廃線レポート 第二次和賀計画 その7
2004.12.19



 残念ながら、ボートを駆使しても、水没した仙人隧道の奥を極めることは出来なかった。

我々は、一定の達成感を感じつつも、悔しさの方が多く残った。
もう5mも水位が下がれば、或いは解決を見ただけに、自分の力ではどうにもならないダム水位に、行き場のない悔しさを感じた。

だが、時刻はまだ正午前。
和賀計画はまだ終わらないのである。

次に我々が向かったのは、前回の和賀計画で最も印象に残った難路、仙人鉱山軌道の、未探索部分である。
左図の中で、緑の実線で示した部分が、仙人鉱山軌道である。
その謎の多い経緯などについては、前回の和賀計画レポを参考にして頂きたい。
仙人駅が置かれていた下流の製鉄所のあったあたりから、湯田ダムのダムサイトに呑み込まれて消えるまでの区間は、探索済みである。
残りは、ダムの上流、通常は水没しているであろう区間なのだが、距離は1キロメートル。
仙人山北側の急峻斜面に張り付いて進んできた軌道が、最後にやや蛇行して終点仙人鉱山駅へと上り詰める部分だ。
途中、最も南よりの部分には、恐らくこの特別水位の汀線付近に、埋められたと思われる仙人隧道横坑が、あるはずだ。


大正13年頃には早々と廃止されたと思われる同軌道の、その終点駅は、果たして現存するだろうか?




 失意の昼飯 
2004.10.24 11:43


 約2時間に及んだ洞内活動を終え、我々は穏やかな陽の光の元へ戻った。

とにもかくにも、無事に我々の水上活動を守ってくれたボートを、洗い、元の姿に片づける。
坑門前の大荒沢の流れは、非常に澄んでおり、洞内の怪しげなツララなどによる汚れを、とり除いてくれた。

普段は深い水の底に没しているせせらぎは、数十年ぶりに戻った流れの気持ちよさを、満喫しているようでさえあった。


 次に、我々の空腹を満たす作業だ。

ちょうど時刻は正午。
各自、持ち込んだ食料を消費する。

私は、早朝に山内村のコンビニで購入したカルビ丼を取り出したが、予想できていたこととは言え、冷えたカルビは硬い飯にくっつき、不快だった。
やむを得ず、当然のように我々の前に出来上がっていた焚き火に、一枚一枚肉を暖めながら、食べることとなった。

乾いた木の発する堪らない煙のイイ匂いだ。
この、匂いが大好きなのである。

案の定、くじ氏は次々と薪を持ち寄っては、火の番に余念がないし、クールなふみやん氏も、実は火がお好きだと見た。

坑口前で、我々は一時火を囲み、先ほどまでのアツイ闘いを振り返った。
第一級の山チャリ幸福時間が、流れた。




 また、洞内からの戦利品もあった。

私とHAMAMI氏で、洞内湖を引き返している最中、隅の方にプカプカと浮かんでいる一つのタマを見つけた。
これが、洞外から流れ込んだものなのか、それとも元もと隧道内を照らしていたものかは分からないが、かなりの年代物であることが、感じられた。
表面には目立った破損はなく、取り付け部分は錆び付いていたが、錆を取り除ければ、もしかしたら再点灯の希望もあったかも知れない。

ただ、非常に後悔しているのだが、私はうっかり、このタマを無造作に坑門に放り、割ってしまったのである。
よもやHAMAMI氏が再点灯の希望を持っていたことも知らずに。
申し訳ない、HAMAMIさん。

タマには、「100V 100W トウ」という表示が鮮明に残っていた。
これは、何だろうか? トウ

「トウ」印は、東光電気株式会社製と判明しました。
社HPによれば、創業は昭和3年。
また、昭和23年から63年までの間に、蛍光ランプ商品(恐らくはこの電球の球も含まれよう)を製造していたようです。
2004.12.20追記 shiox様提供情報より


 石 の 城 
12:37


 仙人隧道の坑口直上の瓦礫っぽい斜面を少し登ると、すぐに普段の汀線らしき平坦地から続く山際に至る。
さらにそこで、右へ向かえば大荒沢(川)を遡る行程となるが、そちらへは行かず、湖畔に沿ってダムサイト方向へ草むらと化したガレ場を歩く。

間もなく、まるで川原の氾濫源のような植生を見せる乾いた原っぱに遭遇。
ここは河岸段丘的な地形をしており、増水期のみ水没するようである。

で、そこには思いがけない建造物が、見えていた。
接近。


 それはなんと、カラミ石製の建造物!

カラミ石は、゚石とも書き、鉱山から生じる鉱滓を加工して得られる石材で、極めて堅牢なので多くの鉱山跡地で、今も民家の生け垣や基礎などとして残されている。
だが、私はこの場所で初めて、この゚石で造られた建物を目撃した。

この一帯の鉱山は、いくつものヤマが時代と共に転々としているが、藩政時代以前より採掘されていた記録があり、そこに残された遺構も、非常に幅広い時間軸上に存在が考えられるのだ。
ただ、この余りにも無骨な建造物が、コンクリが主流となる大正以降に建造されたものである可能性は高くあるまい。


 おそらくは、此方側に入り口があったのだろう。
その向きは、湖を脇に、鉱山軌道の仙人鉱山駅があったであろう方向を向いている。
破壊された断面を見ると、カラミは煉瓦で言うところのイギリス積みとなっている。
煉瓦の間に漆喰などを用いた痕跡はなく、そのまま積まれているが、現存する部分についてはまだ密生を保っており、非常に頑丈そうに見える。

肝心の建物の内部だが、全く何も残っておらず、2畳ほどの狭いスペースは、泥と草むらに覆われている。
この窓すらない建物が何であったのか、想像できない。
(そもそも屋根があった痕跡もないが…)

 さらに下流方向へ草むらを掻き分けて進む。

すぐに視界が開け、思いがけない地形が眼前に現れる。
それは、普段は湖上の島となっている小山が、対岸の普段は深い湖底に沈んでいる部分から伸びる小さな尾根で陸続きになっている光景である。
小山は天辺の辺りだけにこじんまりと森を乗せており、一丁前に紅葉を見せている。

普段はボート無くしては決して上陸できない島であるし、ましてダムサイトに近いこの場所は一切ボートを浮かべることが禁止されている。
此方岸からは濁流となった和賀川を渡らねば麓にすら辿り着けない上、あの断崖絶壁を登れる自信もなく断念したが、あの小山の山頂には何かあるのかも知れない。
かつてここに人が住んでいた時代のことを想像すると、そんなことが脳裏をよぎった。



 さらに前進。

小山と、此方岸とを隔てる和賀川は、小山を迂回するように大きく右側へ蛇行しており、現在地点がその流れからは15mほど高い段丘上にあるために、まるで地続きであるかのように錯覚される。
だが、実際には辿り着けぬ。

その手前、ちょうど水面へ向けての段丘崖の縁にあたる位置に、先ほどよりもさらに大規模な建造物の痕跡が見えている。
古い地形図に記載された「仙人鉱山軌道終点の仙人鉱山駅」は、丁度この平坦部だと推定される。
だが、見たところ残っているものは、先ほどのものと、あそこの廃墟だけだ。


 まさに廃墟。

というか、もはや遺跡といってよい域に達している。

いつの時代の、どのような建物なのかも不明なのだから、遺跡らしいといえば、そのとおりだ。

遺跡の背後の山肌に見える建造物は、ダムに付随するもので、ダムサイトからは小さな洞門が繋がっているようである。
残念ながら入り口が分からず、進入できたことはない。
ただ、あの建造物が何であるかは、地図上から推定できている。
地下水力発電所への取水口である。

干上がった泥の上を廃墟に向けて進む。
ワクワクがとまらない。



 これほどの巨大なカラミ製の建造物は、聞いたこともない。
破壊が進んでおり、これがなんなのかを知る手がかりは見つけられなかった。
この建物の手前辺りが、仙人鉱山駅だったと思われるが、何度と無く水没と浮上を繰り返した地表は均一であり、やはりその痕跡は見つけられない。

おそらくその時代(大正頃まで)はここに集落もあっただろうが、
完全に消失している。
いまはただ荒原の、再び水没する日を待つばかりである。

 湖畔より、下流方向を望む。
もう少し視線を左に遣れば、巨大な壁となったダムサイトが見える。

小山の断崖には、二本の汀線の痕跡が鮮明である。
おそらく上の線が最高水位。
下の線が、最低水位である。
今はさらに、5メートル以上水位の低いのがお分かり頂けよう。

前方の空との切れ目となっている山肌は、現在の国道や、その前身となった平和街道が和賀川沿いに開削される以前、馬車も通えぬ難路として悪名高かった和賀仙人峠である。
今や、此方側から峠に至る道は完全に消失してしまったと言われる。
古い地形図には、今我々がいる辺りから、九十九折りを交えて遙々山肌を登っていく道が描かれていたが、確かにその登り口は判然としなかった。


 軌道痕跡を求め 
12:41

 
 振り返って、上流方向。
目の前の広場が、かつての駅前だったはず。

余りにも何も残っていない。
切り株や枯れ木などがないことは、山林が水没したものでないという、消極的な証拠にはなるのかも知れない。

対岸にも、通常水位より低い位置に、なにか大規模な遺跡が見えていたが、それがなにかは分からなかったし、残念だが調査も行わなかった。

想像以上に軌道の痕跡は薄れている。
だが、何かしら残っていないだろうか?
持ち込んだ古地形図と睨めっこして、懸命に当時の姿を重ね合わせてみる。

 上の写真からさらに視線を左に向ける。
方角上は真西を向いている。
かつての駅前全景である。
奥に駱駝の背のように伸びている稜線は、峠山(標高515m)である。
この方向から見る山容は一風変わっており、思いがけず目を惹いた。

なお、最初に見つけたカラミの建造物は、奥の草むらにポツンと佇んでいる。



 湖畔に降りて、ダムサイトを望む。

段丘斜面には枯れ木が根を降ろしたままになっており、ダム湖の象徴的な景色となっている。

対岸の断崖には、鉱山軌道が我々のいる場所まで、崖沿いに通じていたはずだが、その様な平場の痕跡も全く見えない。
今思えば、ダムサイト側からも確認してみるべきであった。
先の仙人隧道での敗退が気持ちに響いたのか、大人数で望んだわりに、子細を欠くレポになってお恥ずかしい限りである。


 その斜面には、転がった石柱があった。
これなども普段は水没しているだろう。
石柱の天辺には、小さな十字の刻印。
これは、なんだろうか?

失われた基準点か?




 そして、これが湖を背にして、軌道の続く方向である。
方角的には南を見ている。

崩れ果て、半ば瓦礫の山に埋もれた廃墟は、やはり軌道に面していたようにも思える。
そしてその唯一の開口部(入り口)は、向かって右側の平地に面しており、やはりそこには軌道があったのではないか?
それとも、この建築物自体が、駅に付随する設備。
鉱山駅であるから、例えば倉庫などだったのかもしれない。

となると、唯一軌道を感じさせるかも知れない地形が、見え始めた。

それは、廃墟の裏手の、切り通しにも見える凹部だ。

 その切り通し擬定地。
始めにここを切り通しではないかと発言したのは、地形図を熟読していたHAMAMI氏(上の写真で小さく写っているが見つけられただろうか?)である。
私は最初、ぜんぜん気がつかなかったが、今になってこの写真を見ると…、


メチャメチャ怪しい!

駅を出たナローゲージは、この切り通しを抜けて、険しい崖に取り付いていたのだろう。
では、実際に行ってみよう。



 ダメです。

 …なにもありません(涙)

幾つか支沢が流入しており、そこには橋台などがあって然るべきなのだが、見あたらない。
急な斜面は、湖に向けって一定の斜度で落ちており、そこに軌道由来と思える平場は一切無い。
この現実は、軌道敷きを含め、大規模な土木工事により、地形が改変されてしまっていることを意味しそうだ。
おそらくその契機は、昭和30年代の、湯田ダム工事に他なるまい。
この辺りはダムサイトにも近く、膨大な水圧に抗するための、徹底的な土木工事が成されている筈である。
一見自然のまま水没させたかに見える岩肌なども、必ずしもそうではあるまい。

残念ながら、地形的痕跡が皆無であること。
非常に斜面が急で、移動が困難であることなどをもちまして、これ以上の前進は断念致します。

また、仙人隧道の横穴に繋がる部分も、写真中央付近右側にあるはずなのだが、水没しているのか、全く見あたらなかった。


 山行が合同調査隊。


 撤収!


撤収!!(苦笑)


 軌道の全容を解明することはかなわなかったが、かつて駅があっただろう場所の現状を把握することが出来た。
また、鉱山駅との関連性を感じさせる2棟のカラミ建造物の存在も、大きな収穫と言えよう。

来た草藪を引き返す最中、私のケータイがメールの着信を告げた。
ここは電波が普通に入っている。

メールは、山行がでお世話になっている一人の情報提供者さんからのものだった。
彼のHNは cham氏 。
今まさに、友人一人を伴って、大荒沢廃駅付近にいるというではないか!

彼は、私にこの水位減少を事前に教えてくれた一人であり、以前の和賀計画後に知り合った。
数日前に、私たちの合調についてメールで質問があったので、前夜に、この日の合調を説明してはいたが、まさか本当に来るとは!
嬉しいじゃないか!


 ああ!
 アソコに誰かがいる!



ガチャピンにムックか?!


我々は、思わぬ助っ人の参上に、顔を見合わせて大笑いである。








< 次 回 予 告 >





再び

真実を求め

男たちは真闇へ潜る。








その8へ

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