静岡県道416号静岡焼津線 大崩海岸 (旧国道150号) 第3回

公開日 2008. 3. 5
探索日 2008. 2.25

石部洞門の最期 

石部隧道


2008/2/25 13:30

 約100分間の東海道本線旧線の廃線跡探索を終え、再び国道150号の旧道である県道416号に戻ってきた。
そこには、路肩に乗り捨てられた私のチャリが待っていた。道の対面にあるのは、廃線マニアを当て込んでいるのかは分からないが、時間極100円の駐車場。

 それではここから再び道路レポの再開だ。
再出発から間を置くことなく、すぐにこの大崩海岸における道路マニアにとってのハイライトが現れる。「石部海上橋」とその旧道である。





 これより挑まん!

 希有なる海上橋が待つ、
   旧道踏破の最終難関へ!



 まずは、前衛。 石部隧道。




 気の利いた銘板の代わりに、落石の危険を知らせる黄色い回転灯だけがポツンと取り付けられた坑口から、薄暗い洞門の中に入る。 

 すぐ間近に海がある割に、洞内の空気は乾ききっている。
その冷たい空気からは、微かに、土埃と排気ガスの混ざったような臭いがした。
それは、辺鄙な地方県道が纏うそれではなく、れっきとした幹線国道のもののように思われた。

 この洞門は、昭和46年に石部海上橋を建設するきっかけとなった大崩壊が起こる前まで、2本の鋼鉄製の洞門だったという。
現在の一本のコンクリート製洞門は、かつての6,7号洞門を全面的に改築した姿なのだ。
崩壊の被害を直接受けたわけではなかったのだが、この区間の保安基準が全面的に見直されたために、昭和44年に完成したばかりだった6,7号洞門は、ほとんど新品のまま交代を余儀なくされたのである。



 洞門から始まった闇は、おおよそ100mほど真っ直ぐ下った後、そのまま石部隧道へ繋がっている。
引き続き道は直線で、ここはチャリの場合非常にスピードが出てしまう。
ブレーキレバーをかなり引き絞らなければ、制御できないほど。
特に、洞門も隧道もかなり幅の狭いのと、全体的な光量の不足が相乗して、体感される速度はもの凄い。
私はジェットコースター的なスリルを感じたのであって、平成の世に量産された “同じ顔をしたようなトンネル” では決して味わえない興奮がある。

 なお、洞門と隧道は密着しているので、隧道坑口の意匠などは一切失われている。銘板を含め。




 だが、東口には辛うじて本来の意匠を知る手掛かりが残っていた。
西口同様、隧道は短い洞門に直結しているのだが、断面の大きさが少し違うために、写真のように僅かだが本来の坑口が見えている。
この石部隧道は、前回までの2本「当目隧道」「小浜隧道」よりも9年遅れた、昭和18年に竣工している。
当時の記録によれば全長120m、幅員と高さは共に4.5mとあって、2車線を取るには限界と言っていい幅である。
事実、隧道内にはセンターライン以外に線が引かれてはいない。路肩ゼロという扱いなのか。

 さらに、アーチの迫石よりも内側に厚さ20cmほどのコンクリートの巻立てがある。
元々狭かった隧道に後補による巻厚を足されている。おそらく、現在の有効幅員は4m程度しかないのではないか。
この隧道でも、昭和46年の大崩落後に点検を受けた際に多数の亀裂が発見され、何らかの対策が必要であるということが「静岡県土木史(昭和60年・五月会)」に書かれているから、それを受けて補強されたのかも知れない。




 昭和46年以前、隧道の東口は明かり区間となっていたのだが、これまた後の改良による重厚な洞門が追加されている。
当時は、石部隧道坑口から26mの間隔を空けて、コンクリート製の石部4号洞門(27m)が続いていた。
この4号洞門は昭和40年に建造されたもので、6,7号洞門同様、本区間の保安基準の改定により極めて短命に終わった構造物といえる。


 洞門を出るとすぐ、上り車線の路肩外に小さな観音像が安置されている。

現在は道路外となっているこの敷地が、昭和46年以前の国道で、いまは廃道となった区間の入口である。




 洞門内部から右カーブが始まり、外へ出るとそのまますぐに海上へ。
これが、日本最古級の大規模海上橋梁。
昭和47年7月竣工全長360mの、石部海上橋である。
敢えて陸を避け積極的に海上に進路を求めたことは、昭和40年代当時の設計思想にとってエポックメイキング的な大事であった。

 この橋に対応する旧道の存在は橋上からよく目立ち、旧道や廃道といったオブローダー趣味のものを一般人に強く意識させるものとなっているのだが、この新旧道の分岐地点においては敢えて旧道の存在を隠蔽するような工作がなされている。咄嗟のドライバーが進路を迷わないような配慮だ。

 写真左に写るコンクリートの大擁壁の裏側が、旧道の入口である。




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 石部海上橋と、その建設の経緯


13:35

 石部海上橋と石部隧道の間の僅かな区間の海側に。車十台程度が停められる駐車スペースがある。
月曜日の日中だというのに、随分多くの車が停まっていた。
そして、その主たちは皆揃って車から出て、東の方角へ向けた望遠鏡を覗いているではないか。
彼らの見ているものは、どうやら富士山のようである。

 これから私は、おそらく彼らが想像していない奇行(旧道への侵入)に走ることになるが、気にしないで欲しいものである。
私は彼らとは反対側の駐車場の隅にチャリを停めてから、まず海上橋の上へ歩き出した。




 橋の袂まで行くと、早速旧道の姿が見えてきた。
その異様な光景に、目が釘付けとなる。

 まず目に入ってきたのは、非常に短い洞門と、とても長い洞門。
奥の長い洞門には、ここからでも立派な扁額が見えた。

 これがターゲットだ。

昭和46年7月5日まで使われていた、旧国道150号である。
旧道は、同日突然に発生した土砂災害によって一撃で通行不可能となり、それから二度と復旧されずに今日を迎えている。
翌年7月にこの海上橋が開通するまでの丸一年間、国道は全面通行止めとなった。





これは、人間が自然に屈服した姿なのか、それとも勝利の姿なのか。

おそらく、土木技術者たちは後者だと言うだろう。

私もそう思う。


だがこの光景は、人がどんな高度な土木技術を手にしても、絶対ではない。
驕ってはならないということを教えているように思われる。


「静岡県土木史」を引用しながら、ここで37年前に起きた事故を振り返ってみよう。




 昭和46年7月5日朝、山腹斜面に大崩壊が発生し、第5洞門101mの一部42.5mを圧潰、29.8mがひずみ、通行中の乗用車1台が埋没し1人の尊い犠牲者を出した。

 崩壊面は高さ100m、幅45m、傾斜角60°と急峻広範囲におよび、崩壊土砂量は6000立方メートルと推定されている。

 この場所での土砂災害は、十分管理側も予期していた。
いわゆる“人災”ではなかったと、そう思いたい。

 …このような地形・地質から落石が絶えず、交通の安全確保に苦慮し、従前から法面の崩落防止用吹付け、落石覆、コンクリート洞門および海岸侵食防止用根固等、各種の防災工事を施工してきた。
圧潰した第5洞門は、昭和44年度に、道路災害防除事業で施工したもので…

 というように、それなりの安全対策を講じていた。
右の図は当時の記録から再現したもので、石部隧道付近の約600m間にはほとんど明かり区間はなかったことが分かる。
特に、洞門ごと破壊されて犠牲者の出た第5洞門付近は、3つの洞門が隙間無く連続するフルカバードな道だったのである。

 今回の崩落は、防災工事として実施した法面吹付工の上方約50mの高さの範囲から滑落したものであるが、法面工による風化防止及び崩落防止は効果的であったと推定される。

 …としており、対策は講じながらそれを遙かに超える大災害が発生したことへの悔しさを滲ませるような表現(悪く言えば負け惜しみ)となっている。




 この予想を超える大崩壊を受け直ちに、災害発生当時も施工期間中であった「道路災害防除事業」に「災害復旧事業」を加えた合同事業として、海上橋建設による旧道の部分的破棄を含む抜本的改良が決定されたのだ。

 計画段階では、最も安全性の高い全長1kmに及ぶ海上橋建設も真剣に検討されたようだが、予算や工期の都合により橋は360mと決まった。
これに現道の改良部分261mを加えた、合計621mの新道が建設された。

 昼夜兼業の工事によりわずか着工から1年足らずで出来上がった海上橋は、1スパン40mのPC単純T桁を10連組み合わせたものである。
また、再開通後も石部隧道やその前後の洞門の改修工事が進められて、遂に現在の姿となったのだ。




 そもそもこの海上橋を設置した理由は、落石の影響を避けるためである。しかし、激しく墜落する土砂は斜面を跳ねるので、海岸線すれすれに橋を架けたのでは意味がない。また、余り海上に張り出して建造するのも無駄である。
本橋は旧道路肩から60mの沖合に設置されたのだが、この「60」という数字を算出した根拠が興味深いので、「静岡県土木史」より抜粋して引用してみよう。

  1. 落石は、初期段階では、地山を滑落する。
  2. 次の段階で転落する。
  3. 1および2の段階での初速の損失は高度換算20mとする。
  4. 落下高−20mの高さで、岩石を水平に位置転換する。
  5. 空気その他の抵抗を全て無視する。
  6. 岩石は自由落下する。
  7. 地山に衝突した岩石は、水平から−30°間で跳ね出す。
  8. 地山と落石の反発係数をKとする。
  9. 地山の傾斜角を60°と仮定する。
以上の解析から次の算式が成り立つ

 …(数式ずらずら)…

 計算の結果、路肩から40m程度海上に出せば安全が見込まれる。これは今回の(大崩落時の)最大飛距離38mに略一致する。
但し、K値によっての変動が大きいため、さらに20m沖合に設置し、より安全を期することとした。

 …というわけなのである。

 また、海上橋梁のノウハウが乏しい時代だったこともあり、橋脚など下部工の設計についても様々な解析を経て慎重に行われていたようだ。
相手は太平洋の大荒海。設計上耐えられる波の高さは5.5mという凄まじいものとなっているし、海面からは見えないものの、橋脚は高い人工の土台に埋め込まれている。




 少しばかり“アタマぽっちゃり”になったところで、オブローディング実務の始まりだ。

この旧道区間、目立つ割にネット上での侵入報告も多くない。
それは言うまでもなく、外見が余りに禍々しい為であるが(この写真の範囲は、まだこれでもニャンコだ)、物理的に踏み込みにくいと言うこともある。
特に、西側は現道の平面と完全に途絶されているので、少し面倒だ。




 まずはこの、現道と旧道とを完全に隔てる巨大な擁壁を、迂回しなければならない。

夏場はここで早くも詰まると思うが、今回は時期が良かった。
首尾良く擁壁の肩の低いところから、その裏側。失われた旧道敷きへ踏み込む。
なお、写真では向かって左が現道。右が旧道敷き。
ここで接合していたのだが、完全に隔てられている。




 壁を越えてもすぐに車道の跡が現れるわけではない。
人為的なものか或いはこれも災害なのかは分からないが、一帯は急斜面に呑み込まれ、照葉樹が生い茂っている。
その中に僅かばかりの踏跡があるので、辿っていく。
距離はない。



キタァ──!




 石部第二洞門だ。

光の加減で写真では読み取りにくいが、コンクリートに右書きで深く刻まれた銘板は、良く現存している。
埋没寸前という状況のため、手に触れて確かめることさえ出来る。
辺りは現在も崩壊が進行しているようで、自然埋没の危機にある。
記録によれば、本洞門は昭和18年の竣工で全長11m。
一連の石部洞門群の中で、第一と並んで最古の構造物だ。



 洞門坑口前から、海上橋を見る。

彼我の間の旧道敷きは、完全に消失していた。
繰り返しになるが、夏場はよりアクセス困難となろう。




 隙間から洞門内部に侵入。

構造物自体が小さく、例の災害現場からも少し離れているせいか、内部はさほど荒れてはいない。
コンクリートの表面も目立つ破損は少なく、この立地でなければ現道として存続しえたと思う。
ただし、両側坑口部はかなり土砂に埋没している。
私が侵入した西側が9割。東側も4割ほどは埋まっていた。





海風が、垂直にそそり立つ巨大な擁壁にぶつかって、激しく乱流している。

片側は海に向かって完全に解放されているというのに、少しも開放感のない道。

2本の洞門に取り囲まれた、28mの明かり区間。



人命を呑み込んだ崩落現場は、次の洞門の向こうにある。