走破レポート  河北林道 その3
2003.2.24



 阿仁からの帰り道、午後2時過ぎに河北林道へと踏み込んだ。
予想通り、やはり道は険しく、やっとか稜線上に登ったときには、すでに4時になっていた。
沈み行く太陽との競争になった。
強烈な西日による、その明るさは、虚実。
夕暮れの空気は急速に冷え始めていく。
 このままこの林道で夜を迎えたら、びしょ濡れのわたしは、無事には帰れない。
そんな恐怖に突き動かされ、疲労で弱った脚に鞭をうち、ペースをあげてゆく。
いよいよ、河北林道阿仁側のクライマックスが、近付いていた。

<地図を表示する>

 
断崖道路
 まもなく、河北林道で最も印象深い場所に到達した。
多くの河北経験者にとっても、ここか、あるいは峠の景色が、記憶に残っているのではないだろうか?
 しかし、その直前に久々に見る工事標識が立っていた。
また例の『通行止』の告知かと思ったが、読んでみると『緊急地方道路整備工事』とある。
この先の区間が工事中ということらしく、通行止めとは違うようだ。
それにしても、この標識が今回私にはじめて、この林道が今や“地方道路”(県道)であることを知らしめる物体となった。
写真で、その奥に写る、黄色い『落石注意』の標識も新しかった。

 幸いこの日、工事は行われていなかったが、果たして、この先はどう変貌しているのか?

 現れたのは、凄まじいばかりの法面施工であった。
この場所が、なぜ印象深かったかと言えば、1995年ごろまでは(残念ながら写真は持ち合わせていないが)、最も危険な場所であったからだ。
廃道ではない。現役でも、危険な場所だったのだ。
どういう状況だったかと言えば、
 …まずは、それを語る前に、もう少しこの場所の今を、見ていただきたい。

 確かに工事中というとおり、まだガードレールは施工されていない。
というか、この何の“ガード”にもなっていなさそうなロープは、当時のままのようだが、記憶が曖昧だ。
 この絶壁に張り付く道は、県道化した河北林道で、真っ先に改良された場所のひとつだ。
以前のこの場所は、一言で言うと、怖すぎて足がすくむ道だった。
現在の強固な法面からは、少し想像しにくいが、まず、これら人工物は一切無かった。
実は、路傍の草も生えていなかった。
じつは、一帯の最高峰白子森の名の由来は、非常に脆く白い砂のような地質に由来する。
当時、ここは、その砂山のような露頭の真っ只中を突っ切っていたのだ。
その結果、今よりも狭い僅か3mほどの道幅は、全体が、谷側に激しく傾斜していた。
そこに立つと、何一つさえぎるものの無い崖下に、引き込まれるような感覚に襲われるものであった。

 「良くこんな所に、道を通したな」
そう関心していたものだ。

 普通でない法面。
道路の上部は、最も高いところで、50mくらいはがっちりと固められている。
見上げていると、首が痛くなるほどだ。
 かつては、ここが全部真っ白な、砂の壁だったのだ。
1994年にはじめて通ったその時も、さらさらと音を立て、流砂が落ちていた。
年中落石、いや、落“砂”がおきていたように思う。
だから道も、あれほど傾斜していたのだろう。
 ここで一番驚いたのが、1995年、最悪の土砂降りと言うコンディションでの出来事だった。。
やはりキャンプサイクリングでここを通った私たちの前を、信じがたいものが通り抜けたのだ。
それは、ダンプカーだった。
私たちを追い抜き、視界100mも無い土砂降りのなか、減速もせずそのダンプは、私たちの見ている前で、ここを疾走していった。
明らかに、その車体は大きく谷底に傾いていた…
「正気なのかあのドライバーは!!」
と絶句したのを覚えている。

 頼りないガードロープの向こうには、千尋の谷が広がっている。
その深さは優に200mを超えている。
目もくらむような真角沢の対岸には、白子森が鎮座する。
まさに、絶景である。
しかし当時は、余りの恐怖で、ここで立ち止まりたいとは思わないほどであった。
 そして今回も、この絶景を前に、私は愉快ではなかった。
正直、この眺めに「怖い」とさえ思った。
それは、私の目に逆光となった白子森が余りに黒く映ったからばかりではない。
濛々と雲を巻き上げ、その雲と一体となり、心のよりどころとなっていた太陽を、今にも覆い隠そうとしていた。
この山を越えねば街には下りられぬのだということを、脅迫するような眺めであった。(実際秋田市は、この山の背後である)

 「俺にここが越えられるか?」
ますます夕暮れ色に染まる空に、私の不安は増殖してゆく。
立ち止まっている場合ではないのだった。

先は長い
 稜線に上りはしたものの、まだ峠は遠い。
アップダウンを繰り返しながらも、徐々に高度を上げてゆく。
一帯は殆ど手付かずの森林ばかりであり、林道が通っているのに余り林業には活用されている気配が無い。
 写真は、ぶなの合間から見通した峠付近までの道のり。
奥のほうの稜線上部にも、小さく道が張っ付いているのが、確認できるだろう。
 登る登る
 稜線上とはいっても、少し下った場所を崖沿いに道は伸びる。
かつてはどこにも砂の露頭が現れ、崩落も頻繁であったが、ここ数年で見違えるように改良されていた。
どこも工事は新しいようで、この写真の場所なども、法面の植栽は植えられて間もなくと言った感じだ。
砂利も敷きなおされたらしく、だいぶ走りやすい。
以前の姿を知るものにとっては、この改良には、感激した。
 早く峠を越え、この林道を脱出したい。その一心で、ペースをあげて走った。
なんとか、暗くなる前に…。

 見渡すは、登ってきた阿仁方向の山並み。
一日の最後にして、すっかり天気も回復。
これがまだ日差しの強い昼間なら、びしょ濡れの衣類も、靴も乾いたのだろうが。もうすっかり空は夕色だ。
ついでに景色は、秋色だ。
掛け値なしに美しい景観だと、そう思う。
しかし少なくともこの時は、余りの山深さに、嫌気が差した。
このときまだ、阿仁・河辺の山越えは、その道のりの半分も来ていなかったのだ。

 
稜線上
 いよいよ、稜線に上り詰める。
標高は約600m。
これまで決して視界に入らなかった、稜線の西側の景色が、ちらちらと見えるようになる。
しかし写真のような厳しい上りが、断続的に続き、河北の甘く無さを思い知らされる。

 実は初めて告白するが、私は、河北林道に勝利した男である。
勝手に自分でそう思い込んでいるのだが、その根拠は…。
その根拠は、この前回の通行である1999年、やはり阿仁側から登ってきたのだが、地点から、峠までの無停止走行を達成したことである。
勝手な評価だが、自身にとって、ひとつづきの上りを
 『途中一度も地べたに足を付けず(当然転倒や、バランスを崩して足が地に付くのもアウト)、
 一度も停止せず、登りきる』
を、無停止走行とし、完全勝利の条件としている。
こういう走り方は、がむしゃらに自身の限界を追った学生時代には良くした。
(ま、当時カメラなんて持ってなかったし、林道などでは漕ぐしかやること無かったのだ。)
 後にも先にも、あの無停止走行が最も辛かった。
途中この辺で、脚が痙攣したが、時速2kmで走り続けた。
すこし平坦な部分では、脚をブラブラさせて、ちょっとでも回復させるなど涙ぐましい努力があった。
これは自慢なのだが、誰に言っても、自慢にならないので、寂しい思いをしている。


 稜線上から、峠の直上に位置する無名峰(標高1017m)を望む。
その山頂付近は、大変なだらかに見える。
一般的には登山対象の山ではないが、好きな人なら、ほいほい登るのではないだろうか?
景色もよさそうだし。
かく言う私も、この景色を見るたびに、ここは登ってみたいなー、と、思う。
(どなたか経験者さん、レポートよろしく!)

 地点から、約7kmの地点。
以前は、路面にごつごつと大きな石が露出し、法面もむき出しであった部分が、見違えるように改良されている。
県道として、辛うじて認められる状況か?
あとは、この状況が長く維持されれば言うことは無いのだが。
 それにしても、まったく対向車なし。
もちろん抜き去ってゆくものもなし。
夕暮れは、確実に迫っている。
あたりを包む寂しげな蜩(ひぐらし)の音も、私の焦りを加速させるのみ。

熊見峠 標高650m
16:22
 この広場を、「熊見峠」と言うらしいが、これは何かの本で見た。
地図などに登場する正式な名ではない。
そして、ここを峠と呼ぶことには、違和感がある。小ピークといった感じ。
まだ、真の峠(郡境)には、高度差にして100mもの開きがあるし、ここで気を抜いたら死ぬ。
この先一度、道は下りに転じるので、初走だと騙されがちであり、注意したい。(←私だけか?)
たしかに、ここからの東の眺めはすこぶる良いが。

 突然ですが、チャリで山を駆ける同志の方に一つ質問です。
「本当に阿仁の山にはたくさん熊がいるのですか?」

 私は、これだけ走っても、いまだかつて、たったの一度しか遭遇しません。
運がいいだけですか?
それとも、きゃつ等はチャリが嫌いなのでしょうか?
けっして、私は馬鹿声を出しながら走っているわけではないのに…、気迫?!

騙されそうな下り
 うおっ、この路面状況!
これこそ、“生のまま”の河北林道ではないか!
そうそう、昔はこんなだったんですねー。

 んなことより、いい加減、夕暮れ近いよ。
というか、さすがにもう、日が落ちる前に河辺に抜けることは諦めざるを得ない。
まだ、残り15km以上あるし…。

 「あっ、今日おれ、ライトも懐中電灯も持ってきてないや。」

凍りついた。
そうです。
このままだと、本当に真の闇に閉ざされる!
しぬぅ!!!!
(なぜか、私が“生のまま”になってしまいました。)
 再び道は登りに転じる。
 いよいよ、この登りを登りきれば、そこが峠である。
それは覚えていたのだが、どれくらい続くのかは、忘れていた。
もう、疲れだとか、脚の痛みなど、気にしている状態ではなかった。
可能な限り速やかに、峠を越え、人家の近くで夜を迎えねば…、
濡れから来る凍えと、無灯からくる危険、その両方を、この河北で食らったら、もう、生きて行ける気がしなかった。
マジな話。
峠直下
 きた!!!

眼前に屏風のように聳えるブナ林。
あそこが、永く目指してきた郡境だ。
白子森と、無名峰の間の鞍部だ。

 しかし、こんなに近くに見えるのに、
なおも道は、飽きもせずおんなじ様なコーナーを繰り返す。
全体力を奪い取ろうと、凶器のような上りが、続く。

 ああっ。

もう、日が沈みそうだーーーー。


 目指す峠のある稜線を北に辿っていけば、白子森や御衣森を経て、おなじみの太平山へと至る。
写真でも、蛇行しつつ延びる稜線が遠くまで、写っている。
残念ながら、ここから太平山は見えないようだ。

 このあたりの景色は、どこもすこぶる美しい。
この河北、全ての山チャリストを苦労させる狂獣だが、
しかし、得るものも大きいのだ。
だから、好きだ。

しかし今は、ひたっている場合ではない!
ラスト上り
 1994年の初めての河北。
トリオは遂に、斃れようとしていた。
それまで、一度も背負ったことの無いほどの荷物を背負い、過積載のチャリを引き摺っていた。
もう、誰も口をきこうともしなかった。
ただ、下を見て、ただ、漕ぎ続けていた。
こんな長い上りが、あったのか。
林道とは、これほどまでに、厳しいものなのか。
この脚は、もう一回漕いだら、そこで折れてしまうのではないかと。
思いながら、
息の続く限り、ペダルを漕ぎ続けていた。


 1999年の“無停止走行チャレンジ”。
祈るような気持ちで、コーナーの先を、を見つめていた。
喉は渇き、舌が口腔に張り付いた。
呼吸は乱れ、鼓動が耳鳴りのように聞こえていた。
もう、それ以外の音は、聞こえていなかった。
本当に、走りながら死ぬって、あり得るなと思った。
思いながら、
無意識に、ペダルをこぎ続けていた。

 2002年、今このとき。

阿仁と県都を隔て、
県土を東西に分断する大蛇のような山嶺の、
無名の峠。

秋田に住まう、全ての山チャリストの憧れであり、
語り継がれる、永遠の林道。
英雄に彩られし道。

KAWAKITA

 いま、極めたりいぃっ!!



 なんか、ギャグっぽくなっちゃいましたが。
ほんと、熱いんですよー。この峠。


その4へ

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