廃線レポート 八幡舘インクライン  その1(改訂版)
2005.2.4


 当初計画の目玉であった釜石鉱山の鉱山鉄道跡については、予想以上の積雪のため、殆ど新しい発見のないままに打ち切りを余儀なくされた。
これは、新年明けて一発目の合同調査(ソロ活動を含めても初でした)として、痛い展開。
急遽、サブと考えていた“もう一つのネタ”へアプローチを急いだ。

それが、これから紹介する八幡舘インクラインである。


釜石市 鈴子町
2005.1.30 7:20

 仙人峠から15kmほど国道を下り、釜石市中心街へ至る。
釜石は、甲子川に沿った東西に細長い市街地を持ち、その中央部に国道の他、JRが通っている。
JR釜石線の終点である釜石駅が置かれている鈴子地区は、埋め立ての進んだ釜石港にも近く、もっとも商工業の集積した一画である。
そして、この釜石市街地にあって、圧倒的な存在感を持つのが、新日鉄釜石工場である。
かつての釜石が、東洋一とも言われた高炉を中心とした大鉱業都市だった名残が、市中心部の三分の一ほどの面積を文字通り占領するほどの、超広大な新日鉄工場である。
現在も、その殆どが依然、関連企業によって占められ、立ち入りは難しい。

半年前に、「山手東側隧道」を攻略した際にも、工場内の敷地にはいることを躊躇い、工場側坑口ほ殆ど見られなかったのは、レポの通りである。
そして、目指すインクラインは、またしてもその一端の端を、工場内に置いている。
まずそこが、この攻略計画の最初にして最大の、難関である。

 


 この探索は、真似しないで欲しい。

『広大な新日鉄及び関連企業の敷地があり、正面からは接近しづらい』という状況の中で、その裏側にあるインクラインや、その上にある古き鉱滓破棄場へ至る手立てを、我々は講じている。


まず、その現在地は、秋田県立図書館などで閲覧できる「釜石製鉄社史」内に記載されている地図を参考に左図へ転記した。
かつて高炉が並んでいた製鉄所中心部の背後の八幡舘山に立ち上がるように直登するインクラインが、八幡舘インクラインと呼ばれていたものである。
その袂には、現役当時も、現在に至るまで、品質管理部が置かれている。
そして、その地図上から推定されるスペックは、全長390m高低差160mというものだ。
これは、山行がかこれまでに存在を知り得たものの中では最大である。
(比較にならないかも知れないが、東洋一といわれていた秋田県能代営林署内森林鉄道上峰越インクラインでも、全長300m弱だった)
インクラインの終端には、鉱滓投棄場があった。


 右の写真は、噴火の様子を夜間に撮影したものではない。

これがまさに、在りし日の鉱滓投棄の様子である。
巨大なベルトコンベヤのようなものの先端から断崖に放られた鉱滓が、急斜面に弾けている。
写真は白黒であるが、そのオレンジの閃光を容易に想像させる。

数百度の、まるで溶岩のように熱い鉱滓…鉱石から金属分を取り除いた残りカス…を、そのまま地上に投棄している。

この事実は、聞いただけでも驚きであるが、この写真を目にした時など、衝撃で頭がパニクッた。

しかも、人知れず山中でというわけではない。
1km以内には、今も昔も民間人が普通に住まう市街地が広がっている。
というか、この八幡舘山は、現在でも市街の殆どどこからでも見ることが出来るのだ。
逆に言えば、鉱滓投棄の夜には、街からもこの写真の光景が見えていたことになる。

これを驚かずして、一体何に驚けと言うのか。
驚愕というより、他はない!!



 この写真は、昨年8月のものだが、釜石駅から3kmほど西へ進んだ、県合同庁舎もある小佐野駅付近の国道から見た、八幡舘の岩肌である。
写真ではまだ遠く見えにくいのだが、実際に見てみると、周囲の緑一色の山と比較して、違和感ありまくり。
一つの山の大部分がゴツゴツした岩肌で占められ、しかも全体の姿は台形状という、不自然なモノ。
この8月の時には、この山はおそらく採石場か何かだろうと思っていたが、まさかこの岩肌が鉱滓の熱で死に絶えたものだとは…。

まして、その半年後に、そこへ登ろうとするなどとは…。

全く思いもよらなかった。





 写真は引き続き8月のもの。
甲子川左岸の山肌を登る県道(かつての国道45号線)から、川向かいの釜石駅や、その奥の巨大な新日鉄工場群を望む。
中央から左端にかけて背後に写る山が、八幡舘の山であるが、こちらがわからでは、あの荒々しい姿は想像できない。
インクラインも、時期によっては見えるはずだが、夏場は木々の下。

ちなみに、釜石製鉄所(新日鉄以前の三井製鉄時代を含む)の鉱滓投棄は、私の知る限りかなり古い時期から。製鉄所背後の八幡舘に行われていた。
インクラインの設置の時期は、残念ながらまだ分からないが、少なくとも大正時代以前より始められていた筈だ。
そして、その鉱滓投棄は昭和初年といわれる「山手東側隧道」の開通によって、山の裏手の平田湾への投棄が始まると、次第に衰微していったようである。
釜石市発行のパンフレットによれば、八幡舘への鉱滓投棄の廃止は、昭和29年頃であるらしい。
余談だが、戦時中には夜間の鉱滓投棄がたいそう光って目立つと言うことで、軍部から中止の要請があったとも言われる。



釜石市 源太沢町
2005.1.30 8:15

 我々は、釜石市街地に入ってから一時間ほども、アプローチルートを決めかねて、車を路地の奥まで走らせ続けた。
途中、ローソンで朝食を摂りはしたが、まだ何一つ成果を上げられていない状況では、いつもほどローソンの弁当も旨くなかった。
岩手県内限定の釜石シーウェイブズ応援おにぎりも、今ひとつ、喉の通りは悪かったようである(ふみやん氏談)
リーダー・パタ氏などは、食欲すらないと訴えた。しかも腹痛だという。
そして、八兵衛…でなくて細田氏だが、彼だけは朝から快調だった。
いつになく重苦しい空気に沈んだ4人乗りの車中で、彼はいきなり肉の匂いをプンプンさせジャイアントフランクを豪快に頬張った!
すかさずパタ氏が拒否反応を示したものの、細田氏は笑顔で 
【食うすか?】
車内に一瞬の静寂。
しかし、おもむろに新発売のファンタメロンでフランクを流し込んだ細田氏、間髪入れず、 
【飲むすか?】

コントのような絶妙な、狙ったのかと勘ぐりたくなるほどの、細田氏の所業。
だが、素だ。

パタ氏、痙攣。

 
 


 再び先ほどの地図であるが、目指すインクラインへの我々のアプローチルートとして緑色の矢印で示したルートを選んだ。
想像以上に新日鉄の敷地を囲む塀は隙が無く、正面から進入することは不可能。
日曜でありながら、平然と操業開始のチャイムが街に響いている。

そこで、唯一敷地外から八幡舘へと登れそうなルートとして、甲子川右岸上流から高圧鉄塔に沿って上るルートを、選定した。

鉄塔の保線通路などというものが存在すれば、山中を容易に移動できるはずだ。

国道を離れ、新開橋で甲子川を渡り右岸の源太沢町へ進み、そのまま川原沿いの道の終点にある駐車場まで、車を利用した。
この先は、徒歩だ。
各自車外に出て、装備品を整える。

この日は、日中も0度を上回らない真冬日で、十分な防寒装備を用意した。
その他は、軽装を基本とした。


 川原にある駐車場で道は終点で、その先は川原の小道。
もうこの先に集落はないが、雪上には足跡が既にあった。
対岸には、高い塀の向こうに新日鉄関連企業が並んでいる。
すでに、部外者には踏み込みにくいムードが漂っているが、具体的に立入禁止などの表示もなく、ただ川原を歩けば、この写真の橋の下にまで辿り着ける。

そして、この橋は化成大橋という名の、工場敷地内同士を結ぶだけの橋である。
以前はこの橋の名の元になった企業が、傍にあったと聞く。
無論この橋の上に道には、工場の敷地内からしか、辿り着けない。



 橋を潜り、さらに川原の道を歩くと、山に沿って同和鍛造という一軒の工場が稼働している。
化成大橋は、この工場のためだけにあるように見える。




 道はここで終わり。
写真は、道の終点から下流を見たもの。

ちょうど甲子川の蛇行が自然の障壁となっており、歩いて進もうにも、これ以上は濡れずには進めない。
まあ寒水に腰まで浸かっても良いならば進めるだろうが、それをしても、この次に現れる陸地は新日鉄工場の敷地で、塀の向こうである。

ここで見るべきは、川ではなく、山である。
いよいよ登り始めるべきなのだ。




 これが、近くで見る八幡舘山だ。


同和鍛造の背後にあるのが、この八幡舘山。
昭和29年頃までは、あのてっぺんから鉱滓を熱いままに捨てたのである。
そして、現在も残るこの異様な山肌は、当時のままのように見える。
鉱滓で埋め尽くされた斜面は、数十年ではとても元の姿には戻らないのである。

それにしても、膨大な量である。

一山まるまる、鉱滓の山のようである。
大げさでなく、山の一斜面はまるごと全て、鉱滓だ。







いよいよチャレンジ!

お読みいただきありがとうございます。
【トップページに戻る】