廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 序

公開日 2017.03.28
探索日 2010.05.04
所在地 静岡県川根本町


本稿では。いよいよ皆さんお待ちかね、千頭(せんず)森林鉄道の奥地探索の模様をレポートしよう。

本線延長36km、支線や作業線を含めれば50kmを超える千頭林鉄のうち、平成22(2010)年4月18日〜21日にかけて集中的に行った探索では、本線は起点の沢間駅から大樽沢まで、大間川支線は起点の尾崎坂から終点まで、逆河内支線も起点の大樽沢から終点まで、それぞれ探索を終え、レポートも当サイトや書籍などで順次公開済み(本線の尾崎坂〜千頭堰堤間を除く)である。
支線は既に全線の探索を完了し、残るは作業線(探索を行うかは未定)と、本線のうちの大樽沢以奥の区間である。

右図は、これまでのレポートでも度々登場したが、昭和30年頃に作成されたとみられる(だからそれ以降に敷設された支線は一部描かれていない)千頭林鉄のキロ程図だ。
図中で黄色く塗ったのが未探索区間で、今回探索を企てた区間と完全に一致する。
すなわちそれは、大樽沢から終点栃沢までの“軌道”と、その先に続く柴沢までの“牛馬道”である。

キロ程図だけあってここには克明な距離が記されており、大樽沢(沢間起点より27.6km地点)から栃沢(36.0km地点)までの8.4kmと、栃沢から柴沢までの牛馬道8.3km、この合計16.7kmが今回の攻略対象となる。

廃道廃線の探索対象としては十分過ぎるほど長い行程だ。
また距離の長さだけではなく、南アルプスという地形の険しさから来る探索自体の難しさ、危険さも、理解はしているつもりだ。
だが、こうした問題点を“覚悟”していてもなお、容易には探索へ踏み込ませないだけのハードルとなるような問題が、ここにはある。
それは、アクセス性の絶望的な悪さだ。


大樽沢までの探索を紹介した以前のレポートでは、軌道跡探索の前後にある、いわゆるアプローチの模様をほぼ省略しているが、実はかなり大変であった。
しかし、今回計画した探索区間は、前回のそれが可愛く思えるほど絶望的にアクセス性が悪い。

右図は、千頭林鉄の全体図で、今回の探索目標を黄色くハイライトした。
だがこれを、普段の「山行が」で良く見る地図の縮尺とは思わないでもらいたい。
例えば、地図中ではそう長くは見えない「逆河内支線」は、約4kmある。「大間川支線」は約10kmだ。
これだけでも東京営林局管内では最長の規模を誇っていた本林鉄のスケール感が分かると思うが、ここで問題となるのは。先程来述べているアクセス性の絶望的な悪さだ。

本林鉄が分け入っているのは、寸又(すまた)川という大井川の一次支流だが、この流域でマイカーの通行が許されるのは、図中の「大間」(林鉄のキロ程でいえば13.5km)附近までだけ。
それより奥には、軌道跡を転用したものや新たに整備された林道が伸びており、その代表格が大間を起点とする「寸又川左岸林道」なのであるが、柴沢の奥へ通じる全長40.6kmのこの林道は、全線が一般車両通行禁止であり、しかもネットで見た登山レポートによれば、途中からは大荒れでとても車で通行出来る状況ではないという。

一応は登山道になっているらしく(日本百名山である光(てかり)岳(2592m)の登山ルートの一つらしい)、歩行者は通行でき、自転車もまあ許されるだろうが、林道の入口から今回の軌道跡探索のスタート地点である「大樽沢」までは、約16kmもある。しかもガチガチの山岳道路で、高低差は実に600m以上だ。
さらに、辿り着いて終わりでは当然ない。軌道跡の探索に大成功し、「柴沢」に着いた後がまた地獄。
そこは大間から数えて林鉄のキロ程で約31km、林道経由なら約35kmの袋小路であり、生還のための復路の大部分は、自転車ナシでこの距離を歩く必要がある。

この探索には、公共交通機関、タクシー、友人知人の送迎、そんな手ぬるい逃げ道は存在しない。あるのは、自力が及ばなくなったら即遭難という、(探索者)生命に関わるフラグだけ。


そんなわけだから、大樽沢より奥を探索するならば、絶対に日帰りは不可能で、山中泊が必須。それも2泊3日は余儀なくされると考えた。
アクセス性が悪くなければ少しずつ“刻む”ことが出来るのだが、ここでそれはあまりにも非効率的だ。やるなら一気に全線を探索すべきだろう。

左図は、今回計画した2泊3日探索のルート図だ。

初日は、大間から寸又川左岸林道および支線の日向林道を延々と走って、20km先の軌道跡入山地点(前回探索で見つけた吊橋)を目指す。そこからは軌道跡を歩行し約2kmで前回の最奥到達地点である大樽沢の廃トラス鉄橋だ。橋を渡ってからが今回の本番で、暗くなるまでに大根沢を目指す。大根沢にはかつて大規模な事業所があったとされ、探索前に見た最近の航空写真にも建物の屋根が写っていた。廃屋の可能性は高いが、今回は荷物の軽量化のためテントを持たない(タープとシュラフは持つ)ことにしたので、出来れば頑丈な屋根と壁のある場所で夜営がしたい。だから大根沢を目指す。初日に軌道跡を歩く距離は合計7.5kmを予定している。

2日目は、朝一から軌道跡を歩いて、軌道終点の栃沢を目指す。ここまでは2.1kmしかないが、引き続き“牛馬道”として整備されたといわれる柴沢を目指して歩く。牛馬道には軌道跡ほど興味は湧かないかもしれないが、色々な記録を見ると、戦時中(昭和20年)に完成したこの牛馬道は、レールを敷かれなかったか敷設後にすぐに撤去されたというだけで、軌道に近い規格の路盤が整備されていた可能性が高いと私は考えている。それを確かめたい。栃沢から柴沢までは8.4kmである。2日目は奥へ行って終わりではなく、帰還も進めたい。帰路は軌道跡ではなく、寸又川左岸林道を利用する計画だ。林道は荒れているとの情報もあるが、軌道跡よりはマシだろうと予想した。また、登山者のレポートによれば、林道沿いにも所々に小屋があるらしいので、暗くなったらそこで夜営だ。出来れば大根沢あたりまで戻りたいが。2日目の総歩行距離は20kmを予定している。(ちょいキツいか…)

3日目は、寸又川左岸林道をおおよそ18km歩いて自転車を回収。その後は一つだけサブミッション(関節技でなく)を考えている。それは前回の探索(平成22年4月21日)で訪れた無想吊橋の再訪である。目的は、うっかりミスで消してしまった渡橋動画の再撮影……(涙)。この動画撮影の模様は、レポートを公開済みだから、皆さま安心して下さい。私はちゃんと1日目も2日目を生き抜いて無想吊橋に現れたのですよ。……ただ、ちゃんと計画通りに軌道跡を歩けたかどうかは、本レポートで初めて明かされるのですが……。無想吊橋を終えたら、後は大間へ帰還するのみ。この帰路には、軌道跡であり軽車道になっている寸又川右岸林道を活用するつもりだ。(これを往路に使わない理由は本編で述べる。) 自転車回収後の総移動距離は19km前後だろう。

以上、3日間で自転車を39kmほど漕ぎ、45.5kmほど歩行するという探索プランを立案した。


なお、今回の探索は当初単独で行うつもりで計画したが、林鉄探索仲間のはじめ氏(旧「森のむこうのかくれ道」管理人)に計画を話したところ、是非とも同行したいと仰られた。彼とはこの当時、奥秩父方面で幾つもの難しい林鉄探索を一緒に行って成功させていたという信頼感があり、一人きりで3日間も廃道を探索する寂しさも考えたから、同行をお願いすることにした。結果、彼も無事に帰還したので、このレポートを書くことが出来ている。

この探索は、前回の探索から2週間後の平成22(2010)年5月4日〜6日の3日間に実行した。




ところで、蛇足かも知れないが、一応書いておきたいことがある。
それは、なぜ探索からレポートの執筆(今日は平成29年3月28日)まで長い時間が掛かったのかということだ。
個人的な理由ばかりであるが、まず一つめの理由としては、当初この探索レポートは書籍化を念頭に置いていたため、サイトには書かない方針だった。だが、(この探索とは無関係の)事情で書籍計画はなくなった。そもそも、冷静に考えれみれば、これはいかにも書籍として読むには不向きな探索であり、サイトにこそ向いていると思う。

第二の理由は、一つめの理由とも無関係ではないが、どうしても長いレポートになることから、執筆開始を敬遠して来たのだった。
だが、途中で私に寿命が来てしまえば元も子もないと思ったので、撤回する。ただし、長期間にわたって同じレポートだけを書き続けるのも、読み続けるのも辛いだろうから、このレポートは途中で他のレポートを挟みながら時間をかけて完結させる方針である。ライフワーク的に進める予定であるということを、ご了承いただきたい。

最後の第三の理由は、昨年刊行された『賛歌 千頭森林鉄道』に刺激を受けた。
著者である谷田部英雄氏と面識はないが、以前の探索で訪れた大間の「南アルプス山岳図書館」の司書さんや、同地のホテル「翠紅苑」のご主人のご厚意で、矢田部氏が平成20(2008)年に刊行(自費出版であろうか)された『千頭山小史』の一部複写を譲っていただいたことがあり、両書は千頭林鉄を知る上で私のバイブルになっている。
皆さまがこれらを入手されれば、きっと千頭林鉄の歴史の面や知識の面では存分に満たされるはずだが、その際に「現状はどうなってる? 何が残っている?」という疑問が湧く人もいるだろう。容易に辿り着けない奥地の状況を知りたいと思った時、少しでもその役立てれば良いと思った。千頭林鉄には遺構だけじゃない魅力が豊富にあり、むしろ遺構は副だと思えるほどだが、その部分を少しでも補う手伝いをすることで、当時これといって返礼が出来なかった恩に報いたいと考えた。ようは、地元に愛されている千頭林鉄の魅力を語る手伝いをしたいと思ったのだ。




このように、探索からレポートの執筆まで7年近く寝かせたことから、一つややこしい状況が発生している。

それは、当時の私が探索立案に利用し、現場でも使用した地形図(「ウオッちず」)と、現在その後継となって公開されている「地理院地図」の表記の変化である。
僅かな変化ならば気にしないところだが、左図のように、この地の表記は劇的に変わってしまっているのだ。

例えば、この探索で頼りにした寸又川左岸林道は、ここ数年で正式に廃道と見做されたのか、日向林道との分岐地点以奥、終点まで25kmあまりが削除された。無想吊橋への唯一のアクセスルートであった日向林道も同様で、大半が消去された。もちろん、無想吊橋も。
また、探索時の地形図には、軌道跡を描いたと思われる破線の徒歩道が、沢沿いの所々(全区間ではない)に描かれていたのだが、現在はこれも全て消去された。
そのため、逆河内以奥の寸又川沿いは、道が皆無な完全なる原始境のように表現されている。(柴沢以奥の光岳への登山道だけは、繋がる道がない状態で表記が残っているが)

今後訪れようと考える人にとっては、ますます辛く厳しい地図状況になってしまっている(おそらく実際の現状はさほど変化してないだろう)が、本編はあくまでも7年前の実況を紹介するものであるから、特に断りなく、当時私が使用していた版の地形図画像を「現在」という表現で使用していくつもりだ。
この点をご注意いただきたい。

昭和44(1969)年当時、全国に350あった営林署の中で最大の事業予算規模を誇った千頭営林署も、いまはない。
それは、営林局が森林管理局になり、営林署が森林管理署になったからという意味ではなく、千頭国有林一帯を専掌していた地方部署がなくなり、もっと広い地域に立った静岡森林管理署の所管に組み込まれた。そして、かつての千頭営林署管内では、もうほとんど国有林経営は行われていないと聞く。特に、北千頭経営区と呼ばれていた今回目指す奥地については、関係者でも車で入ることが出来なくなった。管内に150km以上もあった林道の大部分が廃止され、人里に近い一部が登山道や発電所の管理用として細々と残っているだけだ。

これは、かつて無数の人々が命をかけて仕事にあたり、我が国の文明文化を支えた根源を、いまいちど目で見て記録に残すための探索である。



栃沢(軌道終点)まで あと29.6km

柴沢(牛馬道終点)まで あと38.0km