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廃線レポート 中央本線旧旧線 横吹第二隧道 第1回

公開日 2025.04.19
探索日 2021.01.18
所在地 山梨県甲州市


官設鉄道による笹子峠越えは、明治36(1903)年2月の大月〜初鹿野(はじかの、現甲斐大和)間の開業によって実現し、このとき完成した笹子隧道(全長4656m)は、上越線の清水隧道開通まで29年間にわたって国内最長のトンネルであり続けるような、本邦土木史上における一大画期であった。
同年6月に初鹿野〜甲府間の延長開業により、東京と甲府は鉄路で結ばれることとなり、甲府盆地一帯の開発に大きな役割を果たすことになった。

以来、今日のJR中央本線まで活躍を続けている鉄路であるが、部分的には様々な線路の付替が行われており、旧線となって廃止された区間が多数存在する。中でも、甲斐大和〜勝沼ぶどう郷の間には規模の大きな旧線遺構が存在しており、その一部である(旧)大日影隧道は観光歩道化されて廃線ファンならずともよく知られた存在になっているし、隣接する(旧)深沢隧道もトンネルワインカーヴとして活用・公開がなされている。

だが、この区間の旧線跡には、上記の公開されている2大トンネルの“日影”に隠れるように、ひっそり眠り続けている構造物が存在する。
その名も、“横吹第二隧道”。

もっとも、これも廃線ファンにとっては、それほど「知られざるもの」ではなく、廃線歩きの古典的バイブルである『鉄道廃線跡を歩くVI』(平成11年)にレポートがされているし、ある意味、わざわざ探さなくても自然と目に留まる要素を持った廃線跡なのだが(後述)、「見える」ことと「歩く」ことは別であるとする視点に立つと、この区間は途端に“未知”の香しさを纏うのである。
少なくとも私はそのような印象を持って今回紹介する探索を行った。


上図は甲斐大和〜勝沼ぶどう郷駅間(駅間距離約5km)の線路の変遷をまとめたものである。

この区間では、大きく分けて2段階の線路の付替が行われている。
一つは、昭和43(1968)年の複線化に伴うものである。
このときに「新大日影T」や「新深沢T」「新鶴瀬T」という“新”を名称に冠する3本のトンネルを持つ新線が増線され上り線となったことで、従来の明治36年以来の単線は下り線として利用されるようになった。この段階で新たに廃止となった旧線はない。

そして次が、平成9(1997)年に行われた下り線の付替である。
このときに、現在は遊歩道となっている「大日影T」や、ワインカーヴとなっている「深沢T」と、「新横吹第二T」を含む約4kmの旧線が廃止され、新たに「新大日影第二T」と「新深沢第二T」という2本のトンネルを持つ新線が開通して現在に至る。

だが、今回の探索の主題である(新が付かない)「横吹第二T」は、この2度の大規模な付替とは別個に付け替えられた存在である。
この隧道だけは、少し大袈裟な言い方をするが、遙かな大昔に、付け替えられている。
明治36年に他の隧道たちと同時にデビューした隧道だったが、この1本だけは、開業から僅か14年後の大正6(1917)年に役目を終えてしまっている。
その理由は……

建設時から地質脆弱による地盤亀裂により初鹿野方で崩壊を起こしていたため

『鉄道廃線跡を歩くVI』(平成11年)より

……であるというから、土木構造物としては、残念ながら、いわゆる一つ失敗作に属するものであったかもしれない。

この話を聞いて思い出すのは、私の探索としても古典に属する奥羽本線旧赤岩駅付近に存在した初代線の廃線跡のことだ。物語的にも年代的にも今回の横吹第二隧道とよく似ていると思う。とりあえず建設してみたが上手く行かなかったというパターンは、当時の技術力の限界のせいで、現在とは比べものにならないほど多くあったのだろう。


@
明治41(1908)年
A
大正10(1921)年
B
昭和45(1970)年
C
平成18(2006)年

横吹第二隧道とその周辺の線路の変遷を、歴代4枚の地形図で振り返ってみる。

@明治41(1908)年版には、横吹第二隧道が深沢隧道と共に描かれている。ちなみに当時の路線名は「中央東線」である。

A大正10(1921)年版になると、深沢隧道はそのままだが、横吹第二隧道が短くなっているのが分かる。一見すると、トンネルの付替というよりも地形図の誤謬修正のようであるが、実際にここでは、従来よりも短い新横吹第二隧道への付替が行われているので、これで正しい。

B昭和45(1970)年版にて、初めて複線化された新線が描かれる。
線路沿いにある道路にも目を向けてみると、これは有名な甲州街道であり、現在の国道20号である。この図内の区間については、明治以降ほとんど甲州街道の位置は変化がない。

C平成18(2006)年版で、下り線の付替が描かれる。旧線は地図上からすっかり消えている。
この駅間で現在も利用されている明治36年開業当時からのトンネルは、下り線の鶴瀬隧道のみとなっている。





今回の探索の対象は、平成9(1997)年に廃止された新横吹第二隧道と、そのさらに旧線(すなわち旧旧線)である大正6(1917)年廃止の横吹第二隧道。

この区間の廃線の存在は、『鉄道廃線跡を歩くVI』の読者に限らず広く知られていると思われるが(懐かしいという印象を持つ人さえいるだろう)、それでも遊歩道などとして公開されている大日影隧道などと比べると遙かに「歩きづらい」ところにある。
これは隣接する国道20号が交通量の多さに対して狭く、車を駐車できる場所がほとんどないことも、その理由に含まれている。
しかも地形的にもなかなかにハードなところにあって、新横吹第二隧道に隣接していた横吹橋梁の遺構は、意識さえしていれば容易く国道20号の車窓から見えるのであるが、前述したように、「見える」ことと「歩く」ことを別とするのであれば、ここは意外にも未知の多い区間ではないかと思っている。
私が特に興味を惹かれたのもこの点であった。

探索日は、令和3(2021)年1月18日。

当サイトでは随分な久々となる、正統派廃線跡のレポート…

はじめ!


 近いが遠い廃線跡への電光形アプローチ 


2021/1/18 14:46 《現在地》

自転車で“現地”を目指して移動している。ここは甲斐大和駅前から約2km勝沼方向へ日川沿いの国道を下った志々久保バス停付近の路上だ。
国道20号の行く手に、この道路を頻繁に利用している人には少なからず印象に残していそうなガッチガチにコンクリートで固められた高い法面が見えてきた。

そして、今回の探索対象の一つである新横吹第二Tの坑口が、そのコンクリートの法面の上に口を開けているのが見えた。
そこへ通じる現在線や旧線の存在は樹木の多い斜面に隠されてほとんど見えないが、この廃トンネルは国道20号の路上からあからさまに見える。
この状況は平成9(1997)年の廃止以来ずっと変わっておらず、少なくとも露出の面において、とてもメジャーな廃線跡といえる。

しかし、実際に国道から近づいていくと……



ガッチガチのカッチカチや!

このカーブ、自転車で走ったのも今回が初めてではないが、大好きなんだよな〜。この景色と雰囲気が。追い越していく大型車に邪険にされてガードレールに磔にされるところまで好き。だって、見てくれよ!! この路肩と法面のガッチガチでカッチカチな精一杯さを。拡幅のために、いったい何度の建て増しと補強を受けてきたんだろうって思う。頑張り屋さんの道だ。

なにせここは、前説の旧地形図比較でも伝えたとおり、明治以前から変わっていな甲州街道の経路なのである。
あの飛脚や大名行列が通っていた道を、今は大型トラックが爆走している!!
それだけでもうめっちゃ興奮するわけだが……、

こんな、路肩に立ち止まっているだけで何か交通に対する重大な罪を犯しているような気持ちになるカーブから、右上の方向を見上げると……



“横吹橋梁”の巨大な橋台が!

もうこれ以上なく「古い鉄道構造物だーっ!」てオーラを醸し出している、廃線探索者ならきっと見覚えのありそうな重厚な石組みの橋台が、道路から二重三重のフェンスと擁壁で護られた斜面の上方に尖塔の如き威容を誇っていた!

あいにく私はここが現役だった当時の景色を知らないが、平成9年まで現役だったというから、ご存知の方は少なくないことだろう。
橋台の構造から分かるように、架かっていたのは嵩の大きなトラス桁で、当時から国道の法面を跨ぐ上路トラス型式の桟橋だった。
『廃線跡を歩くVI』によると、現役当時ここは「初鹿野の鉄橋と呼ばれ撮影ポイントとして親しまれた」という。

……で、ここから、喪失している橋桁の位置をイメージしながら視線を左にスライドしていくと……



対となる橋台が見えた。
そしてその橋台のすぐ奥には、遠目からも見えた新横吹第二Tの坑口も。
隧道は煉瓦造りのようであるが、開口しているかどうかは、ちょっと良く見えない。
黒っぽい感じがするので、まるっきり蓋をされているのではない気がするが。

このように、旧線の橋とトンネルが国道の直上と言える至近距離に露出しているのであるが、国道から直に登っていく術がないので、別のルートを捜索して接近する必要がある。それが今回の探索の大きなテーマなのである。



国道から見える新横吹第二Tと横吹橋梁の位置を最新の地理院地図上に再現したのがこの地図だ。
だが、もう一つの探索対象である(新ではない)横吹第二Tは、全く見えなかった。
より奥まった位置にあるために、国道上からは見えないのだと思う。

横吹第二Tを探索するためには、西口か東口、どちらかの坑口へ辿り着く必要があるが、これについては『鉄道廃線跡を歩くVI』に、「観音トンネルの出口付近から右手の山を登っていく」と西口へのアプローチがガイドされているので、私もそれに倣ってまずは西口を目指すことにした。



14:51 《現在地》

“ガッチガチカーブ”から500mばかり国道を進み、観音トンネル出口(西口)へ。
写真は、潜ってきた同トンネルを振り返って撮影。
全長わずか48m、新笹子トンネルと同じ昭和33(1958)年竣功の古いトンネルだが、国道20号として今もばっちり現役である。

私が立っている場所は橋の上なのだが、ここは観音橋という陸橋になっていて、下を覗くと川ではなく、道路を跨いでいた。
跨がれている道路は市道で、橋の袂の左手に、その市道との分岐地点がある。



これがその分岐地点(観音隧道西交差点)だ。
地図にもそのように描かれているが、国道から山側へ分岐した市道は、直ちに切り返して国道の下を立体交差で潜って川側に抜けている。
なんでそんな話をしているかというと、これが目指す廃線跡への第一歩だからだ。

市道を左折し、写真の左奥に見える切り返しのカーブまで行くと……



14:53 《現在地》

この通り、法面を登っていくような徒歩道が分岐していた。
特に行先が何かという表示はないが、本の情報に照らせば、おそらくここから廃線跡へ行けると思う。
ただ、最初から狭い急坂なので、自転車はここに残して行くことにした。
そしてそれがとても賢明な判断だったことを、すぐに思い知った。



『鉄道廃線跡を歩く』シリーズが紹介しているくらいだから、特に何事もなく廃線跡へすんなりアプローチ出来るものと思っていたら、これが思いのほか強烈な道のりになっていて、レポート的には廃線跡へ辿り着く前段階であまり画面を浪費したくないのだが、道路マニアとしてちょっとスルーするわけにはいかない道だった。

まず、突入して10mほどで、道は崖にへばり付くような狭さになった。
取って付けたような鋼管の手摺りがあるのだが、狭すぎて面白い。こんな道なのにしっかりした踏み跡があるのも不思議だし。
そんな崖に身体を擦るような狭路は、市道と国道の立体交差を前方に見た次の瞬間には【電光形の九十九折り】となって、バリバリ高度を上げ始めた。
息をつく暇もない慌ただしさで登っていき……



14:57

登り始めて数分で、眼下に己の軌跡がいくつも折り重なった。

生活道路にしては険しすぎ、山仕事道にしては踏み跡が新しいこの道は、後で知ったのだが、甲州街道由来の旧街道であるらしい。
たった48mの観音トンネルが越えている小山だが、かつては難所として上り下りの険しい坂道を強いていたようなのだ。
その片側を私は辿っていたのである。
街道歩きの人が好んで通るから、険しい割に踏み跡がしっかりしていたのだと思う。



14:58

日当りのある尾根に辿り着くと、日川の対岸にある長柿(おさがき)の集落が手に取るように見下ろせた。
踏み板が半分くらい喪失した怪しい廃吊橋と共に……。
橋は長柿橋といい、見ての通りの廃橋なのだが、地形図などには未だ現役のように描かれ続けている。
10年以上前、廃止からさほど経ってなさそうな頃に渡ったことがあるが、既に踏み板が一部喪失しており、恐ろしかった憶えがある。



一方、登ってきた方向へ目を向けると、現代の甲州街道の雄姿が空撮のような視座より観察でき、これまた愉快だった。
足元を貫いている僅か48mの観音トンネルの山を越えるために、幾百幾千年の旅人がここに労を費やしたことを、我が汗で実感した。
そして、今から訪ねようとしている明治36年の鉄道こそ、この地を往く旅人の足を歴史上最大の落差をもって安楽にしたエポックだ。
そのような道と交通の進歩を身体で味わう今回のアプローチは、ただのアプローチの一言で終わらせるのは勿体ない濃さだった。

だが、その“濃さ”は、この後ちょっとばかり変な方向に“濃くなりすぎる”ことに……。



14:59

岩がちで見通しが良い尾根の先に、白い柱のようなものが見えてきた。

どうやら、甲州街道時代の峠の頂上にある、観音トンネルの名前の元となった存在が近そうだ。

地形図にも描かれている、頂上の建物は……



15:01 《現在地》

白い柱は祭礼時にのぼり旗を立てるための台で、頂上の建物の正体は聖観音堂という無住の寺院であった。
観音トンネルの上にある尾根上で、路面との落差は30〜40mもある。
私が登ってきた登山道のような道は、ここを頂上としている甲州街道時代の峠道の片割れであったので、境内の反対側にはちゃんとトンネルの東口に下る【別の道】もあった。紹介は省略するが、そちらの方が道は良く、もしかしたら『鉄道廃線跡を歩く』がアプローチに使ったのも、そっちだったのかもしれない。



まあいい。
ここまで来れば廃線跡へのアプローチはだいたい終了。後はちょっとした水平移動で事足りる高さまで来ている。
廃線跡があるのは、このお堂の左の背後にある谷の奥まったところで、地理院地図に道は描かれていないが、地形的には緩やかそうなので、ここから直接行ってみよう。

お堂の左を通り抜けて……




 な、なにこれ?! ちょっと怖いんだけど… 


2021/1/18 15:04

現在は、聖観音堂の脇をすり抜け、その背後にある谷へ向かおうとしているところだ。
このお堂が何造りかなんて、そんな柄にもない話をしようとは思わない。
私が言いたいのは、ここは見晴らしが良いなという感想。そして……



な なんだこれッ?!




本堂の奥に四阿の形をした小堂があり、その内部は夥しい数の草鞋によって埋め尽くされていた。

かつて庶民の履物として最も身近な存在だった草鞋は、それが未知の存在との接触を象徴する道具であるからか、何かと魔除けの効能を信じられてきたらしい。そのため日本中を旅していると、明らかに人のものではない巨大な草鞋を祀ってあるような場面に遭遇することが結構ある。だが、逆にこのような普通のサイズの草鞋が大量に奉納されている光景は、私ははじめて目にした。

おそらく、最近奉納されたものではないようで、堂から溢れんばかりに山盛りの草鞋はどれも古く、朽物の外見的異臭を放っていた。
失礼ながら、そこに少々得体の知れない怖気を感じたのは、私がこの風習を知らないからだろう。
知らないながらに推測すれば、旅の最も重要な道具である自らの履物である草鞋を奉納することは、旅の安全を願うことに繋がるのかと思う。甲州街道の道すがらにあるこの堂には、かつてそのような旅人の風習が根付いていたのかもしれない。全く見当違いだったら、ごめんなさいね。

少しばかり面食らったが、「そういうもの」と勝手に納得し、先へすす……



むぐっ?! 本堂の“壁”の様子が変だ!

白っぽい漆喰の壁が正面以外の三面に巡らされているのだが、その壁の様子が、ただ一言、異様。

(次の画像は、特定のカテゴリが苦手な方は、少しだけ閲覧注意かもしれない)



……これは、いったい……。

草鞋の山に、少しばかりビビっていた私だが、そのとき背にしていた壁の異変に気づいた瞬間、かなりゾクッと来た。
これは単に、たくさん落書きをされてしまったお堂ということで済ませて良いのだろうか。
明らかに異常な状態に見えるのに、そこに説明がないことが、私には不気味だった。

とにかくいろいろと異様である。
まず、様々な筆致の文字が規則性なく重なり合っているように見えること。
まるで多数の筆者が、壁の状態を見ることなく、一心不乱に書き重ねたように思える状況。
使われてる筆具はおそらく炭だろう。黒一色だし、太さや質感的にも。
また、シンプルに何が書いてあるのかほとんど解読出来ないことも、不気味であった。
なんだか、頭が読むことを拒絶するところがある…。


……え? 

触れなくてはダメ?

いや……、なんか

女の人が横向きでなにかを捧げているような姿が見えるような気もするが、

恐がらせの悪戯で書いたんだとしたら、あまり“たち”は良くないな…。



数少ない、読める文字。

「悪書スベカラズ」「へたくそ文字を書くな」

木炭という筆具の流通性を考えても、この壁をこんなにしたのはきっと最近の人ではない。
右書きの「悪書スベカラズ」も古さを示唆しているし、これが管理者など落書きをよろしく思わない人の注意だったとしたら、その原因や背景はよく分からないものの、かつてこの堂の壁面に多くの人が寄って集って文字を書くような“流行”が起ったのではないだろうか。おそらく、信仰的な何かの流行り。
さっきの壁をよくよく見ると、「八人参拝」のような文字を読み取れたほか、「参拝」の二文字は頻出しているようだった。



しかし、そのような比較的に穏当な想像をもってしても、やはりこの壁一面どころか三面にわたって重ね書きされた炭文字と、同じく得体の知れない漆喰の絵画たちは、一人二人ではない幾百人の(おそらく既にこの世にはない人たちを多く含む)念が籠もっていそうで不気味だった。
ここには、「1954.5 WA.TSF参拝」という文字が読み取れたが、おそらく数字の部分は年月だよな。昭和29(1954)年5月か。
何が流行したんだろうな…ここで…。
もしかして、草鞋も同年代のものなのかも。大勢が熱狂的に関わった雰囲気は共通するものがあった。



 馬の草鞋を奉納する風習があった

奉納された大量の草鞋について、ふじさんミュージアムの企画展パンフレット『甲斐絹をよむ#02 「蚕」』に、馬用の草鞋である馬沓(うまくつ)にまつわる、山梨県内で見られた次のような風習についての記述があった。


『甲斐絹をよむ#02 「蚕」』より

富士浅間神社の神馬社はオウマサンと呼ばれ、農耕の神、養蚕の神とされました。人々は寒申祭のときに神馬社に参拝し、養蚕守護のおふだをもらい受けました。また、馬のワラジを2つ供え、代わりにそこから1つを借りていきました。この馬のワラジを蚕室の入口に吊しておくと蚕が当るとされ、翌年にはまた2つのワラジを供えて礼としました。

『甲斐絹をよむ#02 「蚕」』より

これは富士吉田市の神馬社(しんめいしゃ)に伝わる風習だが、今回の聖観音堂も、養蚕の守護神とされていたという共通点がある。

本尊は聖観世音菩薩で京都清水より移したものと云われており、養蚕の守護神としての信仰があります

聖観音堂に立つ【案内柱】の解説文より

おそらく、馬沓にまつわる前記の風習が、ここにある大量の草鞋の正体だと思う。
だとすれば、それらが古びて見えたのも納得だ。甲府盆地一帯での養蚕業は、かつて主要な産業だったが、昭和30年代から化学繊維の普及に伴って急速に衰退し、40年代までにほぼ行われなくなっていたのである。



……廃線のレポート、しようか……?


しよう!




15:07 《現在地》

聖観音堂の裏に回り込むと、一段高い位置に忽然と道が現われた。
地理院地図には描かれていないが、2mくらいの幅がある歩き易い平坦路で、明治の鉄道工事の際に資材運搬用に作られた工事用道路の跡かもしれない。
チェンジ後の画像は、道から堂を振り返り撮影。
境内と道の間に段差があるのが分かると思う。

いろいろ“脇目を振った”が、これでようやく目的地までの一本道に入ったっぽい。
『鉄道廃線跡を歩く』が、「観音トンネルの出口付近から右手の山を登っていく」の一文でまとめているところに、濃密の体験があった。
筆者もきっと汗を流し、あの“壁”にも一瞬怯んだと思うが、廃線跡を伝えるという重い使命を全うすべく、余計なことは書かなかったのである。私だって文字数に制限が全くない“ここ”でなければ、きっとそうした。



15:08

谷道へ分け入って、僅か1分後。

見えた! 煉瓦の坑門!

何やら、煉瓦の廃線跡に似つかわしくない黄色い重機がいることに、少しギョッとしたが、幸い、動いている様子はないし、人の気配も感じない。

なお、この最初に見えだした坑門は、向き的に、深谷隧道と判断できた。
内部がワインカーヴに転用されていることが知られている、明治36年生まれ、平成9年廃止の旧隧道だ。
私の探索対象は、これと向き合って右側にあるはずで、もうすぐ見え出すに違いない。
果たしてどんな状況になっているか、全力で注目!




あった! 横吹第二隧道 と “新”横吹第二隧道!

複線にしても近すぎる、そんな奇妙な近接ぶりで、二つの煉瓦坑門が並んでいる!

この不自然な近さこそ、これらが複線ではなく、新旧線として排他的な利用がなされていた、何よりの証しと見た!!

ここに来た瞬間、私は濃厚な廃線脳者に転換し、さっきのお堂で見た全てを一瞬で全て忘却した。



背後の深沢隧道は、間違いなく普通の一基の坑門なのに……

これと僅かな間隔を空けて向き合う横吹第二隧道は……



異形なる二基隣接の形状!!!

左が、明治36(1903)年生まれ、大正6(1917)年の早期リタイア14年の悲しき短命作、横吹第二隧道。

右が、その跡を継いで平成9(1997)年まで80年間にわたって活躍した、新横吹第二隧道である。

内部の状況がより気になるのは、左の隧道であることは言うまでもないが……


やはり塞がれていたか。




…………しってたんだよ。 







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