国道20号旧道 大垂水峠 後編

公開日 2007.1.31
探索日 2007.1.10

死を呼ぶ国道

現代の関所を越えて


9:58

 全長3km弱の大垂水峠旧道(相模湖側)であるが、389mの海抜を有する峠まで残り300mを切った。
前回最終地点の切り通しには348mの水準点があるようなので(図上より、現地で未発見)、ここからの勾配はかなりきつそうだ。
すでにだいぶ前より、断続的ではあるがエンジンの唸りは聞こえていた。
いよいよ、その音の姿を確かめに行くことになる。



 切り通しを過ぎると、谷はこれまでの反対、左側に移った。
予想したとおり、道はかなりの急勾配となっている。
引き続き路面には落ち葉が厚く堆積しており、現道はもうすぐだというのに未だに轍は見当たらない。
最後にも何か大きな難関が待ち受けているのだろうか。




 道を境にして左の崖下は一面の竹林、右の山側は杉林となっている。
急な上り坂のまま、右へねじるようなきついカーブが現れた。
その山側には深い側溝が設けられている。(写真左…振り返って撮影)
側溝は、道路側だけがコンクリートの擁壁で固められており、落ちた橋のすぐ先で見たものと同じ物なのかも知れない。掘り返してみないと断定できないが。
 一方、谷側はカーブの途中から不思議な窪みが現れた。(写真右)
深さ50cm前後で、道路敷きの外側に3つ、細長い同型の窪みが、それぞれ少しずつ高さを変えて連なっている。窪みの間には狭い通路が掘り残されている。
道路と関係するものだと考えると混乱するが、これは何のことはない養殖池の跡だろう。
この場所を境にして、急激に現代への覚醒が始まる。




 正真正銘、これが峠に向かっての最後の登りである。
そこそこ広い道幅だが、両側の路肩に大量の廃材や機材が置かれている。
それゆえ、もはや4輪車が通行できる幅は残っていない。これではどこまで言っても轍など現れぬ訳だ。
 なぜか、移動式の仮設便所が何器も棄てられていた。



 うかつにも写真は白飛びが激しいが、日当たりの良い斜面に建つ白い壁の建物は、日陰の旧道から見て強すぎるコントラストを持っていた。
登りの終わりに現れた、2階建ての建物。
近付いてみると、それは国道相手に峠のてっぺんで営業を続けている、現代版「峠の茶屋」であった。
旧道は建物の真後ろから出て、新旧重なり合う峠の切り通しへと敷地内を突っ切っている。
ここに、最後の障害はある。



 このレポートを見て旧道へ行ってみたいと思う方もおられるかも知れないが、通り抜けはオススメできない。
旧道と現道とを結びつける最後の空間は、全てこの茶屋の私有地となっている。現道側と旧道側の両方に堅牢なバリケードが設置されており(写真は旧道側)、当然のことながら無断進入をして住人とトラブルが発生する危険性を排除できない。

 この日はまだ営業時間前であったがすでに建物からは煙は上がっており、チャリをともなってバリケードを突破する行為は、なまじ“公”が相手でないだけに普段以上に苦痛だった。
自分だけ突破しておいて他人にお願いすることは出来ないだろうが、ここで引き返すことを強くオススメしたい。
先に言ってしまえば、現道をチャリや歩きで通る事に面白みは無い。



 砂利敷きの駐車場を囲むように母屋や物置が並んでいる。湧き水を使ったスープが評判だというラーメンを名物にするドライブインだ。
ここの駐車場内には目の付くところの方々に「Uターン1万円」といった但し書きがある。部外者が見るとよほど狭量な店主かと誤解するが、実際には気の毒な事情があるという。
ローリング族のサーキットと化していた数年前までの大垂水峠では、夜な夜な居宅でもある茶屋の駐車場を折り返し地点にして、非合法のレースが行われてきたのだった。
ご主人が神経を尖らせるのも無理はないだろう。

 現在、営業時間外は常にバリケードが二重に設置されており、駐車場へ入ることは出来ない。



 駐車場内には世知辛さを印象付ける「Uターン…」の看板のほか、時代に流されぬ石碑の姿も。
峠に正対するように建つ石碑の表面には大きく「大ダルミ峠」の文字が彫られ、その左右にはそれぞれ「縣下名勝史蹟四十五佳選当選記念」「横浜貿易新報社」とある。

 昭和10年に碑面にある新聞社が県内から公選で名勝地45選を決めたおり、これに当選したことを記念して建立されたものだ。
昭和10年と言えば、まだ旧道が現役だった時期である。現道開通時に合わせ石碑も多少動かされたのだろう。
また、古くは峠の名が「オオダルミ」と濁って読まれていた証拠でもある。当時の地形図でも同じようにカタカナ交じりの名が記されている。



百年現役 大垂水峠の大堀割

10:04

 目指す峠へ辿り着きはしたものの、私の落ち着ける場所はここに無かった。
駐車場内に私が居る権利はなく、路上に出ても歩道はがない。
頻繁に大型車が往来し、対向車さえなければ大袈裟すぎるほど避けていってくれはするが、見逃されていたらと思うと恐ろしい。
長居は無用であろう。

 もと来た方向へ下る前に、折角だから目と鼻の先にある峠の堀割まで行ってみることにした。
写真に写る深い切り通しがそれである。



 峠の堀割の入口から振り返る。
ここで、雲ひとつ無い空に真っ白なものがあるのに気づく。
もちろん富士山。
道志の深い山並みがまるで高波のようで、その上から少々息苦しそうに白い峰が頭を出していた。

 写真左の門扉は、本来の旧道の入口だった部分だ。
今は茶屋の通用口となっており、奧には車も見えるが、通常は閉じられていて通行不可能である。
こうしてみると、峠の口で新旧道が綺麗に分かれていたものと思う。



 明治期と現在の地形図とで、峠に記された標高が少しも違わない。
ここは、そんな珍しい峠である。当時からこれほどの深い堀割があったのだろうか。
あるいは単純に、古い独立標高点の海抜が更新されていないだけなのだろうか。地形図からはそれを読み取ることは出来ない。

 道路上の最高所は堀割の中でもかなり東京側にあるので、そこまで進んでみた。



 地方では余り見ることのない街路名の標識やおにぎり、巨大な石塔などが建つ都県境。
また近くには「明治の森高尾自然公園」の案内看板もあり、この峠から南北に歩道が分かれている。
どちらも稜線上の道で、北の道を行けば小仏峠や高尾山へ、反対の道は大洞山やコンピラ山を経て津久井湖畔の廃県道へ通じている。(この地点だ

 背丈より遙かに高い石塔には達筆な文字で「東京府 神奈川縣 境界標」とあり、側面には「昭和八年六月馬道改修記念」と彫られてある。
茶屋に建つ碑よりもさらに2年ばかり由緒の古いものであるが、当時はまだ東京都ではなく府であったことに注目したい。都政施行はこの10年後である。
また、「馬道」という言葉は聞き慣れないが、おそらくそのままの意味であろう。
当時は国道8号に指定されていた時代で、いまだ自動車が通れるような道ではなかったのかも知れない。



血を啜った 魔の連続カーブ

10:08 
 ここで方向転換。
そして…

 現道ダウンヒル開始!

昭和30年頃に開通し旧道を放逐、現在に至るまで第一級の幹線道路として現役を張り続ける、その道である。

堀割から戻るとまず目に付くのが富士山。そして、数々の赤標識たちだ。
赤い標識は規制を表し、その道がドライバーに強いる運転方法を示す。
すなわち! 以後この道では…

  1. Uターンは禁止!
  2. 追い越しも禁止!
  3. 30キロ以上は出すな!!
  4. ついでに土日祝日は小さいバイクで来んな!!

特に30km制限というのは、かなり“キテ”いる。
なにせ、国道ではこれ以下の制限速度はない。



 峠で営業しているドライブインは現在一軒だけだが、前はもっと沢山あった。
下り初めてすぐに大垂水橋という桟橋を渡る。その袂はバス停「大垂水峠」だが、傍に潰れたドライブインが残っている。
大垂水橋が出来る前の山側を小さなカーブで迂回する旧道も残っており、その当時はこのドライブインの前にも小さな駐車場があったのだろう。
現状では全く車を置くスペースもなく、ここでドライブインが成立したとは信じがたい。

それと、ここでひとつ「おおたるみとのお約束ごと」が追加された…
  1. 駐停車ももちろん禁止よ。


 アイスクリームや観光バスサービスステエションなどと大書きされた廃屋の看板。
観光バスが列を成す観光地だった時期もあるのだろう。
現在では、一応遊歩道も来てはいるが、あくまでも国道の通過地点に過ぎない印象である。
現道が開通した当時にあっては、完全鋪装の峠道自体が立派な観光道路に見えたかも知れない。また、峠からの富士山をはじめとする眺望は今でも素晴らしい。



 海抜389mの大垂水峠から、現道が峠を下りきって旧道でもある県道515号とぶつかる千木良小前交差点までは約3.8km。この間の高低差は220mほどである。旧道経由では同地点まで約4.2kmある。新旧道間で経路の違いこそあれ、距離の短縮は殆ど成していない。それでも現道が旧道に較べよほどマシなのは、勾配がある程度緩和されていることだ。
 とは言っても、全長15mを越える大型のトレーラーも頻繁に通るこの幹線国道においては、これも十分な改良とはほど遠い。
先の4重の規制標識にもそれは現れている。



 この峠道が首都圏に最も近い本格的なワインディングであったことは、若いライダー達にとって見逃せない事実だった。
今から数年前まで、大垂水峠相模湖側のこの下りは、夜な夜な爆音に包まれるサーキットになっていたという。
一部の速き幸運者たちはひとときの栄華に酔ったが、不幸にして、不法の報いを命で償わされた者もいた。
一説には、これまで大垂水峠でのローリング行為によって60人ものライダーが事故死しているという。

 目立つカーブの随所に見られるご覧のような看板は、決して脅しなどではなく、大人達の真摯な警告であったろう。


 現道は、昭和30年代に開通して以来その本筋を変えてはいないものの、所々でご覧のような余地を見ることが出来る。
きついカーブの前後や、いまは桟橋となっている箇所などに、旧道敷きは残されている。
普通の峠道であれば、これらの現道に面した旧道敷きは休憩所やUターン場所として残される事も多い。実際、ある時期まではそのように使われていた痕跡があるが、今は全てガードレールやガードパイプで塞がれている。

 Uターンは禁止! 駐停車も禁止!
 それなのにアナタ、何か立ち止まる必要があって?



 歩道が現れた。
が、 狭い!
おそらく、自転車が通ってはいけない歩道なのだと思うが、怖くて車道は通れない!

 ブラインドコーナーが続く急な下りの途中で、この日は2箇所も片側交互通行をしていた。
歩道に規制は及んでおらず直接私との関係はなかったが、旗を振る警備員は見るからに命懸けだ。下ってくる大型車輌の前に立ってそれを停車させる恐ろしさは、私も経験済みなので分かる。ましてこの急な下り坂である…。



 大垂水峠と小仏峠の間のピークである城山(海抜670m)の、浸食が進んだ南側斜面に新旧道は並行している。
旧道は写真左の谷底に隠されていた。
現道の行く手には、旧道からも見たループみたいにカーブしている橋が現れた。
だが、あそこに行くまでにもまだまだ、若者達の血を啜った危険カーブが連続する。
富士山や丹沢山系を一望できる絶景も、車窓としては命取りなのかも知れない。



 ガードレールと高いフェンスで二重に封鎖されたペンションを尻目に、幅広のヘアピンカーブ。
この辺りから路上には赤い縞々が現れ、上り車線ではカーブ毎、下り車線(下り坂だ)ではずっーーーっと続く。

 この縞々の部分は特殊鋪装の滑り止めになっている。
前後にチェーンの着脱所もないこの峠道も、凍るときがある。
だが、おそらくこの滑り止めの目的の半分は、ドリフト防止およびスピードオーバーの抑止のような気がする。



 ここにも、ローリング行為を戒める看板が建つ。
ガードレールに花や缶ビールなどが供えられている場所もある。
そこで何があったのか言うまでもない。



 葡萄のようにたわわに実った規制標識たち。
歩道上で自転車の立ち漕ぎをした場合、顔面を強打する位置にある。
大出血は間違いない。


 件のカーブ橋手前。
そこには短い直線があるが、相変わらず路面の赤い縞々は途切れない。
この上を車で走るとよく分かるのだが、かなり凸凹があって不快な振動が来る。
それは、人によっては酔ってしまうほどだ。
だが、私は最近気がついた。
時速30km以上出しているから、不快なほどに激しく揺れるのだと(笑)。
速度を守らせるための凸凹でもあったのだ。

 巨大な電光掲示板には、対向車接近中の文字。点滅してドライバーに注意を促してくれるが、イラストは普通車でも巨大なタンクローリーがはみ出し走行してくることもある。



 銘板さえ無い旋回桟橋。
旧道敷きが大きなヘアピンの内側、斜面に沿ってさらに小刻みなカーブで残されている。
勾配もきつく、かつては相模湖側で最大の難所だったと思われる。
現道は見晴らしも良く、つい気持ちよくアクセルを踏んでしまいそうな場所だが、あくまでも制限速度は30km。
この橋の出口には、営業中のドライブインがある。
やはりUターンは禁止されているので注意したい。



 再び歩道は消え、車と混ざって走ることに。
写真に一台も車は写っていないが、身の安全を守るため出来るだけ近くに車の居ない時を狙って(あるいは安全な歩道上から)撮影したためだ。
土日祝日は125cc以下のバイクの通行が禁止されていることは前述の通りであるが、自転車までは禁止されていない。だが、ふらつきやすくなる登りにおいて、チャリは相当に危険である。

 右の看板は、峠区間の至る所に立てられている。



 再び交互通行。
歩道があってもご覧のように狭く、ハンドルを引っかけそうで怖い。余り使われていないようでその路面状況も良くない。

 小さな桟橋に、ご覧のような銘板が付けられていた。
それまで1級2級に分かれていた国道が一般国道に統一されたのは昭和40年であるから、この橋はそれ以降に建設されたものと考えられる。現に、この桟橋の脇にも鋪装された旧道敷きが残っており、工事関係車輌がバリケードの向こうに多数駐まっていた。



 千木良の集落に入る直前まで、グネグネカーブの急勾配は続く。
繰り返される小刻みなカーブでは、センターラインを無視して通行する大型車も目立つ。
写真では、それぞれ異なるカーブを描いた警戒標識が連続して写っており、線形の悪さを物語っている。

 並行する中央自動車道は小仏トンネル(下りL=1609m、上りL=2002m)で直線的に貫いている都県境であるが、もちろん有料(相模湖IC〜八王子IC間普通車750円)である。
行政としては、中央道が昭和43年に同区間を開通させた時点で大垂水の難路は解消されているという考えかも知れないが、高速を使いたくないドライバーに危険区間を通ることを強いているわけで、その通行量を考えても、中央道の同区間を無料化するべきだと私は思う。
地方出身の私の目から見て、このような隘路が東京を発って最初の峠道であろうとは全く予想外だった。東北の二桁国道の多くは(三陸を除けば)遙かにこれよりマシだ。



 峠から約3km地点。旧道が県道から分かれて山間へ入った、今回のレポのスタート地点のほぼ直上の山腹である。
ここに、峠以来最初の分岐地点があり、赤馬集落への近道となる狭い舗装路が左へ分かれる。
そして交差点は2輪車の左折を禁止している。
とにかく2輪車が峠の途中で引き返すような場所を設けたくないという、そんな思惑が感じられる。



 分岐を過ぎても8%前後のややきつい下りが続く。
だが、ようやく下界の民家が現れてきた。
歩道のない国道からも、もう少しで開放される。
背後から大型車に追い越される度に、どっと疲れる。

 この反対車線に6枚も連続して立っている標識には、「お静かに」のメッセージと赤子の寝顔がイラストされている。
これもまた、峠での暴走行為や大型車の過ぶかしを戒めている。
また、峠の全線ではカーブを中心に、センターライン上に蛍光板の入った道路鋲が設置されており、ドリフト行為を防止している。



 千木良の集落へ下り着いた。
ここでようやく制限速度やバイク禁止の諸規制が解かれる。
行く手には、谷を山腹ごと鉄橋で跨ぐ中央自動車道が現れた。
今回紹介する区間はここまでだが、この先山梨県境を越えて大月までの区間にも、断続的に歩道のない狭隘2車線区間が点在している。
いずれも中央自動車道が近接してはいるが、通行量の多いとても恐ろしい区間だ。



10:23

 目的地、千木良小前交差点に到着。
左後ろへ分かれる道が県道515号であり、旧国道であった。

 大垂水峠区間の終わりを示す物として、写真にも写る巨大な「異常気象時交通規制区間終点」の標識が立つ。
大垂水峠の両側を含めた4.8km区間は、連続雨量150mmで全面通行止めとなる特殊交通規制区間である。
そのような事態にあっては、まず並行する中央道も通行止や50km制限などとなるため、結果交通がマヒすることになる。

 なぜ東京の西の玄関という重要な位置にあって、このような隘路が取り残されているのか、私には解せない。
まさか、江戸幕府よろしく、防禦のためなどというわけはないのに。


 私の調べた限り、大垂水峠について抜本的なルート改正の話は聞かれず、開通から半世紀を迎えた今後も、ドライバー泣かせの大垂水は解消されそうもない。
高尾山にトンネルを穿つ圏央道工事に対する地元住民による大反対運動などの例を見るまでもなく、首都のグリーンベルトたるこの山域での新道開発は、相当に難しいのだろうという想像も出来る。

 ただ、mixi 内に大垂水峠踏破のレポ(←このリンク先はmixi 内で、会員以外は見られません。)をいち早く上げるなど、“甲州街道LOVE” のトリ氏は、自身もここで何度か危ない目に逢った経験を持っているにもかかわらず、なおこの道を肯定する。

 「大垂水峠がそこにあるから、(東京から)西への旅は、旅らしいのだ」 と。

 私がその気持ちをある程度理解できるのは、関東平野が飽きるほど広いことを知っているからかも知れない。