道路レポート  
玉川の五十曲 後編
2004.8.14

森林鉄道跡へ 
2004.6.30 12:16


 国道341号線には、この入り口に車3台分くらいの駐車スペース(砂利敷き)があるが、他には何も案内はない。
今回は、チャリを持ち込むかどうかで悩んだ。
もともとが車道である可能性は、この入り口に架かっている林鉄の橋の様子からも絶望で、やはり車輌交通不能区間であったのは事実らしい。
でも、五十曲という地名が旧道の線形に由来するのであれば、比較的勾配を抑えた道である可能性も捨てきれない。
林鉄時代にも、生保内(田沢湖町の中心地だ)から多くの湯治客が、林鉄でここまで運ばれ、そして山を登って向かったという記録もある。
当時はまだ「鹿湯」と呼ばれていた頃の話だが。

このまま玉川温泉まで通して通行できるような場合、チャリをここに置いてしまえば、大きな時間的損失を生むことになりそうである。
ここで決断。

チャリ同伴である!



 ちょうど雨が上がっていたが、逆にそれをきっかけにして藪蚊が多く飛び始めた。
順調に行っても、次に藪から開放されうるのは、地図上でも2.5km先、国道から別れて奥地へ向かう黒石林道が旧道とぶつかる地点だ。
しかも、そこまでの高度差は250m以上あり、少なくとも1時間以上掛かるであろう。
突破の可否に拠らず、今日中に帰宅するためには、ここで使える時間の上限は1時間半。
それ以上掛かる場合には、撤退を決断する必要があると考えた。

自分の中でもここはかなりの難所と見て、予め時間の上限を定めたのは、賢明だった。





 橋を渡るともう、道は藪の中の小道となる。
険しい玉川右岸の崖を切り開いて通したような場所がすぐに現れ、そこには同じ様に中程で折れ曲がった二本の鉄パイプが寄りかかっていた。
以前は全体が白く塗られていたようであり、一見して道路標識の標柱である。
この発見に、もしや幻の県道時代の遺構かと色めきだつ。
しかし、肝心の標識は発見できず、何のための棒なのかは結局分からなかった。



 今度は路肩に石垣が現れる。
この石垣は、コンクリで補強されている上に、路面となる部分も、路肩側がコンクリで固められている。
ここだけを見れば、一般の遊歩道の様である。
林鉄時代の遺構に手を加えたものなのか?
現在でも五十曲歩いている人がいて、道も管理が続けられているのかと、期待する。


 さらに切り通し。
ここまで、ほんの200m程の短距離で、連続してこれらの景色が現れた。
林鉄としての遺構にも期待が持たれるムードだったが、それもここまでだった。
一つ、地図上で五十曲の旧道は林鉄を200m程で離れて山へと取り付いていること。
二つ、林鉄の遺構を容易に辿れるのはここまでであり、地図上には存在する道も間もなく寸断されること。

次の写真は、橋から200m強で現れる寸断点のものだ。



   軌道跡は右岸に続くはずなのだが、広大な玉川の河原に呑み込まれ、或いは削り取られ流路となり、全く辿れない。
釣り人などが遡上するには、河原を進めば容易であろうが、林鉄跡の探索は、ここで終了せざるを得ない。
上流にさらに十km近い遺構が眠っている可能性もある。

さて、本題である五十曲の分岐はどこだったのか?
困ったことに、それらしいものはなかった。
天下の玉川温泉に通じる古道である故の何らかの案内があると期待するのは行き過ぎとしても、殆ど歩きの速度で進んできた私に気が付けなかった分岐とは…。
いや…。

認めたくはないが、一カ所だけ、もしや、という場所はあった。

30mほど、この決壊点から引き返す。
そして、山側を見る。



五十曲の難所
12:36

 その地点とは、この写真の場所だ。
軌道自体は右側のフレーム外なのだが、左に(写真では中央)山肌を割って登っていく堀割りがある。
写真だと「ズバリ道じゃん!」と思うかも知れないが、実際現地で見ると、余りにも頼りないというか、ただの沢にしてはちょっと不自然だけど…、
とりあえず、これが道ではあって欲しくないなと言う、そんなムードの掘り割りなのである。
その最大の理由は、急さである。
覚悟はしていたが、斜度は20%を優に超えていて、しかも深く落ち葉が堆積した土の斜面はチャリに乗れる訳もない。
車はおろか、馬もどうだろう?牛なら上れそうか?
そんな登りだ。

ここで、再びチャリをどうするか、悩んだ。

一旦、チャリを置いて、先を見てくることにした。

そして十分後、掘り割りはすぐに終わるものの、そこからさらに急ターンして上部へ続く、微かな踏跡を発見するにいたり、「道あり!」と、チャリの“運搬”を開始したのである。





 この先、今回のレポを没にするかどうか悩んだ最大の難点だったのだが、道形が分かるように撮れている写真がほとんど無いのである。
理由は沢山あった。

余りにも道が不鮮明であること。
いつ雨が落ちてきて不思議のないどんより空のブナの森が私にもたらした、言いようのない焦燥感。
ヤブ蚊の多さも良くなかった。


写真は、辛うじて道形が分かる写真。
登り始めてすぐの辺りで、九十九折りになっている踏み跡がお分かり頂けるだろうか?
五十曲の地名は、やはりこの旧道に由来するのだろうか。
九十九折りは、幾つも折り重なって続き、一挙に川音の聞こえない高さまで登ったのである。
チャリは全て押しで、押し上げるといった感じだった。




 10分ほど登っていくと、九十九折りが途切れ、山肌に沿って、西よりの進路を取った。
しかし、まだまだ地形は九十九折りの時と同様に険しいままで、川岸の斜面を登り切れれば、或いは道も楽になると思われたが、見上げる限り急斜面の森である。
ブナの森では、夏でも下草が五月蠅く感じられない。
それは、深いブナの森の特徴だ。(例外は笹藪)
晴れていたら、いくらか気持ちの良い挑戦にもなったのかも知れないが、気持ちの余裕は既になかった。
当たり前だ。
これが目指す道だという確信は、無いままなのだから。





 写真はチャリを下りて振り返ったもの。
山肌に、人一人分の踏み跡が確かに続いている。
しかし、道路構造物と言えるようなものは一切無く、ただの杣道のようでもある。
かつて県道でありながら、長らく車輌不通区間だった道の正体は、斯様なものであった。
五十曲という地名がいまに残ることは、廃道後経過した時間を踏まえれば奇跡的とさえ思えるが、それだけかつては多くの人が往来したと言うことなのか?
現役で利用されている道なのかは、分からない。
最近付けられたと思われる足跡はなく、またゴミの一つも山中には見られなかった。
一つ言えることは、良くしまった路面には、かつて多くの往来があっただろうということだ。

相変わらず、数メートルもチャリにまともに乗り続けられない道が続く。



 一度は安心を感じ始めていた矢先だった、突如道は鬼となった。
写真は偵察のためチャリを残して先へ進んだときのものだが、振り返るとだいぶ下にチャリが見えるだろう。
そこへ続くのは、私が道なのかと疑いつつ登ってきた、斜面を直線で登る凹み。
凹みの底には、一本の倒木が倒れ、これは完全に樹皮を風化させた、ヌルヌルに濡れて滑る腐れ木だった。
全く何の手がかりにもならない。
チャリを押し上げて登るのは、本当に苦しかった。
これまでの九十九折りの道を考えれば、この直登は意外というか、ルートを見失ったかと思ったが、疑い半分先へ進むとさらなる発見があった。




 再び水平に近いラインを取り戻した道であった。
ブナの巨木が丁度道と崖の合間に立っていて、一時チャリを預けて休もうという気にさせた。

攻略の見通しは、悪い。
崖下には、もはや水面は見えなくなって、既に100mは高度を上げたかに思われるが、距離は大して進んでいないと思われる。
せいぜい300m程度か。
また、頭上の斜面は相変わらずどこまでも続いて見える上に、霧なのか雲なのか、靄っぽくなってきた。
時折、雨らしい水滴を感じたが、風が落とさせた樹上の水滴であったかも知れない。
そして、長時間は休めない。
蚊もどんどんと寄ってくるし。

この木には、発見があった。





 樹皮に刻まれた文字である。
それも、数多く書かれていた。
日本語の文字なのだと思われたが、どれほど昔に刻まれたものなのか、ブナのたゆまぬ成長は文字を歪ませ、判読を困難にしていた。
残念ながら、1文字も解読は出来なかった。
だが、沢山の文字が残されたこの木は、かつてここに多くの往来があったことを無言で示している。
しかも、よく見るとこの木の傍でもう一本、やはり路傍のブナに多数の刻み傷があった。

いずれにしても、最近彫られたらしいものは見られなかった。
これは、微かだが道の息吹を感じさせる発見だった。



 高度が上がるにつれ、谷側の木々の向こうに奥行きや広がりを感じられるようになってきた。
しかし、路上の様子は相変わらずで、チャリを押し、時に担いで倒木を跨ぐような道が、続いていた。
時間はどんどんと過ぎ去り、既に入山から三十分を経過しようとしていた。



 挑 戦 
12:58

 一向にペースは上がらないものの、道はひょろひょろと続く。
確かに高度は上がってきているし、この調子ならば、計画通り1時間半以内で突破できるのではないかという見通しも立ってきた。
天候の悪さや、蚊の多さ、それに何の案内もない道を行く不安感も、徐々に薄まり、やっとテンションが上がってくるのを感じた。

私の中では、この道はかなり前から気になっていた道だった。
県内でも最も遅くまで不通であった山岳国道のひとつ、国道341号線の不通区間。
そこに点線が描かれているとなれば、どうなっているか気になるのは当然だ。
しかも、今回のレポの最初で挙げた地図のような、ここを車道のようにして描いている物があれば、尚更気になる。

結論は出つつあった。
道は車道ではあり得なかった。
五十曲は、玉川温泉へ至る湯治道の難所であったのだ。





そして、意外な発見があった。
踏み跡に転がる羊羹型の石二つ。
それは、煉瓦だった。

私は混乱した。
なぜ、煉瓦が落ちているのか?しかも、二つだけ。
落ち葉に埋もれてしまわずに残っていたのは、なぜだ?
煉瓦を持ってこの難路を歩いた者が居るとしたら、それは何だ?

一帯には煉瓦組みの構造物は一切なく、謎は深まるばかりであった。
空き缶一つ見あたらない道に、煉瓦の落とし物。




 さらに道は続いた。
次第に谷底から、山の斜面らしい風が吹くようになってきた。
踏み跡は、微かに見分けられる程度となってきた。
いつ笹藪や低木に妨げられるかと、気が気でない。
800m程度は歩いたと思われたが、まだ斜面は頭上高く続いている。
地図上と照らし合わせると、そろそろ斜面から稜線上に登っても良いと思われたが、一向にその気配もなく、グネグネと蛇行してはいるが、総じて玉川沿いを東進している様な気がした。

なにか、嫌な予感がした。
ここまで、ただの一度も分岐には気が付かなかったし、始めのうちは確かに九十九折りの「五十曲らしい」道だった。
そして、古いブナの幹の文字や、さっきの煉瓦は、ここが多くの往来をかつて見た道だという論拠と私は考えたが、地図との矛盾を感じてしまうと、途端に自信が無くなる。

万が一、道間違いだった場合、どうなってしまうのか…。
時刻は午後1時をとうに回っている。
登ってきた道は、戻ることを想定したくない様な隘路だ。



 これまで登ってくるうちにも、何度かこんな場面に遭遇した。
寿命を終えた巨木が、車一台分くらいの根と土の塊となって、道を塞いでいる。
特に、この崩落は真新しいのか、捲れ上がった土はまだ草一つ生えていない。
こういうとき、チャリを置き、道を探しに私一人先へ出ることになる。

この崩壊は木だけでなく、周りの小さな木々や雑草も巻き込んでの土砂崩れとなっていて、そもそもチャリごと通過することは出来ない様子だった。
やや下方の藪を迂回すれば、先へと進むことは出来そうだなと、当たりを付けて、そこにあるべき先の道を求めた。

まさか、駄目になるとは思ってなかった。




 本当に苦しい局面では、いちいち写真撮影などしてられない。
結論から言うと、私はこの崩壊地の先に、道を見つけられなかった。
ここまでは、崩れた場所の先にも、やはりひょろひょろと踏み跡はあったが、今度はそれがない。
そんなはずはないと思うのだ。
真新しいように見える崩壊地は、幅5m程度で、その先にも道が現れる筈だった。
私は、付近をくまなく探し歩いたが、10分、15分と経過しても、結局道らしきものは見つけられなかった。
周囲にはただただ緑の海が広がるばかり、私の根気と体力と、最も貴重な時間を、焦れば焦るほどに失った。

一度、稜線と思われる場所まで登ってみた。
見渡す緑は、きちがいじみた原色の鮮やかさだ。
恐い。

私は、ここで精魂尽き果てた。
単身でも道を探してさらに登ることは、体力的に可能だったが、私の理性はこれ以上進むなと訴えた。
これ以上進むと、チャリを見失い、帰り道も見失い、そして命をも見失うという実感を、私は感じた。
正直に言って、道を失って旅を終えるというのは、私にとって屈辱以外の何者でもない。
かつてはあったはずの道を見つけられないのは、私の矜恃を揺るがす大事なのだ。





 僅かだが、木々の切れ目から玉川の対岸の山並みが見えた。
私が登り始めた時に見た雲の高さが変わっていないなら、かなり雲の傍まで登っているようだった。

私は、結論を出せていない。
この道が本当に五十曲であったのか?
或いは、本当の五十曲は別に存在したのか?

いつの日か、再度チャレンジするかと問われれば、敢えて私は「しない」と答える。

どういう訳か、私は五十曲がどこにあっても良いと思えるのだ。
私らしくない感傷だが、それが事実。
五十曲という地名は、未踏の道として、私の中に凝りを残すことになったが、いまはそのままでよい。






 下りも殆どチャリに跨がれることはなかった。
しかし、極限の緊張状態から開放された私は晴れやかだった。
やっと、素直にブナの森の美しさを感じられた。
山チャリは、時に本当に楽しくないと思う。
道を探すという目的は、いつの間にか私に使命の様に乗りかかってくるのだ。
それはまるで、失われた道の思念が、見つけよと私を動かしているかのようで、時に自分が自分でないような気さえする。

引かねば死ぬという場面は、当たり前だが、必ずある。
今度がそうだったのかは、分からない。

ただ、私が国道へと戻った約5分後、空が啼き、信じられないような滝が空から降り注いだ。
先ほどは、私が雲まで近づいていたのではなく、雲が下りてきていたのだ。
危機一髪だったと、思っている。






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