廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 導入

公開日 2016.09.19
探索日 2010.02.04
所在地 千葉県君津市

千葉県にも、かつて森林鉄道があった。

…と言ったら、どうだろうか?

房総半島の谷深い山々を知る人ならば、別に不思議も無いだろうと言うかも知れない。
だが、林鉄に詳しい人のほとんどは、千葉県に森林鉄道はなかったと考えているはずだ。
私もそうだった。

なぜそのような“常識”が生まれたかといえば、おそらくは出回っている資料のせいだ。
林野行政を掌握する林野庁がサイトで公開している「国有林森林鉄道路線データ (平成28年1月31日修正)[pdf]」に、千葉県内の路線は記載されていない。全国の1100以上の路線が網羅されているのにも拘わらず、千葉県にはただの一路線もない。
同資料が引用文献として掲げている、林鉄ファンのバイブル的存在『全国森林鉄道(JTBキャンブックス)』の巻末にある「林鉄一覧」も同様である。
(もっとも、これらは国の国有林事業に属する森林鉄道の一覧表なので、民間業者が独自に敷設した路線は掲載されていないし、そのような路線を含めた一覧は、おそらく存在しない)

千葉県にも、かつて森林鉄道があった。
それも、旧東京営林局千葉営林署が運用していた、歴とした国有林森林鉄道だった。


本稿は、私が上記の結論を得るまでの顛末を述べたものである。
メインとなるのは2014年12月に行った探索で、その探索写真を保存したフォルダに、帰宅直後の私は「元清澄林鉄最終作戦」と名付けていて、最近では稀に見る中2気合いが感じられる。
今回はその「導入」であり、メインの探索を起承転結の「結」としたときの「起」の部分を書いている。

すべての始まりは最終探索の約5年前、千葉県君津市の“ある廃林道”を探索した直後の出来事にあった。




私のそれまでの常識を打ち砕いた、古老の証言

千葉県君津市南部、亀山ダム西側の山域に、2kmほどの長さの廃林道がある。
地形図には普通の細い車道のように描かれているのだが、実際には入口から500m足らずで廃道化し、途中には結構長い廃隧道もあるのだが、終点まで行くのは結構骨が折れる。
私は平成22(2010)年2月4日、毎年の恒例である冬の房総遠征の中で、この廃林道を探索した。

廃林道の探索を終え入口に戻った私は、そこで一人の古老と遭遇した。右の写真はそのときのものだ。
私は廃林道の昔の話しが聞ければと声をかけたのだが、古老は鉄砲うち(狩猟)で昔から周辺の山をよく歩いてきたそうで、えらく詳しかった。
私も楽しくなって、しばらく夢中で聞き取り調査をしたのだが、その中で彼が、まるで昨日の話でもするかのように語ったことは、私にとってかなり衝撃的な内容を含んでいた。

以下にその内容(本編と関係する事柄のみ)を掲載するが、これは話しを聞き終えた直後、忘れないよう急いでボイスレコーダーに吹き込んだ自身の語りから書き出したものである。
いくつか地名が出てくるので、右の地図とあわせて、お読み頂きたい。


「片倉ダムの上流、衛星管制センターがあるところから尾根を越えて下ると、ダム湖に注ぐ沢の上流に入ることが出来る。


その沢には、木を伐るためのトロッコの跡があり、今もトロッコのレールが棄ててある。

そしてそこに、長さ500m、幅2mくらいのトンネルがあり、鉄砲うちで通った事がある。


トンネルのある場所は、ダム湖の上の沢を遡っていくと2mくらいの滝がある。それを越えるとまた1mくらいの滝がある。その先で谷は二手に分かれていて、左の小さな谷を上っていくと、トンネルがある。

話しの序盤で古老の口から突如「衛星管制センター」なんてのが出て来た時には、そんなハイテクなものがこの界隈にあると思わなかったので面食らったが、それは確かに存在していた。

それはさておき、この証言には私を驚愕させたポイントが、二つある。
一つは、それまでの千葉県内での探索や資料調査では聞いたことのなかった、「木を伐るためのトロッコ」という、森林鉄道の存在を強く疑わせるワードが出て来たこと。
もう一つは、“トンネル天国”の異名を持つ房総らしく、トロッコ跡にもトンネルが存在し、しかも長さが500mもあるということだ。


うおー!激アツ!!


でも、ちょっとマテ!
舞い上がってはマズイ。私には、古老の証言から探索をして何も得られなかったという苦い経験がある!
悪意の有る無しを問わず、人の証言には錯誤がある。また聞き手の聞き違いや勘違いもあるのだ。冷静に情報を分析しなければ……。
……、
しかし今回の証言についていえば、トロッコ跡やレール、そしてトンネルの存在というのは、ゼロかイチの話しだから、まず勘違いはないと思う。
古老の語り口がはっきりしていたことを除いても、この点には信憑性があると言えるだろう。

問題は、“そこ”へ行くルートが、地図に書かれているような道ではないということだ。
それどころか、“そこ”が地図上の“どこ”なのかさえ、はっきりしない。


右の画像は片倉ダム周辺の地形図だが、ダムの上流には、行く道が描かれていない無名の谷がいくつも存在する。
しかし、「衛星管制センター」から「尾根(地図上で緑に着色)を越えて下る」ことで辿り着ける、「ダム湖に注ぐ沢の上流」に条件に当てはまる沢は、おそらく一つしか無いと思われる。
聞き取り時も地形図は持っていたので、それを使ってトロッコ跡やトンネルの詳しい場所を聞き出そうとしたのだが、ずっと地図に頼らず自らの記憶と経験に頼って山を歩いてきたのだから、それは無理な相談だった。

古老に直接連れていってもらうのが“近道”だと、私の理性は訴えていた。

しかし、今すぐ行ける場所ではなさそうで、流石に案内を頼むのは迷惑だろうという“常識的判断”が、それをさせなかった。
…というのは半ば以上口実で、実のところは私の引っ込み思案な性格と、自分の足で辿りつきたいという欲望と、この情報があれば独力で辿りつけるだろうという判断が、案内を請わせなかった。
それに、軌道跡さえ見つけることが出来れば、そこからは芋づる式にトンネルに辿り着けると考えていたので、古老が教えてくれた“滝”とか“左の谷”とかの話しは、少々聞き流してさえいた。
この行為の先には、長い後悔の時間が待っていたが、あいにく私は未来予知の能力者ではなかった。





予想以上に難航した机上調査

片倉ダム上流のポイント・エックス、仮称「トロッコ谷」へ実際に足を踏み入れたのは、この古老の証言から3年も経った後のことだった。
随分と時間が空いてしまったが、それには理由があった。

帰宅後すぐに一筋の谷にアタリをつけ、地形図では無名の谷を、“トロッコ谷”と仮称する事にした。
だが、どうやってそこへ行くのかが、まず問題だった。
古老は「衛星管制センターの辺りから尾根を越えて入る」と言っていたが、詳細な入口の場所や歩く距離は判然としない。
鉄砲うち仲間だけに通じる、地図には無い秘かな通い道でもあるのか。現地でしらみつぶしに探すか、或いは道をはなから無視して強引に跋渉するか。

歴代の旧版地形図は、もちろん早い段階に全てチェックした。だが、そこに載ってるくらいなら、もっと早く気付いていた。
“トロッコ谷”には軌道の記号はおろか、道そのものが全く描かれていなかった。今も昔もそれは変わらなかった。

千葉県にも森林鉄道があったのかもしれないというのは、私にとってセンセーショナルなテーマだった。
にも拘わらずなかなか探索に踏み込めなかった最大の理由は、根本的な情報不足にあった。
空振りに終わる可能性のある探索は、他にも探索候補が次々と出てくる中では、どうしても優先順位が下がる。
それに私が房総半島の内陸部で探索を行うのは、毎年12〜2月の短い期間だけである。それ以外の時期は私の天敵であるヤマビルが多数出没するので避けている。
気付いたときには1年経ち、2年経ちと、時間が経過してしまった。

それでも完全に忘れていたわけではなく、古老の情報を裏付ける資料を探すことは地道に続けていた。
例えば、「千葉県林政のあゆみ」という、昭和54(1979)年に千葉県農林部林務課が出版した690ページからなる大冊を見つけたときには興奮した。
だが、結論から言えば、同書にも県内に森林鉄道や木材運搬用の軌道が存在したことを裏付ける情報はなかった。
正直、これにはだいぶテンションが下がった。
まさか、古老のガセ情報なのか…?
一度は否定したはずの悪い想像さえ蘇った。
もちろん、ネットは随時調べたが、それも空振りに終わっていた。

もう一度あの古老に話を聞きたいと思ったが、連絡先を聞いておくという気の利いた真似をしていたかといえば、NO。
言い訳はない。一期一会なんて格好付けるつもりはなく、あのときはその後の机上調査で何も得られないなどとは、つゆほども思っていなかったのだ。
資料から普通に調べが付いて、軌道の場所を把握してから、じっくり探索するつもりだった。
古老の証言は、“きっかけ”として十分だと満足していた。

いい加減、このままでは、どうにもならなさそうだ。
進展のない机上調査にようやく見切りを付け、自分の足で“トロッコ谷”へ向かう決断をするまでに3年かかった。


次回より、「承」の巻。