第二次 日原古道探索計画 第1回

公開日 2007.3. 3
探索日 2007.1.23
東京都西多摩郡奥多摩町

日原川の谷底へ

“なかやすんば”の急坂


2007/1/23 11:04 《現在地》

 集落の東の外れからいよいよ山歩きが始まる。
詳細なルートは行ってみないと分からないが、ここからとぼう岩までの推定距離は2kmほど。距離的には全然たいしたことはない。
しかも、中間地点の樽沢までは現行の地形図にも点線ながら道が描かれており、果たしてここは恐れるほどの道なのか。

 木戸を潜り、いまいちど出発の地、日原を振り返る。
忘れ物はないか。飲み物は十分か。地形図は持ったか。
セルフチェックをして、いざ入山。




 まずは日原川の谷底まで降りる。それから対岸へ移ってとぼう岩を目指すのが古道である。
集落を出た道は、早速に荒々しい岩場を目の当たりにする。
崖を切り開いて作られた道が、小刻みなカーブを描きながら下っていく。



 写真には石垣と転落防止のロープが写っている。
石垣の方は如何にも村人の手積みといった風情の不揃いなもので、車はこの道を通らなかった証といえる。
しかし、それでも石垣のあるお陰で道幅は1m〜2mを確保している。
果たしていつの時代に作られたものなのだろう。

 ロープの方は、見慣れたトラロープが1.5m間隔で打たれた金属の細い支柱によって掛けられている。
路肩から50cm以上も内側に設置されており、かなり路肩は危険なのかも知れない。
比較的近年に設置されただろうロープの存在は、我々を勇気づけた。



 谷底までまだ50m以上の高低差がある。しかも道の外側は面白いほど切り立っており、トリ氏が覗き込んでいる左写真の路肩から一歩を踏み出せば、右写真の谷底で塵芥の仲間入りだ。

 都道とこの古道は、日原川の河岸の険しい崖に階層構造を成しており、古道の上方に都道が通っている。
とはいえ見上げて見えるほど近くはない。だが、谷底に散乱する大量のゴミは、おそらく古道ではなく都道から降り注いだものだと思う。


 『日原地元学』サイトによれば、なんとこの場所は日原集落の共同ゴミ捨て場だったとのこと。
車道が出来てゴミ収集車が来るようになるまで使っていたそうだ。今日の感覚からすると絶句!
3/4 読者様情報により訂正

 しかーし 厳しい道だ。

 いや、歩く分には何てことはないのだが…
これが本当に前回辿った小菅から吊り橋までの作業道の続きなのか?
明らかに道の規格が違うような気がする。
前回の作業道部分は、奥多摩町史や日原風土記に書かれている幅1.8mの荷車道だと言えるが、果たしてこの急坂かつ所々1mの幅もない様な道が、その続きと言えるのか…。

 歴代の地形図に描かれたルートとしては、今歩いているこの道と、現行の都道しかないのだが…。
まだ他に荷車道の続きとなる道があるのではないか?



 どうやら、その疑念は真を突いていた。
地形図の載っているルートが、古道の中では一番新しい代だろうという先入観。
そこをうまく突かれた形である。
 前出の書をよく読むと、地形図に記載されているのは先々代の道のようだ。
これまでも何度も書いたとおり、日原みちには都道へ至るまで5代の古道が存在していた。
そのうち、今向かっている谷底の「旧日原橋」を渡っていたのは、2〜4代目まで。
4代目は大正4年の開通で、とぼう岩に例の“死亡遊戯”を穿った道で、前回辿った作業道もそれ。
だが、昭和6年に開通した5代目ルート(4代目ルートと同一規格で繋がっていた)では、旧日原橋から渡河地点が移る。
そこでは旧日原橋よりも“とぼう岩”寄りの「惣岳」という地点に新しい吊り橋を架け、そこから日原へ向かっていたと書かれている。



 今歩いているこの道は、荷車さえも通じなかった時代の道なのだった。

 だがそれでは、地形図に一度も載らなかった5代目の道は何所を通っていたのか。
この道の上には都道があり、下には日原川がある。
既に都道に飲み込まれていると考えるのが妥当な所だろうが、実は別に存在していたことを、後日突き止めることになる。

 さておき、今はとぼう岩を目指そう。今日の目的はそこだ。
片洞門を成す岩場の道を下っていくと、遠くに一度見たら忘れがたい白亜の斜面が。
それは旧都道を埋没させた大崩崖だ。



 おっ!

 なんと予想外にも、ここで橋が現れた!
まだ旧日原橋ではない。
水面はまだ雑木林の急斜面の下にあって、ここからは見えない。

 それは、鉄と木で組み上げられた人道用の桟橋であった。
橋自体は作りから見てもそう古くないだろうから、藩政期にも使われて来たルートであることに疑問を感じる。
だが、そんな疑問は愚問であった。
今回いろいろ調べているうちに、文政3年(1820年)というずばり江戸時代に書かれた『武蔵名勝図会』の「日原村」の項を読んだのだが、大沢から日原までの険しい道には桟橋があったとはっきり書かれていた。
当時から険しい山道においては、木の桟橋が通行人の命を預かっていたのである。



 橋は相当に老朽化している。
その歯抜けになった板敷きを見ていると、人一人を支えられるかさえ不安である。
だが、ここはなかなか迂回できる場所ではない。
鉄製の梁が隙間から見えているのでその上を選んで、そしてしっかり手すりを確保して渡ることにした。
体重的に考えても私が落ちなければトリ氏は問題無いだろうが、かつて変な場所に体重を乗せたため板を踏み抜き橋下に半身転落負傷した某細田氏の姿を思い出した。



 上の写真2枚はいずれもこの桟橋付近で撮影したものだ。
左は桟橋の日原側から来た道を撮影。
オーバーハング気味に迫り出した岩場の上に道があるのが分かる。
どう見ても荷車の通じた道ではなく歩荷の通うそれであるが、かつて日原の女性は毎日ここを片道10km歩いて、氷川まで薪を売りに行ったのだという。
夏場など日の長い時期には一日二往復もしたと言うから、昔の人は信じがたい健脚であった。

 右の写真は桟橋を渡ってから同じ岩場を振り返ったもの。
早くもこの日原古道、その険峻ぶりを隠そうともしない。



 うわ…

 これはちょっと、マズいんでないかい…。

 元々狭かった道が、ごっそり落ちている。

落ち葉がイイ感じに足場を不明瞭にしているが、かなり険しいと見た。
大袈裟でなく、落ちれば10mクラスの滑落となるだろう。怪我は必至。
こんな場所があるとはお巡りさんも言ってなかったよ。
谷底までは結構楽に行けると踏んでいただけに、ちょっと尻込み…。
まだ、心と体の準備が……。





 ならば、心と体の準備をここでするより無いだろう…

と言うことで、ご覧のように突破。
トリ氏が落ちないか見守る私の前で、彼女は恐怖心が欠落したマウスのようにチロッとやって来た。
正直、見ている方が怖い。

欠落区間は短く一瞬で勝負は決まるのだが、意外に笑えぬ怖さだったことを付け加えておきたい。




 そこを抜けるといきなり、旧都道の大崩崖を彷彿とさせる礫の急斜面が現れた。
その下端には日陰に雪を残す日原川の河原が見えている。
いよいよ谷底も近づいてきたのだが、驚くことに、橋への最後のアプローチはここを直滑降する。

 …いや、別に降する必要はなくて…、普通にジグザグに降りていけばよいのであるが、ともかく、ここで古道は急転直下谷底へ!



 一応滑り落ちやすい礫斜面にはジグザグの九十九折りの踏み跡が存在している。
どうやら本当にここが古道の一部であったようだ。地形図にも何となく急降下な感じで描かれているのに注目

 旧日原橋から日原集落まで、いま我々が下っている区間も昔からの難所だったらしく、3〜4代目の道はこの辺りに個性的な地名を残している。
風土記には3代目の道について「旧日原橋際の橋場坂を切り下げるとともになかやすんば、、、、、、のところから鳥の尾下へ登る急坂を改修し」などとある。これは2代目の道が旧日原橋から鳥尾下という尾根を日原付近へ直登していたものを、いくらかなだらかな新線に付け替えたという旨だろうが、“なかやすんば”などという地名はすなわち「中休み場」であって、さしもの健脚日原勢もここでは一休みしたのであろう。
ここは確かにそんな急坂である。



 橋場坂と呼ばれていたらしい不毛の急坂を一気に下ると、谿水が間近となった。
屏風のように迫り立つ両岸に響く水音は、その水量の割に迫力十分で、薄暗いこともあってすこし恐ろしい。
だが、今日はこの川を徒渉する事も覚悟の上だ。
なにせ、旧日原橋が既に存在しない可能性も高いと思っていたからだ。
しかし、お巡りさんの証言によれば橋自体はまだあるようだ。

 が、

渡れるかは分からないという、怪しい発言も…。

…ともかく、その答えはもうすぐだ。




 いよいよ谷底へのラストの下り。
そこにも橋が、しかも2つ。

これも腐りかけた桟橋。
しかも今度は傾斜があって、苔むした板は滑りやすいから、特に気をつけて歩く。

河岸の岩場を鑿で削って台を作り、そこに桟橋を設けて3代目の「日原みち」が通じたのは、江戸時代中後期にかけてであるという。



 おそらくここにあるのは、当時とそう変わらぬ道の姿ではあるまいか。
そして、廃道でありながら、不思議と人のぬくもりを感じる道だ。
まだ完全に捨てられたわけではなく、村の人が時折は通るのだろう。集落から河原に降りる道の一つである。

 …やばいな。

まだ入り口だというのに、熱いぞ。
かの味王(by ミスター味っ子)ならば、もう口や耳からドジョウを噴出させているくらいの熱さだ。




 数多名の橋 …旧日原橋


 11:21

 集落を出て15分ほどで400m離れた「旧日原橋」に到着した。
そこには、先週に旧都道から見下ろした華奢な吊り橋があった。
一見してまだ渡れそうだが、近づくと雲行きが怪しくなった。
なにやら立ち入り禁止の黄色いテープが橋の入り口を塞いでいる。
橋自体も、踏み板が抜けているのが見えた。
もうぼろぼろだ。



 これまた途中で見た石垣同様、手作り感あふれる吊り橋である。
ワイヤーも細く、人専門の橋であろう。
そして、もの凄く朽ちている。

 ここに来てまず目につくのは、赤い文字で書かれた「お知らせ」の看板。

 お知らせ
   登竜沢出合より下流1600mと
   樽沢全域は禁漁区です
              氷川漁業会

 目にしたときには地名がよく分からなかったが、今なら大体見当がつく。
似たような看板は旧都道の封鎖された日原隧道坑口にも掲げられていた。
日原川は魚の多い清流として都民に親しまれているが、住む人々にとって漁撈は生活の一手段であった。彼らは険しい谿に分け入って糧を得るとともに、資源として大切に守り育ててきた。



 そして、一回り小さいが新しそうなこの看板。

  日原橋は危険なため
  当分の間、通行を禁止します。
   奥多摩町地域整備課

 「当分」が何時までなのかを問うてはいけないのはお約束としても、看板の新しさを見る限り、比較的最近までこの橋は封鎖もされず健在だったらしい。

 それともう一つ、駐在さん情報にあった曰く付きの「無妙橋」の銘板。

しっかりと定着した感じがあって、情報がなければ別名「無妙橋」と疑わなかっただろう。

 この橋は…正確にはここに掛かっていた幾代の橋は、別称が多く伝わっている。
正式名はおそらく「(旧)日原橋」であるが、村の人は「おはし(大橋)」と呼んでいるそうだし、「無妙橋」というのも事実上の別称だろう。さらに風土記では、2代目日原みちの橋を「渡来橋」と呼ぶ古文書のあることを伝えている。

 この橋は日原にとって長らく生命線であり続けた。



 旧都道から谷底に見えたこの橋であるから、こちらから見上げても当然旧都道は見える。
その姿の凄まじきはまさにアルプスか何所か、とにかく私の知っているところではない…。
とても人の通う場所とは思えないが、そこに都道は切り開かれた。昭和17年着工。
日原の住民を、開村から千代に続いた往来の苦行より解放する、希望の道そのものだった。
その道の勇姿は、それ自体が旧道廃道と成り果てた今でも、はっきりと確認することが出来た。
橋台のような切欠きは、旧都道の登竜橋のそれである。


 そしてこの時、まさかこの斜面にまだ別のルートが隠されていようとは、夢にも思わなかった…。
最も短命だった5代目荷車道、それである。





 大丈夫かよ…
  この橋は…。




 橋を渡れ"れ"ば、 「あの道」まで、あと1500メートル!