廃線レポート 第二次和賀計画 その4
2004.11.8

 旧仙人隧道内部へ進行
2004.10.24 9:19


 くじ氏はさっさと奥へ進んで行ってしまったが、残る我々もそれを追った。
ボートはとりあえず入り口において、内部の水位などを確認することにした。

17日ぶりに立ち入る隧道内部。
風は感じられない。
ただ、閉塞隧道にありがちな、土臭さや、かび臭さもなく、内部には広い空洞が残存していることを感じさせる。
坑門付近では、おそらくは人工的に埋め戻された痕跡なのだろうが、天井近くまで土砂が堆積している。
コンクリートで薄く覆工された天井スレスレを、中腰で進むと、程なく2段階に盛り土は低くなっていき、間もなく本来の洞床に立つことになる。



 坑門付近の、洞床からは一段階高い位置にて、振り返り撮影。

天井のコンクリート覆工は一部破壊され、灰色の煉瓦が覗いている。
煉瓦にも一部大きな欠損があるものの、ここを除けば洞内の煉瓦で崩壊を感じさせる場所は殆どない。
総じて撓みや変状もなく、廃後半世紀近くを経過し、竣工からは80年を超えているが、その保存状況はよい。
水没という状況が影響していた可能性もあるが、水没していない和賀仙人側の残存部分についても、決して保存状態は悪くなかったので、もとより本線きっての長大隧道として頑丈な造りだったのだとも考えられる。



 内部には、定期的に現れる遺構が二つある。
一つは、狭い待避口。
もう一つは、この碍子である。
ちょうど内壁の側面と天井部分の施工の切り替わる場所に設置されている。
木製の取り付け部に、二つの碍子が縦に並んでいるのだが、本隧道内で見られる碍子は全て、黒かった。
触ってみたところ、ゴム製と思われたが、全体がゴムなのか、ゴムの靴下を履いているだけなのかは分からなかった。
(この碍子については記憶が不鮮明であり、同行者各位のアドバイス待ちです。)

 17日前の前訪時に比較して、洞内には大きな変化があった。

それは、あれだけあった水が、すっかりと引いていたのだ。
足元の泥は依然深く、一歩一歩足を引っ張ったが、それでも進めないほどではない。
また、その泥の底には、かつて枕木が敷かれていただろう凹凸が、極めて規則的に並んでいることを、感触的に知った。
マグライトで照らし出させる50mほど先まで、全く水没している気配はない。
前回は、もうこの辺りで30cm以上の水深があり、早々に撤収したのだが…。

この調子なら、ボート無しでも攻略できるか?!
水は、どこへ行ったのか?! 蒸発だけでこんなに引くか?



 いくつもの疑問符が浮かぶ中、赤い蛍光色のコーンが一つ、所在なさげに洞床に転がっていた。
洞外から紛れ込んだものに間違いないだろう。
今回のダム改修の初めの時期に、毎日何メートルの勢いで水位が下がった数日があったろうと思われる。
その時、パチンコのチャッカーに入賞するようにして、湖岸を漂っていたコーンも、あの狭い坑門を潜り抜け隧道内に滑り込んだのだろう。

全くどうでもいいことだが、かなりレア演出?



 さらに進む。
進むにつれて、洞床の泥の厚さは薄くなってきた。
代わりに、より鮮明にバラストの感触が感じられるようになる。
普段、森林鉄道の隧道など狭い隧道に慣れてしまっているせいで、単線ではあるが、巨大な蒸気機関車も通した本隧道の断面は、一際広く感じる。
それは、圧迫感よりも、私がもっと苦手とする、中途半端に広々とした居心地の悪さである。

分かっていただけるだろうか? この感覚。

例えば、私のマグライトで洞床を照らして歩く。
その時に、天井なり、一方の側壁なり、全くの闇となる照らされない部分が生じる、その広さ。
それが、私の嫌な広さなのだ。
子供じみているかも知れないが、不安なのである。
むしろ、這い蹲るほど狭い方が安心できるのである。
私が、猫的といわれる所以でもある。


 待避抗内部には、所々謎の金属があった。
錆によって異形に転じてしまっており、それが何であったのかはもはや素人目には全く分からないのだが、おそらくは電気関連の装置なのだろう。

内壁は、所々コンクリにより覆工されており、さらには大規模に金属柱で巻き立てられた区間もあった。
本隧道の掘鑿には、横黒線の隧道中唯一、電気鑿岩機を利用しており、破砕帯を有する脆弱な地質が最大の問題であったと記録されている。
全長1500m近い本隧道は、この鉄道の生命線であった。
それは、さらに長い新隧道に変わった今も変わらない。




 真っ直ぐの隧道は、ただ坦々と続く。
既に入洞から300mは歩いたと推定されたが、目に見えるような勾配はなく、水没も現れない。
このまま、どこまで進めるのだろうか?
本当にボートは不要なのか?
おおよそ50mほど先を行くくじ氏の、頼りない小さな灯りだけが、チラチラと視界にはいるが、依然立ち止まる様子はない。

長い隧道である。
このまま、脱出まで行けるのではないだろうかなどと言う、絶対にありえない気にさえなってくる。
それほど、順調だ。

 右は以前の探索時に作成した資料だが、ここでもう一度ご覧頂きたい。
図は隧道の横断断面図である。
建設当時の資料から、一部推測を交えつつも、可能な限り正確に表現したつもりである。

見方としては、縦軸が標高であり、横軸は正方向に進むにつれ、仙人隧道内大荒沢口からの距離が進むことになる。
全長1468mの仙人隧道が、今回のダムの特別水位によって初めて湖上に現れたことを突き止めたのも、この図である。

ここで注目して頂きたいのは、図では勾配が誇張されてしまっているが、隧道内部には頂点が存在し、僅か0.4mではあるが、大荒沢口よりも、そこから400mほど内部の地点が高いと言うことである。
つまり、坑門付近に水没が見られなければ、この400m地点付近までは水没していないであろうことが、推測できたのである。

逆に、これまでは水没を免れているとは言え、この先の頂点(サミット)を超えれば、その先は55分の一というかなりの急勾配で下りに転じる。
仙人側坑門は水深20m近い位置に存在することになり、ボートがあろうともとても辿り着けるとは思われない。
もっとも、仙人側から1000m程度の地点には、昨年までの探索により、「壁」が存在することが知られている。
(この1000mというのは、今回の探索で間違いと判明するが。)




 さらに進むと、まとわりつくような水蒸気に視界を遮られはじめる。
これは、水没隧道ではほぼ必ず見舞われる現象であり、水没していなくとも湿った隧道内部ではままあることだ。
湿度が100%を超えており、空気は完全に水で飽和している。
カメラのフラッシュ撮影を悉く失敗に追い込む、我々記録者にとっては憎むべき霧である。

怪しくうごめく霧の向こうに写っている天井は、金属製の支保工に覆われている。
このような施工箇所は、洞内に数カ所見られた。
その総延長は、100mにも満たないが。



 以後、フラッシュは原則使用不可能となり、私とHAMAMI氏、ふみやん氏が手に持つライトにてのフラッシュ無し撮影となった。
一人だけの光量では、撮影は失敗に終わっただろうから、この点でも合同調査は意義が大きい。

やや前方を歩くのは、だれだろう?
くじ氏では間違いなくない。
…怖がらせるつもりはないが、ちょっと記憶にない。

この写真で注目して頂きたいのは、人影ではなく、微妙な凹凸を見せる、洞床である。
これほど進んでも、やはり薄く泥は堆積している。
だが、その泥の底の地形が影となって鮮明に現れている。
バラストの上に残る枕木の撤去痕と、撤去が車輌によって行われたことを示す、数条のタイヤ痕。
或いは、隧道内の閉塞工事(言うまでもなく「壁」を造る作業だ)でも、この轍が刻まれたのかも知れない。




 隧道内サミット 
9:29


 入洞から10分経過。
真っ直ぐの隧道は、今も振り返れば入り口が見えるが、それはもう点のように小さくなっている。
くじ氏の足跡以外には、全く人の出入りの気配がない、怪しげな隧道をなおも進むと、一際大きな待避口が出現した。

それを見た時、私の頭を懐かしいメロディーが、よぎった。
私が大好きだった、コナミ株式会社のファミコンゲーム「悪魔城ドラキュラ」の、ノリが良いのにどこか高潔な、あのメロディーである。
人によって、あの作品の曲の、どれがメーンテーマなのかは意見が分かれるところだと思うが、私は間違いなく、時計台…。

余りマニアックになってしまっても何なので、話を戻すが、とにかく、
中世ヨーロッパの城の中、特に地下牢や、もっと言えば、拷問部屋のような、怪しげな待避口の姿なのである。
脇に備え付けられた拷問道具…じゃなくて、謎の函なども、かなり怪しい。


 さらに発見は相次いだ。

奥に向かって左側の壁に沿うようにして、高さ50cmほどの、太めの標柱が立っていた。
それが何であるかは、表面が殆ど読み取れなくなってしまっているにもかかわらず、一目瞭然であった。
隧道内で、この形の標柱、しかも元々の色が白であるとなれば、答えは一つしかない。

距離標である。
そして、よく見ると、黒ずみの中にも微かに、『24』の二つの数字が読み取れたのである。
建設当時の資料では、キロメートルではなくマイル表記になっているのだが、換算すれば、ここがおおよそ24km地点で間違いない。
建設当時は黒沢尻と呼ばれた、現在の北上駅から工事は進められ、まさしくここは24km地点である。
余談だが、建設当初は横手側からも線路は延ばされてきており、それぞれ横黒西線・東線と呼ばれていた、それらが一つの鉄路となったのは、今は水没した大荒沢駅の、黒沢尻側端である。



 フラッシュは使えず、相当の断面を持つ隧道全体を撮影することは、さらに困難となってしまった。

いよいよ洞床の泥は、厚さ1cmよりも薄くなり、玉砂利のようなバラストが現れだす。
もともと角のないバラストだったのか、永い水没により角が取れた(そんなことあるのか?)のか不明だ。


 午前9時32分。
くじ氏と遭遇。
くじ氏、膝下までしっかりと水に浸かっている!

水だ。

くじ氏のいる辺りから、水没が始まっており、しかも、水深は急激に増しているように見える。

おそらく、ここが坑門から約400mの洞内サミットであろう。
とりあえず、沢装備で腰までの濡れは意に介す必要がない私とHAMAMI氏は、ジャブジャブとくじ氏の元へ進んだ。
ふみやん氏は、この辺りで待機することにしたようだ。



 くじ氏が立ち止まっていた地点には、大きな横穴が存在した。
しかも、明らかにこれまでの待避口とは異なるサイズ、形状である。
さらには、隧道内の待避口が全て山側の側壁に存在したのに対し、この横穴は、湖側に掘られている。

これが、おそらくは、十中八九、隧道建設当時に利用された、横坑である。
何度も引き合いに出している「建設概容」においては、
大荒沢坑口からおおよそ463mの地点に横坑を掘って、両坑口及び横坑から掘り進めたとある。
この横坑から僅か数十メートル湖側に進めば、もともとは和賀川の河畔だった地点へとでられるだろう事が、地形図よりもあきらかである。
横坑を封鎖したのが隧道完成直後(大正13年)であるのか、それともダム工事に乗じての事だったのかは、記録がないので不明であるが、やはり横坑は存在したのである。
本当に僅かではあるが。

この発見は嬉しかった。
あとは、「壁」をこの目で見れば、満足である。


 その先は、先に述べた通り、勾配は55分の一。
つまりは、55m進めば1mの水位上昇があるのだ。
実際に、私とくじ氏は横坑から進むことほんの20mほどで、遂に腰丈を越すまでになった水深と、その先にも延々と続く暗くて冷たい湖の、絶対抗力に遮られ、撤退を余儀なくされた。

入洞より400mと少しの地点で、なおも隧道は続く気配があるものの、進行不可能となってしまった。
外の湖の湖面高と、隧道内部の水位とが異なるかは、残念ながら検証できなかった。

引き返し開始だ。



 少し手前で待機したHAMAMI氏が撮影した映像。

これ以上は生身の体では進行不可となり、少しの硬直を見せる私と、くじ氏。
前回最後に散々煽った「未知なる生命体」とは、彼ら二人のことではないので、ご安心下さい。
流石にそれでは詐欺だよな。
こうして写真の納められると、彼ら二人も、かなり怪しいが。



 そして、肉球痕である。

隧道には付きものの肉球痕。
なぜか、私が行く廃隧道の、泥の洞床には必ずと言っていいほど(それは言い過ぎ)、この肉球痕が散見される。
それにしても、ここに肉球痕とは絶対に不自然だ。
なにせ、この隧道は水上に現れてから、僅か1ヶ月程度しか経過していないのだし、しかも17日前は確実に水中にあった部分の洞床である。(これは坑門から100mほどの地点だったと記憶している)
さらに、人家は決して近くには存在しない。
湖畔を遙々最寄りの大石集落から4km以上も歩いて、わざわざ廃隧道内部を訪れた肉球の主とは、果たして…。
我々以上に、遙かに不気味な存在だ。


だが…かわいい。

会いたい。この主に。







< 次 回 予 告 >




探険隊は、

遂に最強の水上兵器を持ち出した。


その先に、何が待ち受けていたのだろうか?!

和賀計画は、まだ中盤戦。







その5へ

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