《周辺地図(マピオン)》
静岡県掛川市といえば、言わずと知れた、東海地方きって古トンネルの多い街。
当サイトの過去作では岩谷隧道や「上張の手掘り隧道」などがあるが、後者はいま開発によって失われる危機らしく、地元有志による保存運動が起っていると聞く(参考)。
今回もトンネル絡みの探索である。
が、なんとも言えない分かりにくい表題になっていることを、まず最初にお詫びしておこう。
別にこれは奇をてらったわけではなく、真実にシンプルな表現するのが難しい探索対象なのだ。(表題の括弧の部分が正式名でありシンプルだが、それだけだとたぶん検索からヒットする可能性がほぼゼロのレポートになっちゃうからね…苦笑)
ではさっそく本題だが、掛川市にたくさんある古い道路トンネルの中でも、特にその古さ、長さ、外観の良好さから代表格として知られているのが、県道掛川大東線の旧道上にある3本の煉瓦トンネルである。
まあ、メジャー過ぎるのもあって敢えて私はレポートをしてこなかったが(いずれも旧道ながら現役トンネルだしね)、青田(あおた)隧道、檜坂(ひのきざか)隧道、岩井寺(がんしょうじ)隧道の3本からなり、それぞれの簡単なスペックを以下にまとめて掲載する。
青田隧道 | 檜坂隧道 | 岩井寺隧道
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竣工:明治28(1895)年 | 竣工:明治38(1905)年 | 竣工:明治38(1905)年
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全長:224m 全幅:4.0m 高さ:3.0m | 全長:47m 全幅:3.6m 高さ:3.2m | 全長:137m 全幅:3.6m 高さ:3.2m
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出典:道路トンネル大鑑
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最も掛川市街地寄りの青田隧道から南端の岩井寺隧道まで約4kmの範囲にあり(何れも掛川市内)、共に小丘陵を貫通する立地条件である。
竣工年は青田隧道のみ10年早く、扁額がないなど外観に違いがあるが、3本とも明治中期に整備された総煉瓦造りの道路トンネルであり、かつ同一の県道の旧トンネルであるという共通点がある。
そのため3本セットで扱われやすく、土木学会が選定する『日本の近代土木遺産(改訂版)現存する重要な土木構造物2800選』にも「青田隧道他、旧県道の煉瓦トンネル群」として登録されている。
また青田隧道については、建設にまつわるエピソードが掛川市公式サイトの特設ページで読めるという親切設計だ。
それによると、隧道が掘られた青田峠は、近世の信州街道(牧之原市の相良港を起点に掛川で東海道と交差し、さらに北上して森町、秋葉山、信州方面へ通じる南北の幹線)に当っていたが、勾配がきつく車馬の通行は困難であった。そこで地元の資産家で地域の近代化に力を尽くした山崎千三郎(やまざきせんざぶろう)らの働きかけで、明治25(1892)年に掛川町、南郷村、上内田村の関係者と「青田坂隧道工事組合」を結成して工事に着手、工事費6071円(今の物貨で約2000万円)余りの巨費を投じて明治28(1895)年に隧道が完成した。これにより銘茶の産地である一帯の丘陵地帯や太平洋沿岸の村々からの人や物資が掛川駅から東海道線に結ばれることとなり、地域の発展に大きく寄与したとされる。
……といった話は有名なわけだが、私はここでも陰なるものに着目したいと思う。
@ 地理院地図(現在)
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A 大正5(1916)年
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B 明治22(1889)年
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これは、3本の煉瓦トンネルがある範囲を描いた、3世代の地形図である。
@は最新の地理院地図で、県道38号掛川大東線の旧道上の3個所に、青田隧道、檜坂隧道、岩井寺隧道が、このような配置で存在している。
次にAを見て欲しいが、これは大正5(1916)年の5万分の1地形図である。
この版にも3本のトンネルが同じ場所に描かれているが(明治生まれなので当然)、一際太く描かれている「県道」の位置に注目すると、旧道路法公布以前のこの時期は、青田隧道は県道上にあるものの、残りの2本は県道ではない(「里道」の中で最も上等な「達路」として表現)道に描かれている。
よく似た3本の煉瓦トンネルだが、当初から同一路線上の構造物として順次に整備されたわけではないのかもしれない。
なんだか、ありきたりな物語に綻びが見えてきたようで、楽しくなってこない?(笑)
で、最後のBだが、これは当地を描いた地形図としては最古のもので、明治22(1889)年版である。しかし古いのに縮尺は立派で、2万分の1の精度を持っている。
明治22(1889)年といえば、青田隧道(明治28年竣工)でさえ建設前だから、当然そこにトンネルは描かれておらず、その代わりガッツリとした切り通しを越える太い道が描かれている。この太い道はやはり県道を示しており、この画像の範囲外だが、径路上に「信州街道」の注記がある。
こうした道路名からも感じられるように、近世と近代を橋渡しするような地形図である。
明治22年の地形図には当然、檜坂隧道と岩井寺隧道も描かれていない。これらは明治38年竣工らしいので当然である。
だが、念のため、“描かれていないこと”を皆さまにも確認して貰いたいが、
この画像だと細かい部分が見えないだろうから、次に「桃色枠内」の拡大図を用意したのでご覧いただきたい。(↓)
明治22(1889)年の地形図に、
別の隧道?らしきものが既に描かれているんだが?!
……という、衝撃的な発見があった。
まず、檜坂隧道については、対応する旧隧道と言って良いのか分からないくらい場所が違う。数百メートルは外れている。
だが確かに小さな丘陵の尾根を越える部分に短い隧道を示す記号が使われている。2万分の1の大縮尺でなければ、省略されても不思議ではない短さだ。
もう1本の岩井寺隧道だが、こちらは明治38年生まれとされる現在のトンネルのすぐ上に、やはり短い隧道が描かれている。
のであるが、切り通しを描いているのに、その中に隧道があるという、何か間違っていそうな表現をされている。切り通しなのか、隧道なのか、はっきりしない。
明治22年の地形図に描かれたこの2本の隧道、後者は(もし本当に隧道ならば)岩井寺隧道の旧隧道と言えそうだが、前者は檜坂隧道の旧隧道と言えるのかちょっと謎。
しかしどちらも、県道として太く描かれた「信州街道」から板沢で南に別れた一連の里道上(黄色く着色したライン)にある隧道という共通点がある。
明治生まれの有名な3本の煉瓦トンネル群に、2本の旧隧道が存在したという、これまで考えもしなかった可能性が浮上したのである。これら青田隧道をも上回る古さを持った“古隧道たち”は、果たして現存するのか?
それを確かめるのが今回の探索だ。
なお、机上調査を行うまで道路名が分からなかったが、以後単に「里道」と書いた場合、探索の対象とした一連の里道(黄色いライン)を指すものと解釈されたい。
なお、現在の地形図(チェンジ後の画像)と比較してみると、かつての里道の位置には、概ね今も何かの道はある様子。
それではさっそく、青田、檜坂、岩井寺、この3本の煉瓦トンネルの旧道を探る旅へ出発しよう!
青田峠の切り通し
2023/3/19 10:05 《現在地(マピオン)》
唐突に煉瓦トンネルの前から始まるレポートだ(笑)。
目の前にあるのが、青田隧道の北口である。
明治28(1895)年生まれ、全長224m、現在は掛川市道青田トンネル線のトンネルだが、昭和48(1973)年に新青田トンネルが開通するまでは県道として利用されていた。
なお、レポートにはしていないが、ここを自転車で訪れるのは2度目である。
この隧道は今回の主題ではないのだが、巨額を投じて完成させた地方近代化の象徴ともいえる坑門なのに、何かが足りないといつも感じる。
扁額がないのである。この後に誕生した(本編でも脇役として後に登場する)檜坂隧道や岩井寺隧道には、立派な石の扁額があるのに。
そもそも、扁額を飾るべき胸壁自体が存在しない。そのせいでずいぶんと背の低い坑門になっている。
多くの隧道には胸壁の裏側に空間があり、地表排水や崩土を留める役割があるが、本隧道には胸壁がないために、背後の山がよく見える。
開通当時の写真や設計図を見たことがないが(探したのだが見当らない)、もしかしたら、当初存在した胸壁や扁額が後年何らかの理由で撤去されたのではないかと、昔から疑っている。
すまん。本題じゃないと言いながら(私が)気になる話をしてしまった。これについては解決できたらまたその時に。
新旧地形図で現在地を確認。
縮尺の近い地形図だけに、120年以上の時差があってもかなり綺麗に重なる。明治の測量技術侮り難しだ。
明治22年の地形図には、峠の頂上にかなりの規模の切り通しが描かれているが、現在の地形図だと道自体消えている。
とはいえ、その場所は「現在地」からすぐ近くである。
これだけ近いと……(↓)
坑口前からも良ーく見える、その切り通し!
現状そこは旧道というよりは茶畑のように見え、実際もそのような利用がされているが、お陰でジャングル化を免れている。
しかも、茶畑へのアクセス用か、市道から登っていく通路も用意されているので、これを使って峠へ向かう。
なお、ここへは自転車へ来たと書いたが、正確には先に自転車を青田隧道の南口に置いて歩いてきた。
これから峠を越えて自転車の待つ南口を目指す。
10:06
なおこれは探索後に気付いたのであるが、今回辿っている旧道から峠の頂上を目指す最短コースは、明治22年の地形図に描かれていた県道(すなわち旧旧道)ではないかもしれない。
新旧の地図を詳細に比較してみると、もっと麓で両者は別れていた可能性がありそうだ。
これについては、いずれ再訪して詳細に検証したい。
今回は、峠の切り通しがすぐそこに見えたせいもあって、麓からのルートを精査することをうっかり忘れてしまった。
茶畑内に刻まれた肩幅分だけの狭い土道を登っていく。
正面には目的地である峠の切り通しが顕わだが、結構な高度差がある。
数字にすると隧道と峠はせいぜい20〜30mの高度差だが、直登するとなると結構な勾配だ。
このように、距離の面では大した短縮効果を望めない位置に、莫大な費用をかけてまで隧道を整備した目的としては、勾配緩和による車道化が一番だろう。
しかも短い隧道ではなく、明治期の道路トンネルとしては長大な200m越えのものを完成させている。
それだけのコストを掛ける価値があると見なされたわけで、当時の信州街道の往来に賑やかさが窺える。
10:09 《現在地》
青田峠、頂上に接近。
この峠の名は地形図には一度も書かれたことが無いが、『掛川市史』などに出ている。
直前まで一面の茶畑に過ぎなかったが、頂上の切り通しに入ると、急に道の名残りを深くした。
この切り通し、元の尾根より15mは掘り下げてあるだろう。両側とも非常に切り立っている。
深いだけでなく、幅も思いのほかに広く、ここだけを見れば自動車が通っていた道のよう。
これが、明治28年という“大昔”に早くも役目を終えて眠りについた旧旧県道の姿であった。
今回、峠の途中からレポートを始めたので高度感が伝わらなかったと思うが、切り通しから何気なく振り返った景色は、私にとっても意表を突いて雄大だった。
この土地の標高はせいぜい80mといったところで、周囲の丘陵にはもっと高い場所がいくらでもあるが、たまたま谷が真っ直ぐ開けている北側は、掛川市街地をすっぽりと収めた掛川盆地を透かして彼方の丘陵、さらに遠くの山々まで遙かに見渡せる寸法だった。谷底に終始している青田隧道にはない眺望なので新鮮だった。
この景色が、青田峠の“顔”として、行き交う旅人に覚えられていたものだと思うと、空撮や展望台から見る眺めよりも格段に愛着を感じられるのは、私が道好きすぎ人間だからだろう。
深く、広く、そして長さもある切り通し。
岩がちな稜線を真っ直ぐ掘り抜いている姿は、隧道としても違和感がなさそう。
実際、壁面の一部には隧道の内壁を思わせるような地肌が露出している部分がある。
この巨大な切り通しが、いつ、どのような経緯で整備されたかについては、明確な記録は見つかっていない。
はっきりしているのは、明治28年以前の仕事だということくらい。
今回、最後の机上調査編では改めて青田峠を取り上げる予定はないので、ここで少しだけ調べたことを書いておきたい。
平成4(1992)年の『掛川市史 下巻』に、信州街道の改修という項目がある。
東西の要路である東海道に対して、南北の要路は信州街道であった。周智郡森町本面から掛川宿を通り、相良港方面に抜けるこの街道は、海路による運送が長距離輸送の主役であった明治10年代まで、今日では想像がつかないほど重要な役割を果たしていた。したがって信州街道の改修は早くから繰り返されていた。
明治10年3月6日の『重新静岡新聞』によれば、「掛川宿より相良への通路山谾崎嶇(さんこうきく=山と谷が険しいこと)して殆んど行人の艱難を来たす処なり。其内最も著名なるは佐野郡上張村より城東郡板沢村へ跨る青田峠にして各人一度通って三嘆するの嶮路なり。然るに這回(このたび)掛川宿山崎外一弐名上張村河合某及び板沢村某と協議熟談の上、右青田山下より峠に至る迄、大約四五町の間凸凹平均して概平坦ならしめ以降は荷車人力車とも轟々として瞬間に越するの良道となすべき」と、峠道の改修が企てられた。(中略)青田峠の山道を人力車や荷車が通りやすいよう改修するのが目的であった。
『掛川市史 下巻』より
果たして、この明治10(1877)年の新聞記事に出ている青田峠の改修計画は実施された事業なのだろうか。
残念ながら、計画されたというところで記事は終わっていて、市史本文にも結末は描かれていない。
ただ、この計画の首謀として名前が出ている「掛川宿山崎」なる人物は、これから十数年後に青田隧道を主導する山崎千三郎本人であるという。
私は、この改修は実際に行われ、その成果がこの立派な切り通しなのだと思っている。これは近世からあった切り通しではないと思う。
それにしても、「一度通って三嘆するの嶮路」とは、なかなか強烈な表現だ。
現状の青田峠には無縁と思える表現だが、それこそが改修だったと成果と見るべきか、はたまた当時の新聞流の過分な言い回しか。
いまにも水戸黄門の御一行が現れそうな峠のうえの風景だ。これも振り返って撮影している。
現在この峠は掛川市上張(あげはり)と同市板沢の境界に過ぎないが、前述の記事にもあったように、昔は郡境という大きなレベルの境だった。
明治29(1896)年まで、峠を境に北側は佐野(さや)郡の南郷村(明治22年まで上張村)で、南側は城東(きとう)郡の上内田村(明治22年まで板沢村)といった。同年に郡が合併して小笠郡となったが、その後も村境としてはしばらく続き、昭和18年にまず南郷村が掛川町に編入され、昭和25年に上内田村も掛川町に編入された時点で、峠は境としてのグレードをさらに喪失したわけだ。ちなみに掛川市の市制施行は昭和29年のことである。
10:11
これが切り通しを抜けた先、南側の風景である。
こちらも小さな谷筋に向かっているが、眺望は全く開けず、最初から谷底にいるような窮屈さだ。
行く手も茶畑のような解放的な場面ではなく一面の篠地…、いわゆる笹藪ってやつだな……。
10:18 《現在地》
頂上から50mほど進んだところで、道形は密生した笹の海へと消えていた……。
とはいえ、地形的には完全な一本道で、そのうえ目指している青田隧道の南口は真っ直ぐ先で100mも離れていないようにGPSは教えている。
藪は深いが、距離が短いので突破しよう。
チェンジ後の画像は、藪突入前に振り返り。
明らかに自然状態ではなく、藪を刈り払った跡がある。
が、なぜかここで中途半端に終えられていた。
10:20
グワーー!!!
思わず文字色まで緑になりそうな強烈すぎる笹藪地帯。
むしろ密生しすぎて笹たちも苦しそうである。
鉄格子に腕押しするような無力感に苛まれながらも、距離が短いことだけを励みに、
ワッセワッセワッセワッセワッセ!!!
10:24
激しい笹藪に耐えること約6分――
途中は激藪過ぎて道形など全く見えなかったが、とにかく旧道が見えてきた。
しかし、思っていたよりもそれは低い位置に現れた。
どうやら最後もすんなり合流はさせてくれないらしい。
チェンジ後の画像は、峠の方を振り返り。
密な藪に濾されて、身体が少しすり減ったような気がする。
一瞬で汗だくなうえ、前夜の通り雨で藪が濡れていたせいで下着までぐっしょりだ。
10:25
とんだ嫌がらせである。
眼下に現れた旧道の路面との落差はいつまでも埋まらず、そこを軽やかに駆け抜けるサイクリストを妖怪みたいな血眼で見下ろす羽目になった。
下る場所がどこにもないので、もうどこかで“落ちる”しかない。
10:26 《現在地》
落ちました。
それでようやく旧道に脱出できた。
写真は振り返り、すぐ先に見えるのが青田隧道の南口で、そのやや右寄り後方の空がV字に空いている場所が、峠の切り通しだ。
簡単に行けそうな距離だが、実際には簡単ではなく“三嘆”となる。新聞記事はこれを言っていたのか?(苦笑)
チェンジ後の画像は、進行方向を撮影。
道端に停めてある自転車は私のだ。やっと楽できる。
ちょっとだけ戻って、青田隧道南口。
こちらはコンクリートの補修が進んでいて、元の煉瓦はアーチ環の一部に見えているくらいである。
坑門の外観もだいぶ変わっていると思うが、やはり扁額は見当らない。
再び隧道に背を向けて、3本の煉瓦トンネルにまつわる旧道のうちの青田隧道部分を終了した。
未知の隧道があるかも知れない、本編のメインストーリーはこっからだぞ!
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