これまで4編の都道204号日原鍾乳洞線の旧道に関するレポートを公開してきた。
そして、“とぼう岩”付近には現在の都道に至るまで、実に7世代もの道が存在していたことを突き止めた。
このうち、私が主な探索の対象としたのは、「3期:江戸道」「4期:大正道」「5期:昭和道」である。
緑:3期「江戸道」
江戸中期に日原の原島家が中心になって、とぼう岩に初めて横断する道が付けられた。
なお、探索の結果最も困難な岩盤に一本の隧道を発見しているが、これが江戸道であるかは未だ不明である(レポ)
橙:4期「大正道」
大正4年に改修された道で、氷川から樽沢まで荷車の通行が可能になった。府道242号日原氷川線と呼ばれた。(レポ)
赤:5期「昭和道」
昭和6年に、従来の「大正道」を惣岳吊橋から日原まで延伸し、遂に全線荷車の通行が可能となった。引き続き府道242号と呼ばれた。今回攻略目標!
青:6期「旧都道」
昭和17年に着工し27年に完成した。初めて四輪自動車が日原まで入った。昭和18年に府道は都道に変わった。(レポ)
黒:現道
昭和54年に日原トンネルが開通し、とぼう岩を無視して日原に入るようになった。
これまでのレポートの数は4編だが、実際の踏査は3回である。
初回が平成19年1月16日で単独、二回目と三回目はトリ氏を伴ってそれぞれ同年1月23日、2月21日に行われた。
そして、これから紹介する「昭和道(旧府道242号日原氷川線)」は、二〜三回目の探索で既に踏破していた。
レポートの中では端折ってしまったが、多くの読者さんから「見たい」というお声を頂いたので、公開することにした。
今回は魔城“とぼう岩”へは一切接近しないので、過去四編ほどの盛り上がりは無いかも知れないが、我々の1〜2世代前の大人たちが、当時から行楽地として知られていた日原へ遊ぶために通った道。
そしてもちろん、地元住民が日々生活のため通った道でもある。
これはもはや、“日原古道”ではない、昭和の道だ。
時代的には、最も「山行が」の得意とする道でもある。
それでは、ご覧頂こう。
都下最強の廃道「日原鍾乳洞線」旧道をも難度で凌ぐ、「幻の府道」の姿を!!
2007/2/21 9:09
まずは5期道のうち、最も日原集落寄りの区間。日原〜一原間、約350mを紹介しよう。
なお、『日原風土記』等の記録によれば、この5期道の全長は1324mで、惣岳吊橋から日原集落までを指す。
都道に沿って東西に細長い日原集落の入口にある無料駐車場。
この場所を起点に三度の冒険が繰り広げられたが、その三度目であるこの2月21日の探索の目的は、とぼう岩の江戸道だった。
とぼう岩中腹に口を開ける隧道の正体を探るための、決死行。
公開済のレポートでは日原トンネル西口から始まっているが、実は駐車場を出発してからトンネル前に行くまでに、ちょっとだけ寄り道をしていた。
それは、当初の計画にはない寄り道だったが、“見つけてしまった”ために、そうせざるを得なくなった。
発見地は、駐車場を出て二つめのカーブ。
崖に面したカーブの先に、大量の被覆ケーブルが蜷局巻きにされて置かれている地点だ。
集落からは都道の下に鬱そうとした杉林があるのだが、ここでそれが途絶える。
私は何気なくその谷底を見た。
この1ヶ月前の探索で行きに通ったのは「江戸道」だったが、それが日原川を渡る地点に日原橋という朽ちかけた吊り橋がある。
もしかしたら谷底にそれが見えるのではないかと思ったのだ。
だが、代わりに見えた… 見えてしまったのは…
怪しい平場だった。
あーー。
あるねーー。 道が。
この道がなんであるかは、三度もこの界隈をうろついたせいですぐに分かった。
これが、前回の探索の帰りに歩いた5期道の続きなんだろうなって。
…さあて、どう降りるか。
都道とまともに繋がってはいない。
7〜8mほど下である。
しかも、両者を隔てるのは険しい岩場である。
強引に行くしかないのか。
とぼう岩攻略の前に、いきなりこれか。
顔面全体にマスクをつけて、「顔出しNG」のトリ氏… ではなくて、花粉症だそうです。
可哀想に…。
そんなトリ氏を後続に、微妙に数の少ない立木を足掛かりに、急な岩場を下っていく。
1分後、無事に平場へ着地。
右の写真は日原側を振り返って撮影。
この高低差の分だけ、5期道は都道に呑み込まれて消失してしまっているようである。ここから日原までの100mほどは、両者が重なり合っていることになる。
また、ここにはかつて平場と都道を結ぶ鉄パイプの梯子があったようだ。今もその残骸らしきものが残っている。
実質的な5期道のスタート地点から、とぼう岩方向を望む。
路上に生えた木の大きさが印象的だ。
5期道はここから1.2kmほど日原川左岸を進み、惣岳吊橋に至るルートである。
昭和6年から27年まで東京府道という地位にあった道だが、初めて日原を訪れたこの1ヶ月前には全く想定しなかった道である。
『日原風土記』を読んで存在を知ったのだが、歴代の地形図に一度も記載されなかった幻の道で、そのルートを完全に特定したのはこの日の探索によってだった。
路幅を測ってみた。
すると、ぴったり1.8mであった。
風土記にも1.8mと書かれてある。
ガードレールも何もないこの道をバイクや自転車が通ったらしいが、考えただけでも恐ろしい。
9:16
少し進むと、岩尾根を巻くような開けたカーブに出た。
旧都道を粉砕した大崩崖の白い斜面が、谷の向こうに出現した。
そしてなぜか、このカーブのど真ん中には2m四方ほどの方形の基礎が残っている。
一見して建物の跡だが、完全に道路中央に建っている。
道自体は、その裏側へ回り込んで左下へと消えている。
なお、『日原地元学』というサイトには、地元の古老の証言が多く紹介されていて大変参考になるのだが、そのなかにこの場所について言及している項があった。
それによると、このカーブが巻いている岩場を「豆まき岩」と呼んでいたらしい。
ここが当時の日原集落の出入り口だったのか、戦時中には村からの出征兵士をこの場所で見送ったそうだ。
…見送る。
確かにここは、「見送る」という行為のためにあるかのような、すばらしい展望地である。
ただ、余りに遠くまで見晴らせ過ぎるために…
送る者も、送られる者も、余計に辛かったのではないか… などと考えてしまう。
カーブを折り返すと、道は唐突に消滅してしまった。
どうやら埋もれたか崩れたかしたようだ。
30mほど先の竹藪の隙間に次の路肩の石垣、そして平場が見えていた。
頭上10m強の所を都道が通っており、その建設に伴う崩壊などがあったかも知れない。
新道の斜面下に旧道が置かれた場合、ありがちな荒廃風景である。
斜面はかなり急だったが、地面に土っ気が多いので、体重を支えに体をグリップさせて、ここを無事トラバースすることが出来た。
崩壊箇所を突破すると再び道は岩場に差し掛かる。
すると何と、その岩場の狭い道幅一杯に、数軒の家屋が現れたのだ。
さすがに今ここに人は住んでいない。
見るからに廃屋、破れ家である。
しかし、…想像外の異様な風景に、我々は顔を見合わせた。
ここで廃屋とは……。
慣れない私にとって、これは下手な崩壊より嫌な障害物だ。
トリ氏も、こういうのはかなり気持ち悪がる質である。
しかし、ここが5期道だと分かっている以上、そしてここから都道へ戻ることが困難である以上、“屍”を越えていくより無い。
「山行が初の、廃屋探険なのかーっ?!」
9:24 現在地
ガサガサ
ゴソゴソ
ガラ ガラカン…
ガン ガサザザザ
素堀の法面と、ひしゃげた廃屋の建材との隙間を歩く。
元々隙間が有ったのか無かったのか。
狭すぎて、よく分からない。
だが、結局写真のように行く手を阻まれてしまい…。
入らざるを得なくなった。
廃屋へ。
玄関なのか壁の隙間なのかもよく分からないところから……。
ともかく、中に入れば、どこか向こう側にも玄関なり通用口があるだろう…。
す …
スミマセ〜ン…
土足で失礼しまーす…。
どなたも、おいでじゃあありませんよねー…。
うわっ。
生々しい 部屋だ。
おもわず、“ナベダイヤル”。
テレビに、電話に、レコードプレーヤーに…
フレームの外だがでっかいコンプレッサーの付いた冷蔵庫もあった。
洗濯機は見あたらないが、“三種の神器”なんていう語が脳裏に浮かぶ。
トンデモない場所に建つ小さな家のようだけど、中身はかなり充実していたのね…。
いや、本来はこんな覗きをしたくはなかったんだけどね(笑)。
道 だということで… いちおう…。
しかし、家財道具はいろいろと有るが、さほど生活臭を感じない気もする。
事務所…ではないのだろうが…なんとなく…、住人は男やもめ?
平屋の廃屋は細長く、明らかに狭い道路上のスペースに合わせた長屋になっている。
そして、先へ進むと床の様子もあやふやになってきて… 気持ちが悪い。
抜けそうな感じなのだ。
まあ、抜けても路面だろうが…。
うわ!
床下は地面じゃなかった!!
てっ 撤収だ!!
となると、やはりどうしてもこの隙間を通っていくより無い。
きついが、出来るだけ建物を壊さぬよう、慎重にくぐっていった。
ちょっと触れるだけで、トタンの屋根からは大量の落ち葉や木屑が降り注いだ。
二棟目の内部はご覧のとおり。
もう、完全に吹き抜け状態。
下がね(笑)。
これを見て思った。
…さっきの廃屋… もし床を踏み抜いていたら、死んでいたかもな……。
ゾッとした。
どうにか2棟の長屋と法面の隙間を踏破。
少し開けた視界には、巨大なコンクリートの壁と、3棟目の建物が。
今度の建物は2階建てのプレハブ小屋だ。
プレハブということで、今までの2棟よりは新しく見えるが、実際の所はどうだろうか。
そして、5期道はどこを通っていたのか。
とりあえず、建物と奥のコンクリートの壁の間に通る隙間はあるが。
突如前方に立ちはだかったこの巨大なコンクリート構造物の正体は、都道の桟橋だった。
名前は一原桟道という。
上には2車線の立派な舗装路だが、私はここで、気付かなければその方が幸せだった、あるものを発見。
それは、巨大な蜂の巣がブドウの房のようにたわわに実る、嫌すぎる光景だった。
いまは全てもぬけの殻のようだが、気付かないで多くのハイカー達がこの数十センチ上の路面を歩いていた事になろう。
そんなことより、今の我々が襲われなくて良かった!
しかし、近くに残党が巣を作っている可能性が高いので、ここは早々に撤収だ。
廃屋を見ている場合ではない。
3棟の廃屋群を振り返って撮影。
3棟とも、トンデモない場所に建つ、トンデモハウスだった!!
樹上生活以上の危険度だ。
どうやら、鉱山関係者が古くはここに住んでいたようであるが…はっきりはしない。
ともかく、もし先にこの光景を見ていたら、絶対に一歩も建物内には入らなかっただろう。
私が悠長にナベダイヤルをした部屋は、一番左にある建物の中だが、床下の状況が全くシャレになってない。
木製の工事用足場の上に、無理矢理家を乗せたようなものである。
…やばかった。
廃道ではなく、廃屋で死すところだった!!
そして、明るい行く手に、
命がけの崖が、連続出現の予感!
5期道も甘くはない?! 以下次回!