
同じ使命を帯びた生保内線が大曲から生保内まで伸びたのは大正13年のことで、開通後まもなく改軌された「橋場線」とは、奥羽山脈の約20kmほどの距離を隔て2つの盲腸線が向き合う形となった。

 その後、太平洋戦争中の工事中止などいくつもの難局を乗り越えながらその都度路線名を微妙に変え、「生橋線」の名前で工事されていた仙岩峠越えを遂に克服し、盛岡〜大曲間が全線開通したのは、昭和41年のことである。
全線開通と同時に「田沢湖線」と改称された同線だが、最初の開通からは実に45年もの歳月が流れていた。
その後、一地方ローカル線でしかなかった本線だが、再び改軌され新幹線車両が疾駆する幹線となったのは、まだ県人にとって記憶に新しいところである。(2度の改軌を経験した数奇な路線でもあるのだ。)

 だが、この影で放棄され、もうすでに忘れられたかのような休止線が、ある。

 それは、いよいよ戦火が激しくなった昭和16年のことである。
政府は不足が深刻となりつつあった鉄材の補給のために、軍事上に重要でないとされた鉄道のレールを剥がしてしまうという強硬策に出た。
世に言う、「不要不急路線」である。
 当時、仙岩峠越えの工事は生保内側から進められている最中で、既に橋場へと向けて路盤の一部が完成していたというが、なお盲腸線でしかなかった橋場線の、特に末端である雫石〜橋場間の7.7kmはこの不要不急線に指定され、全通の夢を絶つかのようにレールが剥がされた。この同時期に生保内から仙岩峠にかけての工事も休止されている。
橋場線から剥がされたレールはそのまま、当時建設中で、軍事的にも重要とされた釜石線の建設にまわされたと伝えられている。
 その3年後の昭和19年10月1日には、レールの来ない終着駅橋場は正式に「休止」された。(当時は雫石〜橋場間に途中駅はなかった)

周辺地図

 先にも述べたとおり、戦後に田沢湖線は全線が開通している。
雫石橋場間のレールは戦後しばらく撤去されたままになっていたが、昭和39年になりやっと再開される運びとなった。この時には、県境を越える工事の再開の目処も立っていたとみられる。
だが、ここで橋場駅にとっては命運を分ける出来事が起きる。
雫石から橋場までのレールが再敷設されるかと思われたが、そうはならず、橋場駅から雫石側に1.5kmほど盛岡側の赤渕駅が建設されると共に、レールはここまでしか敷かれなかったのだ。

 戦前までの計画は、変更されていたのである。

 その経緯はつまびらかではないが、工期を短縮するためにより短絡的な経路を選択したとも、建設技術の向上によりそれが可能になったとも考えられる。
結局、戦前に完成していた生保内側の路盤もそのまま活用する形で、まだ未着工だった仙岩隧道とその岩手県側のルートは赤渕を目指すまったく新しいものになった。
当初は橋場から、現在の道の駅付近を通り、さらに坂本川を遡り仙岩隧道にたどり着く構想であったようだが、赤渕から志戸前川の人跡稀な峡谷を、幾つものトンネルと築堤で直線的遡り仙岩隧道へ取り付くルートとなった。

 このような複雑な経緯を経て、橋場駅という名の永遠の終着駅がとりのこされた。
2006年現在、この駅の取り扱いは、いまも、 休止  である。




永遠の終着駅

 今日、橋場線の廃線跡(厳密には「休止中」)というのは赤渕駅から橋場駅までの1.5kmほどの部分である。
この区間は、現在の国道46号線と平行しており、駅以外には特に構造物と言えるものはない。
だが、私が想像していた以上に線路跡の再利用は進んでおらず、よく辿ることが出来る。
 日中の1時間ほどもあれば十分に辿れる区間なので、藪の薄い時期ならば比較的気軽に探索できるオススメの廃線跡である。



 橋場線を橋場駅から赤渕へと辿ってみよう。

 当然のことながら、休止(実質的には廃止か)から60年を経た駅には看板がでているわけもなく、地図にも記載はない。
通行量の多い国道46号線からはじっくりと観察することは出来ないので、橋場小学校の駐車場に車を止めさせてもらった。

 橋場小学校から、仙岩峠の白い山並みを背に数分歩くと、いよいよ駅が近付いてくる。



 国道の山側(盛岡に向かって左側)には、一段高い位置に段丘状の地形が見えている。
これが駅の敷地であり、下から見ても畑などしかないように思われがちである。
この段丘状の地形は駅敷地からさらに仙岩峠側へ100mほどは続いているように見えるが、いずれにしても橋場駅という名前とは裏腹に、実際に駅が置かれていたのは安栖(あずまい)集落である。
橋場集落はさらに仙岩峠方向へ2kmほど上った場所にあり、安栖と橋場の間には「ヘグリの難所」と呼ばれた狭窄地がある。



 駅が健在であれば駅前商店となっていたと思われるのが「木村商店」さんで、商店の真っ正面の小径の先に駅へ続く階段がある。
また、木村商店さん前は「安栖バス停」となっており、世が世ならバス停の名前は「橋場駅前」となっていたに違いない。
この橋場駅が使用不能となったのは昭和16年で、当時は駅前の国道46号線はまだ国道でさえなかったが、安栖地区唯一の商店とバス停がここに固まっていることは、駅の存在が何らかの影響を与えたと考えられる。
 そこにいまも現役の駅があるのではないかと思えるほど、ありきたりな田舎の駅前風景があって、思わず嬉しくなった。



 国道から駅までは50mほど山側へ歩く。
一応車も入れるのだが、既にここは民家の敷地内のように思われ、駐車するのは止めた方が良さそうだ。
駅が健在ならば、小さな駐輪所がこの辺に置かれていたのか。
色々と想像しながら、奥に見えるコンクリート製の階段へと歩みを早める。



 知らない人が見ればまるで神社の参道のようだが、総コンクリート製の無装飾な姿は、どこか産業的な香りを残しているようにも思われる。

 この30段ほどの階段の上に、60年以上もの間だ、一度も列車が来ていない「休止駅」が睡っている。

 そう思うと、鼓動が自分でも分かるほど早くなった。
一歩一歩、剥がれた瓦礫がカラカラと音を立てる階段を上る度、興奮は増していく。
この駅の辿った運命を知れば知るほど、ただの廃線の駅とは比べものにならない感慨を覚えるのである。



 コンクリートの欄干の上には、所々錆びた鉄の柱の基礎が現れており、おそらくは手摺りのようなものがあった名残と思われる。
また、階段の各段の縁は全て角が取れたようになっており、ステップが付いていた痕跡かも知れない。
冬期間には3m近い積雪に覆われる環境が、大正時代に作られたであろう粗悪なコンクリートを容赦なく風化させている。
 



 残り数段となると、段上には妙に明るい雑木林が見えてきた。

 そして、私の前には

          紛れもない駅が、

            その姿を現した!


 

 


国鉄橋場線 橋場駅

戦争で鉄路を剥がされた 希望と絶望の混じり合う地。

正式に廃止されることもなく、時刻表に載ることもなく。

遷ろう時に身を任せる、永遠の終着駅。



 振り返れば、慌ただしくゴールデンウィークの交通を捌く国道と、時の止まったような駅とを隔つ、短い階段。
無機質的なコンクリートの階段を照らす、淡い春の木洩れ陽。



 何とも驚いたことに、駅はその基礎の部分をほぼ完全に残していた。

 「橋場駅は残っている」というのを以前から新聞のコラムやら人づてに聞いた事はあったが、よもやこれほどまでとは。
廃線跡としては距離も立地も小粒で、国道からきわめて近接しているために、まさかこれだけの遺構が現存するとは想像できなかった。
ここは、東北全体で見ても相当に稀で良好な残存度を誇る駅遺構である。
(ただ、当たり前だが、いくら正式には「休止中」であるとはいえ、レールを敷いただけで再開できる。というレベルではない。60年の時はそう甘くない。)



 ホームや建物の基礎はほぼ完璧に残っている橋場駅であるが、現地で私が見たところから想像した構内図は右の通りである。
意外に大きな駅だというのが第一の感想である。
特に、一番線ホームはとても長く、もちろん計ったわけではないが150m以上あると思われる。
一般的なローカル線のホームなどと比較すると、倍くらいの長さがあるように見える。
また、残念ながら確固たる痕跡は残っていないが、終点駅ということで転車台もあったらしく、そのスペースと思われる広い草原が、駅西側に綺麗な更地として残っている。
また、一番線のさらに内側には、貨物取り扱いホームと思われる短いホームがコの字型に存在している。
さらに、将来は途中駅となる予定があったためか、立派な2番線も存在する。
2番線のさらに外側も山までは広々としており、レールはさらに幾筋か引かれていた可能性もある。
1番線と2番線の間の移動手段となるような、ホームからレール面に降りる階段などは設置されておらず、現役当時から2番線は未使用だったように想像する。
現在では、1番線の東側半分と2番線は大きな木や雑草に覆われているが、1番線の西半分と貨物ホーム、転車台跡地(想像)などはかなり綺麗なままに残っている。



 もっとも集落側にある貨物ホーム(と思われる)は、一面の“ばっけ畑”のようになっていた。

 真ん中に見えるのが1番線で、奥が2番線である。
ホームの高さは、現在の駅のものと比べると明らかに低く、さらにこれにバラストやレールの高さを勘案すれば、当時の列車が如何に小ぶりであったかを知らしめる。
また、ホームはコンクリート製だが、それは縁の部分だけで、それ以外は土が露出していたようである。



   貨物ホームには一基だけの車止めが残っている。
この周囲だけはレール面よりも土が盛り上がったようになっており、これももともとはバラストの小山のようになっていた名残か。
 ちなみに、橋場線からはレールだけでなく、バラストや枕木も全て撤去されてしまったようで、辺りにはそれらしいものは何一つ残っていない。



 貨物ホームのさらに西側の駅敷地と集落を隔てる斜面に沿って残っている、数棟の建物の基礎。
駅事務所の跡であろう。
このような建物まで、戦争は奪い去っていったのであろうか?



 全てのホームが途切れたさらに西側から、駅全体を振り返る。

 信じられないほどに綺麗な草地として残っているが、現在特に跡地が何かに利用されている様子はない。
(2番線のホーム上には作業小屋の廃墟が乗っており、以前は何かに使われていたようだが。)



   さらに西へ進むと、集落へ降りるスロープのような下りがある一方、台地上の敷地はなおもう少しだけ先まで続いていた。
だが、それもやがて森の一部となって消えており、史実通り、橋場より先の実際の工事は行われなかったようである。
当初の計画通りに鉄道が敷かれていれば、秋田新幹線はここを疾走していたに違いない。

 ふたたび駅へと戻る。



   2番線には何棟かの廃墟がある。
また、ホームを横切るように一部分が通路状に崩されており、何らかの跡地利用が成された痕跡がある。
現在、駅跡地の西側半分だけが綺麗な更地のままなのは、除草剤のようなものが使われた為かもしれない。



 待ち人来たらずのホーム跡。(写真左)

 この地を最期に選んだのは鉄路だけではなかったようだ……。(写真右)



 橋場〜赤渕間の廃線跡


   東へ進むと、やがて2番線が無くなってもまだ、1番線だけは杉の植林地の中に緩いカーブを描きながら続く。
ホーム上には、人一人が歩く幅の踏み跡が残っており、集落間の通路になっているようである。



   杉の林の先には、民家や小屋が線路敷きを縦断するように建っており、実質的には全くもってただの廃線跡なのだということを思い知らせられる。
土地はもう、民間に払い下げられているようだ。

 この民家の軒先で、やっと一番線ホームが終わりを迎えた。



   大きな民家の軒下、そして庭の真ん中が廃線跡であるが、元気そうな犬が睨みを利かせていたので、ここは犬の紐圏内を考慮し最小限度の迂回を計った。
当然のことながら、民家の敷地内には鉄道跡らしい痕跡は何も残っていなかった。



   民家の先も100mほどは何も残っていないが、やがて鮮明な築堤となって雑木林の中を直線的な廃線跡が現れた。



   この辺りが国道とはもっとも離れており、高さにして20mほど、距離にして50mくらい隔てられている。
築堤はかなり大規模なもので、山側には大きめの溝が掘られている。
残念ながら、暗渠や橋などの構造物は何一つ無い。



   緩いカーブの山側が大きく崩れた痕跡があって、ここだけは路盤跡が狭い。

 廃線跡は、先ほどの民家の他はここまで特に手を付けられた様子もなく、ただ淡々と森の中の築堤として続いている。



   いまもって鮮明な築堤を、やや下がって見上げてみた。
この辺りは全て橋場駅へ向けての上り坂になっており、最大の難敵である仙岩峠克服のための高度稼ぎは既に始まっていたのだろう。
橋場駅にしても、国道よりも川側に十分な余地があるにも関わらず、敢えて山側に広大な盛り土と切り取りで台地を設け建設されている。
全ては、仙岩峠克服のための周到な用意だったに違いない。

 この、橋場ルートの仙岩峠克服の手段はかなり具体的に出来上がっていたと思われるが、私はまだその資料を目にしたことはない。
誰か、ご存じの方がおられればご一報を。



   やがて、国道が上り坂で近付いてきたかと思うと、嫌な予感が的中。
国道や民地に切り取られて路盤消失となる。



   この先、赤渕駅付近の現在線を国道が跨線橋で跨ぐまで、残念ながら地形改変著しく、廃線跡と断言できる痕跡はない。
いずれにしても、赤渕駅までの距離はもう500mほどに迫っている。



   現在の国道の道筋と重なり合うように存在していたと思われる路盤も、国道改良で完全に姿を消しているのか。
写真には、田圃の向こうに架線柱が並ぶ現在線と、それを取り囲むような赤渕集落の民家が写っている。

 どうやら、橋場駅の止まった時はこれからも動き出しそうにない。
だれか、然るべき機関が、正式に「廃止」を宣言することはあるのだろうか?