廃線レポート  
玉川森林鉄道  最終回
2005.3.11



新旧合流点から玉川ダムまで …玉川10号隧道
2003.9.11


 新旧軌道合流点はまた、旧国道と、新旧国道連絡道との分岐点にも重なっている。
いい加減わかりにくいと思うので、地図を用意した。

私はここまで図中の赤い実線の旧軌道跡を下流から辿ってきたが、今度はこのまま玉川ダムまで向かう。
その後、またここまで戻って、それから青い実線の旧国道(=付け替え軌道跡)で玉川大橋の「チャリ放置点」まで戻ることにする。
引き続き、探索の足は徒歩だが、本地点から玉川ダムまでの往復のみ、同年9月のチャリによるレポートを利用した。




 現在、玉川ダム直下の河川敷一帯は玉川ダム公園として整備されており、近づくにつれ、ダム以前の遺構はまるっきり整理されてしまっている。
故に、ダム下流では最後の遺構となるのが、これから紹介する、隧道である。
これは、現在のダム公園へのアプローチ町道が川沿いにあるのに対し、旧国道(=付け替え軌道との併用)は“7号隧道”(紛らわしいが、これは旧国道・付け替え軌道としての隧道名であり、旧軌道を含めれば、山行が名は“玉川10号隧道”となる)を利用していた痕跡である。
この隧道は町道化の際、廃止されてしまった。


 ジャングルのようになった舗装路へ入り、ほんの50m。
クイッと左にカーブした先に、それはある。



 落石・雪崩除けの簡素な延伸部が目立つ、玉川10号隧道の姿である。

『山形の廃道』様ご提供「隧道リスト」によれば、
当時は県道として記録されているその延長、53.8m。
竣工年は昭和31年とあり、まさにダムによる軌道付け替えとピッタリ符合する。

廃止されたのは、ダムサイトの建設が始まる頃だろうから、玉川ダム工事の初期の段階であったように思われる。
昭和50年代中頃と想像される。
すなわち、国道昇格後は、ものの数年しか利用されなかった?



 しかし、この隧道はこれまでの旧国道の隧道のなかでも、人為的に破壊されてしまった2本を除けば、もっとも痛んでいる。
特にこの南側坑口は、コンクリートの坑門が崩壊しており、これでは放棄もやむなしと思われる。

その内部は、倉庫として利用されており、此方側からは立ち入ることが出来ない。




 隧道を町道で迂回して、玉川ダム公園へ。
当然のように閑散としている。
そりゃそうだ。
現国道から近づくには、一応通行止告知のある旧国道を辿ってくるか、つづら折りの新旧道連絡路を下ってこなければならない、僻地なのだから。
精々、ダムサイト上からの景色に花を添える存在といったところか。

10号隧道の出口は、この公園の片隅に、ひっそりと口を開けていた。
まるで、触れてほしくないものであるかのように、公園内の歩道からは隔離された場所に。




 山際には、最後のアスファルトが残る。
私の背後(つまりはダム側)は、アスファルトもはがされ公園敷地となり、そのままダムサイト直下に至るまで一切の痕跡はない。

いかにも廃道のものと分かる黒ずんだアスファルトを踏み、隧道へ近づく。



 扁額跡のある、北側坑口。
内部はほぼまっすぐで、両側坑門には急なカーブが続くという、駄目な線形の典型例。
いかにも技術的制約の多かった時代の産物である。
コンクリの劣化は著しく、戦後復興期の欠陥急造隧道だったのかと勘ぐりたくなるほど。
坑口を取り巻くようにして、警戒色のペイントが施されていた痕跡も認められる。
この時代の隧道としては決して狭いわけではないが、廃止間際の昭和50年頃にもなれば、国道にあっては立派な狭窄隧道だったことだろう。


 そして、この隧道の内部は、秋田県製造の宇宙戦艦が、密かにその出撃を待っていた。
その名は、「宝仙丸」。

いつの日か、人々が遊星爆弾の恐怖に脅かされたそのとき、宝仙丸は、宇宙(ほし)の海に旅立つのだろう。


地球人類滅亡のその日まで、あと365日?





 隧道を後に、来た道を引き返す。
新旧合流点の傍まで戻ると、旧道の玉川大橋を一望できる。

ここからは、11月のレポートに戻り、この橋を渡って、チャリを回収に行く。



旧 玉川大橋 …謎の三角橋脚
2003.15.03


 旧国道の玉川大橋である。
現道の玉川大橋とは、その規模も姿も全く異なるが、昭和44年12月という、銘板に刻まれた竣工年を考えれば、それなりに大きな橋である。
旧国道の、此方側入り口には、特に通行を規制するようなものもなく、問題なく侵入できる。
実際に、玉川公園と現国道を結ぶ道として、現在もときおり利用されているようである。

ここでの注目点は、この橋の竣工年が、付け替え軌道とは13年も隔たりがあるということだ。
林鉄が廃止されてしばらく経ってから、この玉川大橋が完成したことになるが、では林鉄時代の橋は??


 その答えと思しきものは、玉川大橋のすぐ上流に残された3本の橋脚のようなものである。
位置的にも、これが昭和31年に竣工した付け替え軌道(兼車道)の橋の跡なのは間違いがないと思われる。
そして、特筆すべきは、この橋脚の変わった形状である。



 これが、玉川大橋脇の橋脚跡である。
その独特の形状とは、三角形の台座と、その各頂点を支持する形で立てられた柱の組み合わせである。
果たして、この上にどのような橋桁を乗せていたのか。
現在では、その痕跡は一切残っていないが、下流に見られる付け替え軌道の各橋梁が林鉄らしくない立派な鋼鉄ガーダー橋をであったことからも、ここにもそれに匹敵する、重厚な橋桁が乗せられていたと考えるべきだろう。
だからこそ、この強度的に勝ると想像される、三角橋脚だったのだ。

本林鉄の起点から数えて3回目に玉川を渡る橋であるから、山行が名は「玉川3号橋梁」とする。


 旧国道は、左岸に沿って進む。
対岸には、先ほどまで私が歩いていた旧軌道が、水面すれすれの平場として、うっすら見えている。
車通りのない旧国道を、夕暮れ色に空が染まりつつある中、一人歩くのは、なかなか情感たっぷり。
病みつきになりそうな、まったり感があった。
歩きも、時にはいいモンだ。




 以前、別のレポートでも紹介した区間なので、この旧道区間は簡単に済ませるが、この時点でもまだ、“おにぎり”は健在であった。



 そして、現国道にぶつかる直前に、もう一本の橋がある。
この写真の橋で、名前を小沢橋という、下を流れる沢の名は、「小沢」かと思いきや「小沢沢」だ。(銘板より)
この橋の特徴は、いやに重厚な下部工にあるのだが、河床部分は時に鎧畑ダムにより冠水する地帯であり、橋桁の浮き上がりを防ぐための重しであるかと想像される。

肝心の竣工年は、昭和31年3月。
付け替え軌道上に竣工した橋で、間違いなかろう。




 玉川林鉄の玉川ダム下流の遺構探索は、以上で完了である。
玉川大橋にてチャリを回収し、帰途についた。


帰り途中、玉川ダムを通った。
その鏡のような水面の底には、ダム湖の名の由来となった宝仙台の他、いくつもの集落が、点在していた。
林鉄もまた、そこに住まう人々の足として利用されていた。

これより先約10kmは、常時湖底となり、林鉄遺構の探索はままならない。
しかし、その先には、再び林鉄の魅惑の領域が展開する。
その一端は、こちらのレポでも触れているが、全容はまだ幽谷に封印されしまま。
まだ見ぬ隧道も…おそらくは…

今後の探索計画を、お待ち頂きたい。










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