道路レポート 鳳来湖湖底の宇連旧道 第1回

所在地 愛知県新城市
探索日 2019.5.23
公開日 2023.1.29


愛知県道424号振草三河川合停車場線は、大都会名古屋を擁する愛知県にあって、その貧弱さを一目を置かれる県道だ。
全長21〜22kmの路線なのだが、途中に二つも自動車が通れない不通区間があり、起点の東栄町振草(ふりくさ)と終点の新城市川合を結ぶ役割は全く果たせていない。

さらに供用中の区間についても、他の県道や国道との重複区間を除けば(実は重複区間もそのほとんどが)1車線の山岳道路であり、まさしく“険道”である。
これが最近認定された路線というわけでもなく、認定は昭和47(1972)年なのだが、未だにこのような状況だ。

ここでいきなり本題とほとんど関係ない話をするが、この県道の終点は、JR飯田線の三河川合駅である。
そしてこの終点付近の道路地図の切り抜きを左に表示しているが、見れば分かるとおり、実はこの県道、ギリギリのところで国道151号とは接続していない。接続しているのは、国道151号の旧道である。だからなんだと言うことだが、小縮尺の地図だと国道151号から分岐しているように見えるのに実際はそうではなく、目の前の国道にそっぽを向いて不通区間へ旅立っていく経路の面白さを伝えたかった。

ちなみに起点も国道151号の近くにあるが、やはり直接接しておらず、路線番号的には格下である県道431号を少し介して接続する形になっている。結局この県道が接している国道は中間部で出会う国道473号だけだが、その前後は不通区間である。侘しいことこのうえない。

この侘しき県道については、平成25(2013)年にほぼ全線の探索を終えているのであるが、レポートは未作成である。
そして今回紹介するのは、この県道の不通区間ではなく、この県道が認定されるより前(昭和47年より前)に廃止された区間である。
廃止の理由はズバリ、ダム湖への水没だ。



@
地理院地図(現在)
A
昭和46(1971)年
B
昭和26(1951)年

二つの不通区間で細切れ状態であるこの県道だが、最も終点寄りの区間は、鳳来湖に通じる道路として唯一無二の存在である。

現在の新城市東部にあった旧鳳来町の名(有名な鳳来寺山があるところ)を冠するこの湖は、昭和33(1958)年に豊川水系の宇連川を堰き止めて完成した宇連(うれ)ダムの人造湖だが、湖面を取り囲む巨岩聳立する山々の景観や、行き止まりの県道でしか辿り着けないプチ秘境感などが愛されており、知る人ぞ知る“映え”のスポットになっている。

元は国営の大規模灌漑事業である豊川用水の水瓶として整備されたダムであり、現在も主にその用途に使われているが、大きな人造湖ながら水没戸数はわずか6戸と、はじめから交通不便な山深い山峡の地に築かれたダムだった。

右図は3世代の地形図を比較しているが、B昭和26年版だけがダム以前の地形風景である。
後に湖底となった範囲には、道路が1本描かれているくらいで、これといった集落は見られないし、地名の注記もない。

ただ、この道をさかのぼっていった上流、不通県道の終点がある設楽町の区域内に、同町の中心市街地からは二つも山を隔てて遠く離れた宇連集落がかつてあり、湖底の道路はそこに通じる唯一の車道だった。ダム完成時に道路は湖畔へつけ替えられたが(それが後に県道に認定された)、現在は宇連集落の人口はゼロである。

今回探索するのは、この宇連集落へと通じていた、県道に認定される以前の道路であり、その在処は干上がった湖底である。
昭和33年というかなり早い時期にダムの湖底となったこの道だが、宇連ダムにはしばしば激しく渇水して湖底をたくさん露出させる悪癖があり、特に昭和60年と令和元年には、禁断の貯水率ゼロとなったことが知られている。
特に令和元年5月19日の貯水率ゼロ時には、SNSなどでその風景の“映え”が広く拡散されたこともあり、ニュースとして報道されるほど多くの見物人が訪れた。

私も貯水率ゼロには大いに興味を引かれたが、ニュースで見たあまりの過熱ぶりに尻込みし、その後少しだけ貯水量が回復した5月23日に訪れたのが、このレポートである(案の定少しでも水位が回復した後は、見物人の姿は全く見えなかった)。

それでは、貯水率10%の宇連ダムに露出していた、古き良き名も知らぬ道の景色を、ご覧いただこう。



 コロラド川出現!


2019/5/23 12:57 《現在地》

これは湖畔の道路風景、県道424号の風景だ。
広がるエメラルドブルーの水面は鳳来湖、その腕を一本切り取るように架かる前方のトラス橋は、八石(やついし)橋という。
中央の主径間が曲弦ワーレントラスで、左右3つの側径間はプレートガーダー。まるで古い鉄道橋のようなデザインで、ウキウキする。

チェンジ後の画像は、同橋の橋門構に取り付けられた製造銘板。
曰く昭和32(1957)年12月竣工。ダム完成の前年である。
そして発注者は農林省となっている。県道認定以前のこの道路は林道だったことを窺わせる。
また別の資料に拠れば、橋長98.6m、幅員3.5mである。

え?
全然水位が低くは見えないって?

ば れ ま し た か 。




ドドーン!!

こちらが本当の、“今日”の風景である。
(さっきの画像は平成25(2013)年3月16日の探索時のもの)

この八石橋が渡っているのは、鳳来湖の本流である宇連川ではなく、支流のコロラド川……じゃない砥沢に架かるものなのだが、その普段は水の底にあって見ることが出来ない地形が完全に露出している。
橋の副径間の下にある平坦地は河岸段丘面で、ここまでは渇水期にしばしば露出していると思うが、主径間の下のひときわ深い谷底部分は、簡単には浮上しない部分ではないだろうか。

橋の真下には、どどどどどどどともの凄い轟音を上げる、落差3mくらいの幅広の滝が露出していた。
全く緑が見えない岩棚を流れる川の景色は、日本の景色らしからぬ異様さがある。
思いついたワードは、イエローストーン国立公園。もちろん行ったことはない。イメージだ。でもこんな感じなんじゃないの、Yellowstone National Park.

こいつは、愉快な湖底探索が期待できそうだぜぇ!



そしてこちらは、八石橋から見た砥沢上流方向の眺め。そしてその満水時の比較画像である。
山々の樹木の緑と、満水位以下の白茶けた大地の対比が、なんとも強烈。
真夏の白昼夢を思わせる異様なコントラストだ。




ところで、違和感がないだろうか。
先ほどから見ている、この渇水した湖底を流れる川の風景に。

こんなにダムの水が干上がっているにも関わらず、本流でもない砥沢というこの小さな支流の流水が多すぎる。とても地図上に描かれた流路の長さが3kmほどしかない小渓流とは思えない水量だ。

実はここにはカラクリがあり、本ダムの開設当初から、ダム容量に対する宇連川の流量不足が予想されていたため、山を挟んだ大千瀬川や、さらにそこからまた山を越えた大入(おおにゅう)川からも取水できるよう、山越えのトンネル導水路がいくつも用意されている(これらは豊川水系ではなく天竜川水系である)。
その導水路の出口が眼下の谷の上流にあり、かつ宇連ダムが異常な渇水に喘いでいたこの日も全力で導水していたために、ここを場違いなほど多くの水が流れていたのである。
このようなウラワザが無ければ、当ダムの貯水率ゼロ状態は、もっと長く続いたものと思われる。

干上がった景色の谷を大量の透き通った水が流れている状況は、地球の摂理がバグったような異様さだった。



満水時には湖底となる砥沢沿いの広い低地にも、よく見ると道の跡らしきラインが見えた。
特に目立った構造物はないようだが、わざわざ山肌の急傾斜なところを横断している現在の県道と比較すれば、何倍も整備に易そうな長閑な旧道だった。




また、砥沢の下流へ目を向けると、宇連川の本流と合流する辺りが辛うじて遠望出来た。
眼下の旧道は、宇連川本流沿いにあったこれから探索しようとしている旧道とも、あのあたりでぶつかっていたはずだ。



八石橋を渡ると丁字路があり、砥沢沿いの道路が右に分かれるが、県道本線は左折である。

そこから数分自転車を漕ぎ進むと、古風なトンネルに出会う。
小さな扁額に名前が刻まれているが、小屋の沢隧道という。全長84m、竣工は昭和31年。
やはり付け替え林道として整備された隧道だろう。
このような隧道は八石橋より下流にも1本ある。

ここからまた少し進み、道路が宇連川の本流沿いになると、路肩の木々の隙間から、すっかり干上がった湖底にある“劇的なモノ”がいろいろと見えだして、私を酷く興奮させた。

たとえば、こんなものが見えた――




ズドーーーーーン!

まるで古代遺跡のような、巨大な石造台形橋台。

俄に信じがたかったが、木造橋杭も立ったまま残っている?!




オイシィー!

思わずしゃぶり付きたくなりそうな、丸形暗渠。

雰囲気が、道路というより鉄道っぽい。そのくらいしっかりして見える。



湖畔の道路はずっと緑の中にあるが、路肩の向こうが異様に明るい。

やがて、湖底の旧道が、この道路にぶつかるところがあるはずで、

それを慎重に探しながら進んでいった。今のところまだ合流していない。



見逃していなければ、まだ旧道は合流していないと思うのだが、

もうこんな狭くなった湖の底に、なんとも形容のしがたい、

滝のような、門のような、オブジェのような、不思議な岩の地形があった。

近づいてみるのが楽しみだが、後にしよう。まずは旧道探し。



不思議な岩の地形の真横に行くと、水位を問わず、県道からは樹木越しに、このように見えた。
いわゆる、岩脈というヤツだろう。
幅3mくらいの直立した板状の岩脈が、まるで普段は地中に隠れて見えない何かの境界を特別に見せてくれているように、鎮座していた。

そしてこれがなんと、人間が取り決めたある種の境界と、合致していた。




13:12 《現在地》

ここは、新城市と設楽町の境界であった。
平成の合併以前なら、南設楽郡鳳来町と、北設楽郡設楽町の郡境でもあった。
どういう経緯かは知らないが、この先の県道不通の峠ではなく、そこから4kmも手前のこの川の途中の岩脈が、昔から郡境になっている。
これより奥にある宇連集落(跡)は昔から北設楽郡の領域だった。(でも県道が不通なので設楽町の他の部分へは通り抜けられない)



あったー!! 

旧道入口っぽいもの!!

設楽町に入って50mばかり進んだ何の変哲もない(強いて言えば少し道が広くなっているかも)ところが、おそらく昭和33年以前の旧道と現県道の分岐地点だった。
特に立入りを規制する表示物はなく、ガードレールも切られているので、一応は道扱いになっている…… のかも




なお、これは平成25年の写真だが、上記旧道分岐地点を素通りして100m弱進むと、そこには宇連川を渡る橋が架かっている。
満水時には、この写真のように橋の下まで水が張られているが、ダム湖はここが上端で、これより先は自然渓流となる。

橋の名は宇連橋といい、竣工は昭和37(1962)年である。
旧道時代もここに橋があったと思われるが、痕跡は未発見である。

県道はここから3km強先で、車が通れる道はなくなる。
貫通させようとした時期があるらしく、多くの橋が建設されているので、いずれ紹介したい。




それでは、文明尽きた湖底へと通じる道へ、

突入!



(そうそう、レポートを最後まで読んでくれたあなたに、これも読んで欲しいんだー!)