会津線旧線 大川ダム水没区間 第4回

福島県会津若松市・南会津郡下郷町
公開日 2006.12.8

汀線軌道

小出集落下の旧線跡


 湖畔にありながら水没を免れた小出集落。
現在の国道はこの集落の入口で長い下郷トンネルへ入ると、そのままダムサイト近くまで行ってしまうが、旧国道が生活道路になっている。
通りに面して各家屋が短辺を接しており、これは「短冊形」と呼ばれる古典的な宿場の町割りそのものである。
実はこの小出には、いまは湖底へ沈んでしまった桑畑と共に、宿場としての歴史が秘められていた。
それは元禄8年(1689)から享保8年(1723)頃までの短期間ではあったが、会津中街道が会津藩によって開鑿され、それまでの会津西街道に替わって本街道とされた時期である。
会津藩主の参勤交代の行列も、江戸廻米も皆ここを通り、それまで山間の小村であった沿道の各村は賑わいを見せた。
特に、この小出と桑畑の間では大川の渡船場があって、街道を往来する荷物や旅人が多く足を止めた。


 小出集落は2段になった河岸段丘の上段の上にあり、会津線は下段を通り抜けていた。
今も昔もこの下段は農地として利用されているようで、線路が消えた跡も田畑の様子は変わっていないと思う。

この写真の通り、谷際を横切る旧線の築堤跡は集落から一望の下である。
農作業用の細い舗装路が国道や集落内から下っており、これを辿っても次なる第二小沼崎隧道へと辿り着けそうではあったが、どうせ簡単に接近できる側の坑口は塞がれているだろうという予測のもと、これ以上近付いてみなかった。
残念ながら帰りの電車時間までの猶予が減ってきていることも、この決断の理由にあった。

私は小出集落を通り抜け、隧道の裏側の台地上へ進んだ。



地上から忽然と消えた廃線跡


 旧国道を進んで、神社の脇をすり抜けると間もなく、湖側へ折れる畦道があったのでこれに入る。
すぐに杉林の斜面にぶつかって道は終わる。
ここからは再び歩きだ。



 もはやお馴染み(?)となった杉の斜面を駆けるように下り、いよいよ4番目の隧道へと期待が膨らむ。
下には濃い緑の平坦地が見えている。
どうやらまだ湖面まではいくらかの猶予があるらしい。



 濃い緑の地面の正体は一面の笹原だった。
これでは旧線跡と言っても道床の観察は難しそうだ。
だが、明らかに平場が南北に続いている。(写真は北向きで撮影)
この調子なら、さらに北の小沼崎第一隧道さえ射程圏内かも知れない。
ともかく、この直ぐ南に口を開けているはずの第二隧道を目指そう。




 今度は南向きを撮影。
この先に、隧道は口を開けているはずである。


 ……

そのはずなのだが…?



 あれあれあれあれ。

 あれれれれ!

平場だと思っていたものは、少し南へ進むとあっという間に斜面に呑み込まれ、消滅してしまった。
ということは、ここにあった隧道が埋められたのか?
それにしても、一面の杉林の斜面だぞ。そんな痕跡もない。

 ま まさか…。



見てしまったモノ 



 あれはッ

 ももももしや!!

 見えてはならない場所に、見たかったものが……ありました。



 見えてしまったモノは仕方がない(ニヤニヤ)。
行くしかないのです(ニヤニヤ)。
もちろん、滅茶苦茶興奮してます。はい。

これまでありそうで無かった、水面ギリギリの廃隧道。
まだ現時点では坑口の上半分しか見えず、果たして洞内に水が侵入しているのかどうか分からない。
浅いなら、もちろんジャブジャブ行く覚悟だ!

ともかく、いまはまずこの足下の断崖をどうにか下る事が肝要だ!
下れるのか!



 足下の瓦礫の斜面は浮き石が非常に多く、危うい場所だ。
だが、こんな岩場にも多くの灌木がツタのような根を架けて育っており、彼らが必死で延ばした生命線を命綱に、私は一歩ずつ下った。
おそらくダム湖の水位が最大になると、この辺りまで冠水するのだろう。
この岩場全体のうっすら乾いた泥に塗れている様子、そして浮き石だらけの風化具合は、これまでに数度経験してきた汀線断崖の特徴、そのものであった。

 眼下には鷹のクチバシのような尖塔が、真っ青な水面へと突き出している。まるで岬だ。
この尖塔は、旧線が削り残した切り通しの片割れに違いない。

 それにしても、この圧迫感と興奮は一体何だ!
普通、ダム湖の汀線一帯は立ち入り禁止である。
こんな崖地だから、柵があるでもないし、誰にも気付かず立ち入ることが出来るのだが、それがまた逆に、秘密の作戦をしているような一種異様な高揚感を私にもたらす。

 やはり、ダム探索は、 た ま ら な い ・・・。



 数分後、多数の岩の破片と共に、私はほぼ下まで降りた。
振り返ると、いま下ってきた岩盤が“閉じた通路”に思えた。
あとは、目の前に横たわるこのぶ厚い落石防護壁を越えれば路盤へと降りれる。
こちら側は低いが、路盤側はかなり高い。ちょうど通り抜けるのにおあつらえ向きの横穴が空いていてくれた事に感謝。
これがなければ、ここでも苦戦を強いられたことだろう。

 身を屈め、朽ち木や枯葉で充たされた小穴を通り抜ける。
そして、私は遂に陸上最後の地へ辿り着いた。



 北方向には、もはや陸地は殆ど残っていなそうである。
おおむねこの区間は全線が15〜25‰の急勾配で若松側へ下っており、探索開始時には水面から50m近くも離れていると思っていたのに、3km先ではこの有様である。
どうやら、これが私にとって最後の隧道になりそうである……。

 全ての隧道を探索出来なかったのは大いに残念だが、この高水位であったからこそのこの緊迫感溢れる景色を体験できたのである。
気を取り直し、背後に口を開ける第二隧道へ進もう。



 驚くほど水面すれすれの場所に隧道は口を開けている。
坑口前は路盤もだいぶ削り取られ、凹んでいる。
干し草の上を歩く微妙な感触。
季節感の全くないゴミが打ち上げられており、ダム湖の無情を痛感する。
行く手には、かつて鉄道写真家達に“大岩”と通称されていたという一枚岩を貫く、第二隧道。


 幸いにして隧道内からも水は退いていた。
それにしても水面が近すぎる。
北風で小刻みに揺れる汀線からは、チャポチャプ…と、寂しげな音が聞こえてくる。
ダムの水位がそう短時間で劇的に増減することはあり得ないが、そうと分かっていても怖い。
まるで、いつ口を閉じてしまうか分からない“真実の口”へ腕を突っ込んでいるような気分だ。



 もはや大川ダムの水容量の一部と数えられているだろう隧道内部。
見た感じ、特にダム工事に当たって加工を受けた痕跡もなく、そのまま沈められてしまったようだ。
大量の枯れ枝が床一面を覆っていて、歩くとパキポキと痛快な音がする。
その下には泥の層がある。

 全長は100mほどで、ゆったりとカーブしているその先に、案の定鉄格子が嵌められた出口が見えていた。



 一連の隧道の例に漏れず、側壁はコンクリート、起拱線より上がコンクリートブロック製である。
最近は水没していないのか、或いは常に強風が吹き抜ける環境にあるからか、これだけ湖面に近いにもかかわらず、比較的洞内は乾いた印象である。

 すぐに出口へ迫った。
その先からは、大きな滝の音が聞こえてくる。


 鉄格子の隙間から先を覗いてみる。
そこには確かに滝が落ちていた。
その水は隧道内へは導かれず、路盤を横切ってそのまま湖へ流れ落ちている。

 この先はおおよそ200mほどで先ほど遠望した小出集落下の農地へ出るはずだが、今回はそれを確かめなかった。
なかなか雰囲気のある汀線すれすれの廃線跡が続いていそうだ。

 さて、こちらから出られないことが分かった以上、帰りの心配を本格的にしなくてはならない。
考えなしに下ってきてしまったが……。



 人々が頭脳と労働を投下し完成した鉄道も、時の移り変わりと共に優先順位を落としていった。
山峡の村々の存亡を懸けた鉄道誘致の時代は終わり、都市に住む人々の安全で豊かな生活に重きを置いた多目的ダム建設が盛んとなった。
巨費を投じて新線へ付け替えられた会津線も、その矢先に廃止論が取り沙汰されたことは最初に述べたとおりだ。

 私は、ダムの水面が嫌いだ。
貯められた水は、いつも押し黙っていて、底を見通すことも出来ず、暗く、冷たく、堅く、そして変な匂いがある。
川に流れている水があんなに心を癒してくれるのとは、天と地だ。
そんな水に半永久的に弄ばれる宿命を背負わされた、会津線旧線の幾多の遺構に、私は「すまなかった」と言いたい気持ちだ。
弄んだのは我々だ。 と。



 私が下ってきた斜面の隣、坑口真横の岩場だが、ここを登るのは難しそうだ。
風化のために自然と砂利になってしまった瓦礫が大量に浮いている。
その途中には、無惨に枯れた木々が折り重なるように落ちてきていて、まるでアリ地獄。
手掛かりになりそうなモノは何もない。

 やはり、下ってきた場所を登るしかないのか。




 湖底へと続く路盤 


 少しでも楽に登れそうな斜面を探し、水際を歩く。
左手には落石防護壁がありここも旧線跡に間違いないが、夏場は芦が茂っているようで、いまはその枯草に覆われている。

 対岸の眺めが目を惹く。
折り重なる山並みが非常な高度感をもって迫ってくる。
一番手前にあるのが向山(海抜741m)で、上半分はもう焦げ茶色。晩秋の山景色だ。
その奧に控え、真っ白な雲のなかから徐々にその姿を現し始めたのは大戸山(1274m)と大戸岳(1416m)だ。
雲の白さがまだ山に残っているのかと思ったら、いま積もったばかりの新雪の白さだった。
朝はまだ焦げ茶色だったのに。
あの白さは、1ヶ月を待たずもうすぐここにも降りてくることになる。



 水際の旧線跡。
もはやその痕跡は何も残っていない。
打ち上げられた大量のゴミが悲しい。
左手の防護壁は途切れた。
代わりに護岸の石垣が現れた。
路盤を削ってダムの護岸が作られたのだろう。
もう廃線歩きに何も期待は出来なくなった。
早く戻れる場所を探さなくては。



 私は最後にもう一度だけ見ることが出来た。
この先に確かに線路は続いていたという、確かな、痕跡を。

 もはや護岸が湖面に突き刺さるように険しくなり始め、芦の底も水面となったのでこれ以上前進は出来なくなった。
仕方なしに“錬り積み登り”で地上へ戻ることにしたが、そこを登り始めてすぐに私は見た。
水面に浮かぶ岩ばかりの小さな島と、そこだけ芦が生えず運河のようになった水面上の緩いカーブを。

 そしてこれが、この日、私が目にした最後の旧線痕跡であった。
さらに3本の隧道と、1つの巨大鉄橋、1つの村と駅が、この先には眠っている。
それは永久に見ることは叶わぬものかも知れない。
だが、この灰色がかった湖面の下、無音の世界に、いまも確かに眠っているだろう。
その痕跡の何かしらかは。



 練り詰みの斜面を登り、ようやく地山が現れてきて、豊富な手掛かりを得る。
これにて一安心。
今一度湖面を振り返る。

 さようなら、会津線。




 湖面総覧  …未完にして完 


 この先はもはや旧線跡を辿る事は不可能である。
単純計算でも、ダムサイト付近の旧線(ちょうど隧道の中になるはずだが)は、水面下30mを越える筈だ。
かつてこれほどの深界の探索が可能となったのはただ一度きり、岩手県の湯田ダムにおいてダム堤体のリフレッシュ工事によって大排水が実施された時だけだった。

 ともかく、この先は湖面上の有様を見て行くことにする。

 写真は、湖面を一跨ぎにして桑畑と小出を結ぶ「大川湖面大橋」が一番手前で、その奧が会津線、一番奥がダム管理道(周回路)の橋だ。
人呼んで大川ダム三連橋である。



 湖面橋の上へ行くと、もの凄い強風に驚く。
しかも風が冷たいなどというモノではない。痛い。 痛い痛い。
そんな中、カラフルな列車が橋の上にスルスルと現れたかと思うと、なんとそのまま橋の上で停止。
おいおい、なんの冗談だよ。

 実はこれ、観光客向けのサービスである。
こんな強風の中で何も律儀にやらなくてもいい気がしたが、まあ、喜ぶ人がいるのなら…。



 橋からの眺めを何枚かお見せしたい。
 左の写真は、橋の南東方向。
会津線の長い大戸トンネルがやっと地上に出て来た坑口が、ダム管理道の橋の裏に見えている。
その下のススキの原っぱの中に埋もれたような数軒の民家… 遠目に見ても明らかに廃村であろう。
地形図にはそこに何ら集落は描かれていない。

 目まぐるしく変化する山間の天候。
一時雲間に現れた稜線は、既に冬の世界だった。(写真右)


 そして、南西方向。
ついさっき歩いていた方向だ。

 この橋のほぼ真下に突き出した細い半島を貫くのが、小沼崎第一隧道である。
当然、水面上にその姿を一切見せてはいない。

 ここは、大川を渡る道にとって特別な場所でもあった。
険しい大川渓谷に進路を取った古い道は、みなすべからくこの半島付近を渡っていたのだ。
会津線旧線は第一隧道を出るとすぐ、区間内で最長だった第一大川橋梁を架けていたし、この湖面橋の旧道もまた、鉄道橋の傍を控えめに渡っていた。
さらに、会津中街道こそ渡船に拠ったと言うが、その渡し場もこの下だし、あの三島通庸が明治初期に開通させた会津三方道路(県道)が初代の橋を架けたのも、この底だった。
それらの遺志を一身に受け継いだのが、唯一ダム湖に勝ったこの湖面橋なのである。


 さらに望遠で覗くと、先ほど湖面から撤退するときに見た、湖底へと続く堀割が鮮明に見えた。
上の写真にも写っている。
あの堀割から緩やかなカーブと共に進んできて、真下の半島を隧道で貫き、湖面橋を潜り、そこから全線25%という急勾配多連ガーダーの第一大川橋梁を渡って、対岸の段丘上、桑原駅へ下っていく。
それが旧線の見えざる姿である。
だが、想像力に逞しい我々ならば、そこに無粋なマーカーラインなど要らない。



 強風に耳を取られそうになりながら(この痛さは危険だ!)反対側の欄干へ身を乗り出す。

遠くには大川ダムの堤体が見える。
このどんよりした水面の下、やや右より手前には、宿場町を経験したこともある桑原集落が駅と共に眠っている。
いまの桑原は、駅と共に右手の高台の中へ移転している。
前方、右岸にはダムサイトまでに2本の隧道が沈んでいる。
特にダムサイトを貫通する隧道は最も長く、600mを越えるだろうか。
何れの坑口も、ダム喫水以来長年、現状不詳となっている。




 旧桑原集落へ繋がる山裾が、緩やかに湖底へ落ちている。
しかし、もはやそこに人の暮らした証しは何も無さそうだ。

 奧の岩場には、会津線の隧道と絡み合うように、明治16年前後に貫通した会津三方道路も通っていた。
鉄道よりも遙かに古い。
そして、そこには一本の短い隧道が存在していた。
蟹沢隧道と名付けられているが、現在残るのは、当時の絵画や写真の中の姿だけである。
ダムが建設された当時には、既に廃道であった。



 会津三方道路に代わって、湖面からかなり高い位置を通行している現在の市道。
湖面橋を渡ったところからは、会津若松市である。

 ガードレールからチラチラと見える湖面を覗き込んでみる。
どうにかすれば下って行けそうな斜面が見えていたが、下ったところで何も無いはずだ。
涙を呑んで、素通りする。

 再訪を誓って。



 2kmほどでダムサイトが現れた。
たった一枚の壁が、連続した山渓の風景を断絶する。
 桑畑や小出の集落がかつて会津中街道の宿場として賑わったのは、それまでの本街道であった会津西街道が川治付近で不通になったせいだが、その不通の原因は、地震によって鬼怒川が堰き止められ、そこに出来た五十里(いかり)湖が街道を沈めてしまったためだった。
やがて五十里湖は決壊し街道は元通りになったのだが、会津中街道がこの大川流域に残した功績は少なくなかった。
 が、やがて大川に人工のダムが作られ、桑畑は沈んだ。
また、五十里湖もやはり人造湖として再出現し、やはり多くの宿場や古街道が沈んだ。



 大川ダム公園となって整備された旧舟子集落。
ここは水没こそ免れたが、集落は全戸移転した。
会津線の新旧分岐地点もこの近くにあるが、地形は大きく変化しており、それらしい痕跡は何も残っていない。
時刻表に載らないヤミ駅として名高かった旧舟子駅の跡地もご覧の通り。
駐車場になっている。近くには集落の移転記念碑も立つ。



 旧線区間で第一番目の隧道の南側の坑口が、この辺りにあったはずだ。
だが、なんの面白みもない人工的な地形の上に、公園の諸風景が並べられている。
そこには、危険、怪しい、不気味と三拍子揃った旧隧道の坑口など、あるはずもなかった。
悲しい現実、完全消滅であった。
埋められただけでなく、地中で破壊さえされているかも知れない。

 今回の探索は、これにて終了である。








霧笛を秘めし湖

いつか再訪の日を願い

本レポートは今話を以て未完とす