廃線レポート  
藤琴粕毛内川林鉄 その2
2005.5.12


 昭和33年の水害によって藤琴林鉄は断絶した。
故に代替の林道建設が促進され、昭和38年に廃止された奥地の林鉄、内川支線。
積雪によって林道を進めなくなった我々は、間近にあったこの内川支線の探索を急遽、実施することにした。

林鉄跡は沢底にあり、代替に建設された同名の林道は、山腹を行く。
このありがちな立地を利用し、4人の合調隊探索メンバーは、二人ずつに分かれての探索を開始した。
私とくじ氏は、踏査隊として、林鉄跡を進行。
パタ氏とふみやん氏は、サポート隊として、林道から崖下の林鉄跡を捜索する。
この両隊を結ぶのは、トランシーバである。

山行が合調隊の、新たなる探索スタイルである。

★なお、今回のレポートは試験的に、大サイズの写真でお伝えしております。
ご感想など、よろしければ感想板へ。★


レールの発見! そして…  
2005.5.3 9:54


 我々は、河床に突き刺さるレールを発見した。
それは、軌道敷きがあった斜面から木製桟橋共々落ちたもののようで、敷かれた状態からそのまま墜落したものと想像された。

この事実は、とても大きい意味を持つ。

我々は、秋田県内を中心に様々な林鉄跡を歩いているが、いまだかつて、敷かれたままのレールを5m以上の長さで確認できたのは、粒様林鉄のみである。
それは、秋田県においては林鉄の撤去作業が、林政の方針として、極めて事務的に粛々と行われたことを反映している。
県内の林鉄跡の殆どは、放棄されたのではなく、処理されたのである。
しかるべき手続き(レール・枕木・他設備を撤去し、管理自治体に払い下げられたものが多い)を経て廃止されている。
故に、林鉄王国の名を欲しいままにしていた秋田県内において、現役さながらのレール残存物件が、限りなく少ないのである。
林鉄王国ゆえ、その引き際も見事であったと言うより他はない。




 だが、我々がこの粕毛内川で発見したレールはこの一つのみではなく、まさに、あの粒様のように、河床に散乱するレール群の姿であったのだ。
(上の写真には一本しか写ってはいないが、随所に見られた)

私は、粒様林鉄において、あれだけの距離のレールが撤去されずに残った理由を、搬出の困難さにあったと思っている。
粒様川本流を幾度めかに渡る橋の跡地以奥のレールが悉く残っていた。
これは、確信は持てないものの、斯かる橋の崩壊により、搬出が困難になった事情に因るのではなかろうか。

今再びまとまった量のレールを、河床に見せた、この粕毛内川もまた、廃止後にレールが搬出困難な状況にあったのではないかと、推測する。
林鉄廃止の直接の原因となった洪水によるものかも知れないし、近接の林道整備が廃止後にずれ込んだ為かも知れない。

これらのことを総合すると、この粕毛内川はもとより、更なる上流に続く(この日は積雪で阻まれ未探索に終わった)粕毛本線においても、レール残存の可能性が残る




 さて、レールの発見に湧いた私とくじ氏だが、その吉報を林道上のパタ氏たちに伝えた。
また、パタ氏たちからも様々な情報が、私のポケットにしまわれたトランシーバに届いているが、残念ながら殆ど聞き取れない。
それは、直ぐ足元を流れる内川沢の激流の轟音によるものもあるし、険しい林鉄跡を歩くにおいて、両手を塞いで仕舞う訳にはいかず、ポケットにしまわれがちだった事もある。

普段から、片手は、探索時には命の次に大切に思う記録機材(デジカメ)で埋まってますから。

その林鉄跡だが、上の写真の通り、間もなく林道とは対岸に移動していた。
路肩は石垣だが、橋台の一部はコンクリート製であった。
橋脚等は一切が流出してしまったのか見られないものの、沢を斜めに渡る、全長20m程度の長い木橋があったものと推測された。

渡った先の橋台付近の軌道跡に地面から生えていた、なぞの金属部品。(写真右)
何かを設置していた名残だろうか。
僅かに水色のペイント色が残る。


 しかし、驚いたことに右岸に遷った軌道は、ほんの30mほどで、再び左岸へと戻ったのである。
そこにも橋があったことは間違いないが、ご覧の通り、橋脚橋台共に完全に消え去っている。
護岸の一部だったであろうコンクリートが、砕けて崩れている。
こうして岸辺をよく観察すると、コンクリートの下がかなりえぐり取られてしまっていることが分かる。
白神山地は、県内随一の多雨地帯でであり、このような小支流とはいえ、水量は多いのだ。

探索開始から100mほどで既に2度、内川を渡っている。
私は、粒様以来の本格的な沢歩きとなり、興奮した。
くじ氏は、おそらく毎週のようにやっているのだろうが。
身を切るように冷たい雪解けの清流に時には腿まで浸しながら、前進する。
ポッケのトランシーバを濡らさぬように、細心の注意を要した。



 二度目の徒渉を終えて、河床から軌道跡を探すも、見あたらない。
トランシーバーからは、我々を呼びかける声がしきりにしたが、なかなかポッケから取り出して応答する手が空かず、返答は稀となった。
私とくじ氏を二人きりで野に放つと、無応答となることは珍しくないので、心配はされていないと思う。

それよりも、眼前に現れた 「白い景色」 に、意識が釘付けとなる。
 
それまでの、森の中の沢の景色から、その先に現れたのは、山岳のそれだった。
白い部分の一部は巨大な雪渓であったし、木々の生えることも許されぬ、険峻な岩崖であった。

この軌道が、行く手の岩肌をどのように攻略していくというのか、期待と不安が激しく混ざり合う。
無線機に向かって私は一言、

「行く手には、かなり険しい断崖です。」



 行く手の大崩崖を前に、まずは足がかりとなるべき軌道跡を探す我々だったが、想像よりも河床より高い位置にそれは発見された。
河床からの高度を、やや上げ始めた軌道は、行く手の難関たるを知り尽くしているのだろう。
写真のくじ氏の身長から、軌道の高さを想像していただきたい。

石垣の一部は崩れ去り、桟橋とも基礎とも付かぬ杉丸太が宙ぶらりんになっている。
我々は、相次いでこの石垣をよじ登り、軌道跡へと復帰する。

心地よい木漏れ日を顔面に受けながら、額に汗してよじ登る私の表情は、そこにある軌道跡への期待からくる、満面の笑顔だった。

 


苔生した虚仮
10:01


 やっぱ、林鉄って

 おもしぇー!


軌道上にいち早く復帰したくじ氏の口を突いて出た言葉は、この上なく感情のこもった一言だった。

私も、全く同じ気持ちであったから、思わず「軌道跡最高だな!」と、ほざいた。

車道などに転ずることもなく放置された軌道跡を、文献や地図から探し、そして、そこを、探険気分で歩くことは、
いまや、私にとって春の最大の楽しみになった。

確かにこの内川支線、最高に、楽しい。


そんな我々の昂揚は、更なる衝撃を前に叫びと変わる!



 頭上30mほどの崖上には林道が通っているが、その存在は、軌道跡からは意識しなければ気がつけない。

ただそこには、
枕木が並ぶ軌道跡が、
白神山地の純風景のただ中に、

数少ない探訪者を、待ち受けていたかのように、
穏やかで、
暖かで、
可憐な、
姿で、 

 あった。



そこは、内川支線、全長3500m中で、唯一、原型を留めた区間であった。





 内川対岸は、白神山地の中枢である秋田青森県境部の主稜線へと繋がる、その前衛である。
白神山地の代表的な一座である駒ヶ岳は、この内川大崩崖の先、稜線を上り詰めた先にある。

軌道跡は、対岸にこの断崖を見渡しつつ、進路をより東に変えて、引き続き内川上流を目指す。


カーブの先には、叫びが、あった…。





 はじめに叫んだのは、先を行くくじ氏だった。

くじ氏は、「おわー!」とも「のわー!」とも付かぬ声を上げ、平場がすっかり埋め尽くされて、ただ一様な斜面と化した軌道上に、立ち止まった。

私は、その声になにか、発見の喜びを感じ、対岸の大断崖に見入っていた視線を、くじ氏の背中の向こうに向けた。

そして、そこには、

整然と並ぶ、枕木の姿が、見えていた。




  
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 ワ 
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もういい加減飽きたと言われようが、やはりここは叫ばねばなるまい。
叫びを以てしか表せない感動が、そこにはあった。

枕木は、橋の上に並んだものだった。
惜しくもレールこそ水面に落ちていたものの、ほぼ完全な形で、その桟橋は残っていたのだ。

そして、その橋は、苔生して分かりにくくはなっていたが、コンクリート橋であった。
林道上のパタ氏たちに呼びかけると、この橋は林道からも見えたらしいが、ここからは林道が見えない。





 橋は、ゴツゴツとした岩場を跨ぐ、2スパンのコンクリート橋であり、全長は20m程度。
遠くの砂防ダムの二重堰堤が描く涼しげな簾が目を惹き、かつ耳空をくすぐるが、足元に細心の注意を払わねば危ない。

なにせ、上流側の一スパンは中央でポッキリと折れ、お辞儀しているのだから。

この滑りやすい苔生しコンクリートの、複雑な傾斜の加わった平均棒を、突破せねば、ならない。

我々は、またも呼びかけてくるパタ氏たちへ返答することも出来ず、慎重に慎重に、ここを、渡りきった。


…楽しすぎる。



 砕け散ったコンクリート橋。

二本の主桁が別々の箇所で折れている。
積雪の加重だけでこのようになるものだろうか?

ただ、鉄筋が入っていない様にも見えたので、(PC橋じゃなくて、ただのコンクリート橋だー!(笑))、強度的にはかなり虚仮威しだった可能性もある。

だって、大正8年竣工当時の遺構にも見えないし、おそらくは後補の橋。
そうでないとしても、橋脚が無事なのに、桁が折れて落ちるなど、普通の強度ではないよな。





 コンクリート製桟橋を振り返る。

かなり水面までの高さもあり、渡る時は細心の注意を要する。


でも、楽しすぎる。

くじ氏と二人、笑いっぱなしだし。

コンクリート製の立派(少なくとも見た目は)な橋が、まさかこのような支線に存在するとは期待していなかっただけに、驚きと喜びは、ひとしお、であった。


 末期的
10:09

 さらに、目前に迫った砂防ダムの突破は、軌道にとっても難儀な箇所であったらしく、間髪入れず次の桟橋が設けられていた。
だが、この橋も向こうの橋台に届くことなく、中途で折れて墜落していた。
無惨に砕け散り、河原の一部と化したコンクリート橋の残骸を踏みしめ、
轟音響動む二階の砂防ダムへと、再接近する。

突破なるか!?

無線機へ向け、私は大きめの声で、こう伝えた。

「大きな砂防ダムに行く手を阻まれました。ルートを探しています。」



 砂防ダムは、かなり年季の入ったものに見えた。
堤体自体はコンクリート製だが、堤端というか、堤頂というか、水路となる部分も含め、上部はまるで隧道のアーチ石のように、石造なのである。
おそらく強度を増すための施工だと思われるが、近年の砂防ダムは全て流路部分はコンクリート製の、限りなく抵抗の少ないデザインであることと対照的である。
そして、長年の流水圧に石造部分だけが脱落したらしく、水路部分が一部崩壊してしまっている。

このようなデザインの砂防ダムは珍しく、おそらくは昭和初期頃のものと思われる。
軌道は、砂防ダム堤体の直ぐ上を崖にへばりついて通過しており、大正8年の林鉄開通よりも、さらに古い砂防ダムである可能性も捨てられない。

なお、ここは現在の粕毛川流域最奥の集落である長場内よりも、さらに12kmほども山中に分け入った場所であり、それほど古くから開発がされていたことが意外に思われるが(奥地の山間部が伐採の対象となったのは、主に戦後であるから)、素波里ダムにより素波里以奥の全ての集落が無人となる以前には、いくつかの山間集落が存在していた。(無明舎出版刊「秋田失われた集落」より)
それらの集落の唯一の足として、林鉄もまた、利用されていたに違いない。



 滑落の危険とたたかいながら、二段の砂防ダムを突破した。
やはり、決め手は軌道跡となった。

そして、ダムの上には、長年かけて堆積した土砂が平坦な河原を形成しており、そこは、今までの激流が嘘のような、穏やかな森となっていた。
ここで、軌道跡は殆ど河床と高低差がなくなり、と同時に、判然としなくなる。

トランシーバーの向こうから聞こえてくる情報では、さらに上流にもレールなどが見えているらしい。
とりあえず、軌道跡は見あたらなくなったが、先へ進んでみる。




 直ぐに、谷は元の姿を取り戻した。
そして、軌道跡もまた、何事もなかったかのように、上流に向かって右手に現れた。
しかし、もはや斜面と一体化してしまった軌道跡は、下から眺めるだけで、その困難さが窺い知れた。

ここは、敢えて軌道上には登らず、やり過ごすことになった。

丸石を積み上げて路肩とした、県内の軌道ではスタンダードと言える、建築様式である。
これが、しばし続いた。




 水面から3mほど上方の崖に張り付いた軌道跡は、横向きに生えた大量の枝と、失われた桟橋に阻まれ、通行不可能となっていた。
残雪も目立ち始めた。
我々はやむなく、河床部分を通行することにしたが、そこは淵が渦を巻き、瀬が鳴る、ドキドキのスリルゾーンであった。
あの、延々の苦行の如し、粒様を思い出させる展開だが、今度は延々と続くものではないことが分かっているので、むしろそのスリルを愉しめる。
粒様の時は、ほんと、神経がすり減ったが。

久々に、フェルト貼りの沢靴を信じての、足運びとなった。
想像以上に、フェルトの靴は滑らず、岩肌に吸い付くような感触があって、一歩一歩踏み込む度に安心を感じる。
安心が、過信に繋がりやしないかと、そんなことを心配する余裕すらある。

私のように、あまり頻繁に沢を歩かぬものには、フェルトの沢靴は、岩場での安全性という点では、かなり有利だし、初心者向きと思える。
一方で、くじ氏のように、頻繁に沢を歩くものには、多少その安定性は落ちるが、長持ちする、スパイク付きの沢靴がオススメだろう。
私は、沢ではフェルト靴に絶対に近い信頼を置けるようになったが、一方で、沢歩きよりも土の斜面歩きも多いのが、林鉄探索である。
林鉄歩きではもっとも多く歩く土の斜面では、底のノッペリとしたフェルト靴は、極めて不安定であり、全くオススメは出来ない。
ターゲットの状況に応じて通常の靴と使い分けるが、荷物が増える(濡れた靴は思いのほか重い)ので、チャリでの探索では、現実的ではない。
よほど沢が多い場合でなければ、やはり斜面に強い靴に、ネオプレンの靴下着用で、濡れへの耐性を固めた方が、安心できるように思える。



 さらに進むと、左岸の軌道跡直下は淵となり、進めなくなったので、その猛烈な水圧に苦慮しながらも、徒渉できる箇所を見つけ、軌道や林道とは対岸となる、右岸に迂回した。
そのまま少し歩くと、予想外の光景が水面下に存在した。

くじ氏の奥に見える、まるで梁のような、平らな流れは、なんだ。

最初は、一枚岩のように思ったが、土俵一枚くらいの面積がまるっきり平らであり、しかも、その所々には穴があり、しかもその穴に水が落ちている
その落ち込んでいる水量から言って、穴に水が落ちたままになることはあり得ず、平らな岩の下も、流水があることを示唆している。

不思議だ。




 上流側から見てみると、ますます不自然な景色である。

そして、じっくりと眺めていて、やっと答えが分かった。

これは、林鉄の護岸となっていただろうコンクリートの擁壁なのである。
これだけの大きな擁壁が、斜面から剥がれて、そのまま流路に突っ伏したのである。

そして、そのまま今日まで、洗われ続けているらしい。
まるで、天然(半人工的?)の梁である。




 推定終点
10:38

 粕毛林道(車道)から、この内川支線(林鉄跡)を上流へと辿ってきた旅も、ひとまず終わりを迎えた。
これまで、河床からは30m程度高い位置をずうっと巻いてきていた内川林道(車道)が、下ってきて、ひときわ広くなった河原に、降りてきたのである。
必然的に、軌道跡は車道にかき消され、消失してしまう。
踏破を開始した粕毛林道(車道)と内川林道との分岐点から、ここまで約1kmの道のりであった。
あっと言う間の夢のような踏破に思えたが、すでにたっぷりと1時間を経過していた。
時間を感じさせない、とても密度の濃い林鉄との逢瀬であった。

もう、無線機を使わなくても、林道上で待つパタ氏たちの声が届くようになった。
そして、合流。

内川支線(終点)は、どうやらここが終点であるらしい。
全長3500mと記録されているが、その半分以上は、現在の粕毛林道よりも下流の、素波里ダム湖側に取り残されている。
この先も、車道は上流へと続いているが、つづら折りを描くようになり、沢筋も一気に狭まる。林鉄向きの地形ではない。

我々は、この山間の小さな平坦部を、終点と認定した。
 

 そこは、終点であることを支持するように、林鉄時代のものと思われる遺骸が散乱していた。

集材に利用されたのだろう、ウィンチらしきものの残骸が複数見られたし、他にレールやワイヤーなども、見られた。

我々は、ここでひとしきり相互の発見を報告し合った。
そして、今度は全員で内川林道(車道)を、引き返す。

平凡な砂利道歩きからでは、谷底の林鉄の存在は、時折谷間にちらつく平場や、コンクリート橋の残骸から、薄く 感じられる程度であった。



 我々が絶叫でしかその感動を表せなかった、2スパンの半壊コンクリート橋は、ご覧の通り林道からも僅かに見て取れた。
しかし、森が緑になれば、もうその存在を窺い知ることは出来まい。


林道歩きも、4人でのそれは退屈を感じさせなかったが、私とくじ氏の心は既に、林道よりも下流の踏破へと遷っていた。

はたして、林道より下流には何か残っているのだろうか?
多くのレールを目撃しはしたが、惜しくも、敷かれたままのレールにはお目に掛かっていない。
あるいは、さらに大きなコンクリート橋が残っていやしまいか。

期待に胸をふくらませつつ、次回、最終回。



   最後の景色だけは、 想像が付いていた…。

   それは、全てを途絶させるようなダム湖の水面。








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