道路レポート  
雄勝峠(杉峠) 旧旧道 その6
2005.4.2

 三重九十九折り 
2004.12.2 10:51


 冷水沢源頭の斜面を越えると、いよいよ最後の場面が近づいてきた。
それは、峠へと直接アプローチしていく、三連続のヘアピンカーブ…九十九折りである。

写真には、その初めのカーブが写っている。
正面の斜面に阻まれた道は、180度転回し、左の斜面上へと登っていく。



<G地点>
 広い。

私は、思わず呟いた。
そのカーブのアウト側は、大きく土を削って平地が築かれており、どうにもならない悪線形を少しでもフォローしようとした痕跡を感じる。
また、それだけではなく、私はこの立ちはだかる土壁を見て、どうしてもを見てしまう。

雄勝新道と呼ばれていた、この旧旧道を設計した段階では、峠には隧道が予定されていたと伝えられている。
三島は強く隧道化を推したが、何らかの事由により隧道化は撤回され、結局峠は、それ以前と変わらず、鞍部を通過することになった。
それが、幻の雄勝隧道である。
もし実現していれば、初代の栗子山隧道にも匹敵する、東北最古級の道路隧道となっていただろう。

そして、峠を隧道化するとしたら、私ならばこの場所を掘ったと思うのだが。


 この九十九折りが最後の登りであることは、景色から言って明白なのだが、そこもまた、一筋縄ではいかぬ難所であった。

例によって、この斜面も大規模に崩壊していて、さらに、その崩壊面にはびっしりと笹が茂っていた。
実は、笹藪というのが、私が一番恐れていた場面なのだ。
大げさでなく、笹藪ほどチャリでの進行を阻害する藪はない。
笹は撓りが大きく、チャリのあらゆる突起に引っかかること甚だしい。
結果、通行には尋常でない労力を要することになる。
最悪、進行不能にさえなるのである。
これまでも幾度と無く、私は笹藪に進路を絶たれた苦い思い出がある。

そして、この最後の九十九折りには、進路上に笹藪が避けがたい奥行きで広がっていたのである。



 さらに、この場所には謎の物体が散乱していた。

それは、写真に写る、金属製の棒である。
その錆び具合から言って、鉄製だろう。
半ば地面と一体化してしまっており、ここに投棄されてから、相当の時間が経過していることを想像させる。
しかも、一本だけではなく、かなりの本数が散乱している。

また、その尖端部には、さらに別のパーツに繋がっていたらしい、穴が空いている。
なんらかの構造物を形成してた金属柱が、倒壊し散乱したように見えた。
これほど巨大な金属柱を、よもや廃道の峠まで登ってきて捨てる輩もおるまい。
 

 散乱する金属柱の正体だが、確固たる情報はなく想像に頼るしかないのが現状だが、私の読みはこうだ。

これは明治期に利用されたという、院内銀山へと通じた索道の支柱ではないだろうか。
院内銀山は、現在ではすっかり過去帳入りして久しいが、日本有数の銀山として栄えていた時期もあるのだ。
ある時期には、現在の秋田市の前身である秋田町を凌ぐ人口を抱え、県下随一の文化的水準にあったという一大鉱業都市も、現在では驚くべき事に人口ゼロ地帯となっている。
その院内銀山では、莫大な量の薪を必要としたが、明治期には近隣の分だけでは不足し、雄勝峠を越えた先の山形県の及位より得ていた。
そして、開通したばかりの雄勝新道はよほど悪路であったのか、峠より秋田県側は鉄索(ロープウェー)を設けて、冷水沢まで運んだとそうである。

場所的にはズバリ一致するし、鉄索と言うからには支柱は鉄製であったのでは。



 二つ目のヘアピンは、再び斜面を強引にショートカットして、省いた。
笹藪が酷く、とても侵入できなかったのだ。
そして、一気に最後のカーブが眼前に見えてきた。

そして、その最後のカーブは、180度ではなく、90度の直角カーブ。
直角カーブで、いよいよ鞍部に正対する方向へ道は向くのだ。

いよいよ、そこに峠が待っていそうな予感がした。
遂に、そのときが来るか!
その興奮は絶頂感を伴って、私の疲れた体を突き動かした。
 

 振り返ると、異形の樹が、なにやら私を見つめている。

目?


不気味なことだが、私は何となく、その木が私を見ているような気がしたのだ。

失笑。
ありえん。

だが、その木は確かに、何らかの気配を、私へと向けている。
目が、背けられない。

峠を見つめる、信じがたい樹形を持つその木は、果たしてただの植物なのだろうか。



 峠は、遂に抵抗を止めた。

ここまで、旧道からチャリを押し押し50分以上掛かった。
この探索の後、ある事情により、今度は徒歩で峠へ歩いたが、徒歩ではあらゆる斜面をショートカットできたので、ほんの10分以内で、旧道からここまで来ることも出来た。
しかし、チャリで来たという意義は、私にとってとても大きな物である。
失われた車道への手向けは、やはり“轍”に限ると思うのだ。

次のカーブを曲がれば、そこにはきっと峠が開ける。

そんな予感が、さらに私を駆り立てる!


 


 もったいぶってごめんなさい。

これは、衝撃的な峠の景色を背にして振り返った、秋田県側の景色。

私にとって、峠の景色があんまり感動的だったもので、好きな餌はあとから食べたいニャンコの心境から(?)、峠を向くのを躊躇ってしまったのだ。
まずは、まずは落ち着いて、背後をね。

ふー。

ふーはー。


ふーー…。


では、行くぞ。

…これが、佐竹の殿様が拓き、三島が継いだ、
伝統の

雄勝峠の姿だ!!




 雄勝峠 
2004.12.2 11:02



 重苦しい曇天のもと、峠は圧倒的な存在感で、私を迎え入れた。

峠は、かつて見た峠のどれよりも、大規模な、切り通しであった。
もはや、地形的に元来より鞍部になっている場所ではあるが、はたしていかほどの土工量によって、これだけの巨大な切り通しが出来上がったのか、想像も付かない。
下手をしたら、隧道とした方が、楽だったのではないかとさえ思えるほど。

目算だが、切り通しはその長さが、100m。
幅は底部で8mほどあり、2車線を確保できる幅だ。
斜面は、45度ほどの斜度で、そのまま遙か上部の稜線に繋がっている。
先ほど述べたように、元来の地形との境界線は判然としない。
度重なる崩壊による物なのか、もともとこのような施工だったのか、のり面には一切の土留めなどは見られない。



 のり面の一部は、岩盤が露出しており、もしかしたらこの面が、元来ののり面であったのかも知れないと思える。
しかし、この峠にも近年に人が訪れた気配は皆無で、ただひたすらに、風だけが、通り過ぎている。
(実際には、稀に地元の人や歴史研究家などが入っているようだが、さすがにゴミなどが散乱するでもなく、峠は至って美しい。)

私は、この秋田県と山形県との県境の景色に、完全ノックアウトを喫した。
これぞまさしく、峠。




 峠中央付近から、行く手を見る。

ここが県境だろうか。
昭和30年頃までは国道13号線であった筈だが、もはやそこには一切の車道であった痕跡は、見つけられない。
地面には、こんもりと土砂やら落ち葉やらが堆積し、元々の路面を覆い隠している。

私は霙交じりの北風が、切り通しを文字通り風穴にしてリューリューと吹きすさぶのに、背を押されるようにしながらも、一歩一歩確かめながら、チャリと共に、この切り通しを越していく。
私は、三島との決着を、また一つ迎えようと言うのか。
いつになく、その表情は、誇らしげであったに、違いない。

この足元には、昭和30年に完成した旧国道の雄勝隧道と、
昭和56年開通の現国道、新雄勝トンネル。
さらに、奥羽本線の上り下り線それぞれのトンネルが、絡み合うようにして、貫通している。
その原点は、この切り通しであった。


 前言撤回。

車道であった痕跡を、ただ一つ見つけたと言えば、これは言い過ぎなのだろうか?
切り通しの山形県側の端は、チャリに跨って通れるほどにしっかりした路面だった。
試しに落ち葉を少し掻いてみると、出てきたのは、砂利だった。
色あせて、土と混ざり合ってはいるが、とても素手ではそれ以上掘り起こせない、堅い砂利の面。
これが、国道時代の路面の名残であると考えるのは、自然であろう。

 

 あまりにも出来すぎている気がするが、峠を越えると、なんと途端に雲が途切れ、暖かな日差しが降り注いだ。

祝福してくれているような錯覚を覚える。

私は、峠に振り返り、体は自然とくの字になった。

敬礼だ。


峠を拓いた、佐竹のお殿様、三島県令殿、そしてそこを守り抜いた、名も無き職人達。
最初にここに道が通ってから4世紀が経過しているが、なおこの峠は東北有数の重要なる峠に、名を連ねている。
この天然の鞍部に挑んだ4世紀。
いまや、現在の道からは、その峠の厳しさを感じる事は難しい。

廃道となりて、その峠はなお、訪れる者すべてを虜にせずにはおかない。



 峠を攻略。

 あとは下り。

 そこに待ち受ける、愛車最大の受難。

 いよいよ物語は終盤へ。

 






その7へ

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