廃線レポート  
森吉林鉄粒様線 「最奥隧道計画」 その6
2004.10.22

 軌道消失?
2004.9.23 8:33

 ニセ二又からは、本当の二又が間近である。
ニセ二又で一度は半分以下に減ったと見えた水量が、再度一本になり、足を掬うだけの水量となった。
しかし、昨日の苦労と比べれば、たいした深さではない。
ほとんどどこでも、縦横に歩くことが許される程度の深さだ。
 また、粒様沢の風景を大きく二分する場所があるとすれば、それはこの、ニセ二又の頭の部分だと思う。
この下流は、もし軌道跡でもなければ、なかなかに歩くのも単調な、率直に言って面白みの薄い沢。
そして、これから先は、そこにいるだけで冒険心を満たしてくれるような、旅人を喜ばせることに長けた沢である。

倒木が多数折り重なる粒様沢。
対岸にも、軌道跡らしき段差を視認した。
これまでも、ずうっと寄り添ってきた軌道跡。
この時はまだ、「あー、いつの間にか対岸に行ったか」と漠然と思う程度だった…。



 大きく風景が変わると言ったが、そう感じた最大の原因は、この写真の場所に始まる大スラブである。
これまでも、幾度もスラブが現れたが、このニセ二又を境にして、その規模や、斜面の広さが段違いに大きくなる。

かつて、この谷を「神の谷」として崇めたのは、マタギの衆達である。
マタギが神と呼んだのは、山の神に他ならない。
そして、山の神は女神であり、醜女の姿を持つと考えられていた。
山の神が怒るから、マタギの狩りは女人禁制が基本でもあった。

そんなマタギの人々が、おそらく何日も獲物を追いかけ、そして辿り着いた粒様の奥地で見たのは、ご覧のような景色であった。
その、滑らかな白い岩肌を見て、そこに女性的なものを連想したのではあるまいか。
そして、その様な女相を持った谷をして、「山の神の住まう谷」と考えたことも、想像に難くないのである。
森林鉄道など存在しない頃の話である。



 谷には目映いばかりの光が満ちあふれていた。
深いU字の峡谷の底に朝日が差し込み始めると、あっという間に水面に光が溢れ、そのまぶしさは、それまで24時間以上も薄暗い光を見てきた私達の目に突き刺さってきた。
恐らく一週間ぶりに訪れた、快晴の朝だった。

朝露を輝かせる森の草木。
光が忙しなく遊ぶ水鏡。
突き抜けるような青空。

我々の粒様探索にも、遂に朝が来た気分だった。
この時を待っていた。
最奥隧道を前にして、我々の気分はもう、最高潮に達しつつあった。



 随分と久々の滝が現れた。
このような轟音を立てる本流の滝にぶつかったのは、昨日の序盤以来だ。
本当に粒様沢の勾配は緩やかであり、地図を見たところ、太平湖に注ぐ河口からここまで流長8kmを数えながらも、高度差は僅か100mにも満たなかった。
とても森吉山地の源流域にある河川とは思えない緩やかさなのである。

ご覧の滝は、滝壺の傍をへつりながら進まざるを得ず、沢靴のグリップ力に頼るコース取りであった。
まだ私とHAMAMIさんは沢靴になれておらず、そのグリップ力をどの程度信じて良いのか、限界を把握できていなかったので、余計に恐かった。
とてもいつものスニーカーならばとらないコースをとらざるを得ないのは、正直、恐い。
早く靴や沢歩きに慣れたいなという思いは募るのだった。
だが、私の足は、私の頭以上に、沢に慣れていなかった。
このあたりで、今までに感じたことのない鈍痛が、私の左足の土踏まずに現れ始めた。
敢えて私は知らんぷりをしていたが。(今さらどうこうできるものでもないので)
この痛みの原因が、慣れない靴と、慣れない水を蹴って歩く歩行姿勢の持続にあったことは間違いなかった。



 滝壺を迂回して、落差3mほどの滝の上部に立つと、そこは乾いた甌穴が幾つも連なる石畳だった。
石畳の一部に幅2m以下にまで圧縮された本流が、怒濤の勢いで滝へと滑り落ちている。
写真右端には、白い服のくじ氏と、赤い服のHAMAMI氏が直立している。
石畳の広さや、背景の断崖の高さなどが、お分かり頂けよう。

さて、私たちがニセ二又上端以来、突如見えなくなった軌道の安否を心配しだしたのは、この辺りだった。
それまでは、両岸のどちらかに軌道敷きの段差が見えていることが多かったし、ついさっきまでは河床の至る所にレールを発見できた。
しかし、ニセ二又の先辺りで、ピタッと河床のレールは消え、以来ただの一つもレールを見ることはなかった。

実は、我々と森吉林鉄粒様線との、間違いなくそれと分かる遭遇は、最奥隧道を2kmほど前にしたこの辺で、終わった。
最奥隧道とは、なんだというのか?
今さらながら、そんな疑問が各人に強く意識された。
この旅の発端となった、あの写真に写っていた穴は、確かに…ただの洞窟には見えなかったが…。

いよいよ核心の部分が、近づいていた。



 写真は、滝から見た左岸の断崖である。
見上げる限り、そこに道があった痕跡はない。
仮に木の桟橋だったにしても、全く何も残っていないのも不自然だし、河床にレールすらないのは、このスラブに軌道が通ってはいなかったのだろうと思う。
となると、背後の右岸のどこかに軌道があったのか。

確信は持てないが、おそらく、そうであろう。
この直前、くじ氏が単独で右岸に取り付いた際、河床から10mほど登った場所に、藪に消えかけたレールを確かに見たという。
我々三人のうちで、最後に軌道を見たのは、くじ氏となった。
おそらく、ニセ二又の上端で、軌道は本流を渡り、右岸に遷っているのだ。
この滝も、左岸に集中して探していたが、実は背後に軌道が通っていた可能性は高い。
(左岸に集中した理由は、無論「例の写真」には、左岸に隧道らしき穴が写っていたからだ。)

 滝を越えると、再び谷底には肥沃な土の地面が現れ、ブナの森が谷間を覆った。
この景色、いよいよ本当の二又の接近を予感させた。

写真は、左岸の軌道痕跡が諦められず、荷物が昨日とは段違いに軽いことに力を得て、スラブの中でも登りやすそうな場所に取り付いて、河床から20mほど登った私が見たもの。

軌道の痕跡はおろか、人が辿り着いた痕跡の何もない、ただの斜面が、どうやっても辿り着けなさそうな頭上遥かまで続いていた。
この時点で、少なくとも二又直前のこの辺りでは、左岸に軌道は無いことが確かめられた。
対岸である右岸にも、一見したところ軌道跡は見あたらないが、左岸とは違い際だつスラブも無く、可能性は高い。

仲間の元へと降りて、軌道のないことを伝えた。



 粒沢との別れ 二又
9:00

 出発から1時間40分。
太平湖から遡ること8km余り、二日間で8時間以上も歩き、やっとこの場所までやって来た。
地図上で見て頂ければ、「うへー、山奥だ」と大概の方がうんざりするだろう、そんな場所だ。
私も、遠い遠いとは頭で理解していても、まさか沢歩きがこれほどに時間を食うものだとは、知らなかった。
本当に、2日がかりが必要になるなんて…、粒様線は、本当に一筋縄では行かない軌道だ。

写真は、奥入瀬もかくやと言うような渓流美を魅せる合流点の様子。
向かって左は粒沢で、正面が様ノ沢だ。やや様ノ沢が水量多し。
いずれの沢も、地図上ではあと5kmほど遡ると、無くなる。
その少し先は田沢湖町との稜線になっていて、ここからでさえ、田沢湖町の玉川温泉まで直線距離なら余裕で7kmを切っている。
これは荒唐無稽だが、玉川沿いの林鉄とは、もう一山越さえすれば、確かに森吉林鉄は繋がったのである。
おそらく、奮発して5kmの隧道をあと一本堀りさえすれば、森吉と玉川は、ひとつに成れた。
もっと想像を飛躍させて、仮にその路線が国鉄によって買収されていたとしたら、広大な無人地帯を延々30km以上も走行する鉄道など想像しがたいが…、とにかく、生保内(田沢湖線)と阿仁前田(旧:阿仁合線、現:秋田内陸線)を繋ぐ鉄道には、どんな未来があっただろう。
いくら飛躍しても…ちょっと存続はあり得なかったぽいが…。


 二又は、今回の最奥隧道情報提供者であるT氏のお薦めの野営地である。
その他、ネット上で見ることが出来る釣行記などの中にも、この場所に枕を置いた人が結構いた事を知る。
確かに、文句の付けようがない素晴らしい野営地だと思う。
二又となった川は穏やかに流れ、両岸共に土の絨毯が敷き詰められた豊かな岸辺がある。
そこには、雨風をしのぐ幾層ものブナの木々が茂り、山際は切り立つ断崖に囲まれ、何となく隠れ家感があるというか、人間の習性的に落ち着く場だ。
ここで、私たちも寝てみたかったが、入山時刻が遅かったことや、なんと言っても降り続いた雨の影響はいかんともし難く、結局、怪しい杉林での野営となったのは、承知の通りである。

まあ、あの寝床も意外に快適だったし、今日、朝日を受けてこの素晴らしい景色に出会えたのだから、文句は言うまい。



 2日目はすこぶる順調であり、ここまでの到着時刻も予定通りだ。
そして、このさき様ノ沢を遡ること1.5kmほどで、最奥隧道があるという。

水量が一挙に半分以下となった様ノ沢。
もうそこにあるのは、昨日あれほど我々を苦しめた「水竜」ではなく、可愛らしい「水ネコ」である。
(意味が分からない例えでスマン)

とにかく、相変わらず勾配も無いに等しいほど緩やかで、平坦な歩道にも等しいほど、歩くは容易い。
もう、隧道は我が手に落ちたか。
そう考えたのも、無理はなかった。




 さらに進むと、ブナの森は終わりを迎え、両岸は草地や低い雑木林が主体となった。
呼応して、水底の様子も、変化した。

それまでは、ゴロゴロとした丸石や、砂など、まるで川の中下流に似たようなものだったが、ここにきて、河床は一枚岩となった。
今まさにこの森吉地塊の表面を、地球の骨身を、様ノ沢という名の水の彫刻刀が、徐々に徐々に削っている、その現場に我々は立っていた。
滑らかな一枚岩を底に、透き通るプールや浅い瀬の連続。

大げさでなく、本当に、神々の遊び場を連想させる美しさだ。
谷を散々遡った結果が、この穏やかすぎる沢なのだから、地形とは予測不可能なものである。
三人は、自然にペースを上げて、隧道へとさらに迫ることが出来た。


 立ち尽くすHAMAMI氏。

ほんとうに、呆然となるほどに、美しかった。

呆気にとられた。
自然の圧倒的な造形に。

谷を覆う、光と影のコントラスト。
完全に外界とは途絶するような両岸の大スラブと、その高度感とは全く対照的な、穏やかな水の流れ。

何度でも、見たいと思う景色だ。
T氏の言葉が思い出された。

 「何度も行くことになるだろう」

私は、少しに皮肉に捉えていた。
一度では攻略できないほどに遠くて、深くて、困難だから、だから繰り返し行くことになるのだろう。と。

だが、そうではなかった。
実際に、私がまた行きたいと心に誓っているのは、先の述べたような理由も事実であるが、そればかりでは決して無く、この景色は、一度だけでは惜しい。
他の何かで代替できるものでもない気がする。

私の写真力の無さを怨むが、本当に麗しい場所だった。



 これが、稜線直下数百メートル(地図で読んだところ、その比高はおおよそ250mに達する)を穿ってきた、悠久の彫刻刀の、現在の切っ先である。
どれほどの時間が、この偉大な彫刻を生み出さしめたのか。
おおよそ、我々の世界ではない出来事のようだ。


 その、高低差250mの超巨大スラブの一端。

このさき、ますます頻度を増して、このような景色が現れる。
いつしかそれは、一つの連なりとなって、屏風のごとき崖をなす。

両岸が完全に断崖となり、谷が一次元の回廊と化したとき、遂にそれは現れるのだった。


求め焦がれてきた、その“隧道”は確かに存在した!

だが、天然の防衛線が、我々を迎え撃ったのである!!
勝者には謎を解く鍵が与えられ、闘いに敗れるものには恐らく、命の終わりが訪れる。




 次回、最終回!




 −HAMAMI氏のレンズ−

 同行したHAMAMI氏は、現存するレールを確かめたい一心で、無理を覚悟で今回の探索に挑んだのであった。
しかし、実際には過度の心配は不要であった。
彼は、なかなかに健脚であり、行動力もあった。
そして、聡明であり、賢明であり、良きムードメーカーでもあった。

そんな彼が、穏やかな表情のままに、時折懐からカメラを取り出して撮影した景色があった。
私が、下手な鉄砲も数を打てばという勢いで、とにかく何百枚と撮影しているのに対して、彼は一枚一枚、確かめるように撮影している姿が、印象的であった。
なんというか、プロっぽかった。

で、実際に上がってきた写真を拝見させて頂いて、私は愕然となった。
「なんて俺の写真はショボいんだ!」と。
まあ、言い訳すれば、私はFinepixF401(有効230万画素)の1M撮影モード(100万画素相当?)のみで撮影しているのと、2日目は特に朝からレンズが曇っており、駆動しているだけで不思議な状態であったから(言い訳長いので打ち切り)

ここでは、そんなHAMAMI氏が撮影した写真の中から、数枚をご紹介したい。


 初日、雨の中に見つけた、唯一ほぼ完全な形で残っていた木橋。

木橋を構成するパーツを含め、薄暗い森の底で、あらゆる物が土に帰ろうとしているかのように見えた。
そんな木橋を、荷物に乗り掛かられるようにして渡るのは、私。
ただですら不安定な腐り木橋を、バランスの悪い荷物に抱かれて渡るのは、嫌だったね。
かといって、土の斜面という、沢靴に最も苦手な沢底迂回はもっと嫌だった。

とにかく、あの紫のテント道具が、重かったんだよな。
パタ氏の好意が、めちゃくちゃ嬉しかったです。はい!
いや、マジな話、これ無しでは今回の旅は成立しなかったしね。
パタ氏、ありがとー。


 HAMAMI氏にせっかく撮ってもらったんだから、もう少しマシな顔が出来なかったのか>俺。

これは、初めての現存レールに遭遇した直後、浮かれる私の姿だろうか。
時間的には、ちょうどその頃の撮影だ。
ヘッドライト見たいに写っている光は、謎のオーブです。
守護霊か。

いやはや、久々に自分取り以外の自分写真をアップですな。
もう、恥ずかしさもないですけどね、淡々とね。
どうせ、キモイですよ。はい。




 さて、今回、焚き火シーンで人気が急上昇したらしいくじ氏の、焚き火に向かう真摯な姿。
これは2日目の早朝の出来事のようですね。

この後、無事に点火しますが、彼はわざわざその火でお湯を温めようと奮闘するのでした。
迷惑とは言うまい。
どうせ灰で真っ黒に汚れたのは、彼の調理器具だから。
美味しいレトルト食品のパッケージが少し焦げたけど、中は無事だったし。



 2日目の最初に出会った、林鉄の分岐点のパーツ達。
このような分岐パーツが、他のレールからは少し離れて捨てられていました。

想像以上に、単純な構造だったようだ。
切り替え器は無かったのだろうか?
まさか、直接レールを蹴ったりして切り替えていたの?

この辺りには、探せばまだまだ相当の軌条遺物が眠っていそう。


 2日目の最大の見所だったかも知れない、蛇行するレールの直前。
この写真の辺りで計測したんだっけな、軌間を。
ここも、幾つかに分岐している様子だった。


いまさらだけど、本当に森の鉄道って、あったんだなー。



 ぎりぎり谷底へ落ちないで残ってる軌道敷きの様子。
右奥は、沢の流れである。
数十年後にはこの軌条も落ちてしまうだろう。

いやはや、HAMAMI氏の一眼レフっぽいデジカメは、画素数も高いのだろうけど、色にメリハリがあって、遠近感が良く出ておる。
てか、やっぱ腕かぁ。


HAMAMI氏のレンズから、お伝え致しました。

ちなみに、くじ氏もデジカメを持ち歩いていたけど、彼はほとんど滝専門で撮ってました。
この滝マニアめ。
サイト名は、「滝さ逝がねが」で決まりだな。
滝と焚き火が大好きなくじ氏には、今度私のローソンでおでん白滝10丁奢っちゃおう。
楽しみにしていること。

 じゃ。






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