7:45
起点は、旧稲川町の岩城にある。
一般県道307号(稲庭高松線)とのご覧の分岐地点が、本県道の起点である。
行き先は、路線名からすれば「関口」や「湯沢」と欲しいところだが、例によって「宮田」と、同じ旧稲川町内の大字が表示されている。
それでは、このT字路を直進して、レポを開始する。
とその前に、この起点のT字路には、いくらか見るべき物がある。
まずは、秋田県内での県道探索では欠かせない「起点ポスト」である。
そこには、「起点 稲庭関口線」と確かにペイントされていた。
なお、東北6県では県道の起終点ポストや1kmごとにキロポストを設置しているのは、秋田県だけのようだ。
むろん、設置率は100%ではないものの、統一されたデザインのポストが多くの路線に設置されており、県内での県道探索に花を添えている。
また、この起点には、立派な石碑も残っている。
碑文はカタカナ混じりの漢字の羅列で、「岩城橋」の竣功を顕彰する内容である。
建立は、昭和9年と刻まれており、岩城橋の竣功と関係が深いと思われるが、現在の岩城橋はこの時の橋ではないようだ。
これが、T字路を右折したその場所にある岩城橋。
現在は、一般県道307号(稲庭高松線)の橋であるが、碑が建てられた当時は、県道稲庭横堀線と呼ばれていたようだ。
橋は、いくつもの橋脚を繋ながら皆瀬川を跨ぎ、真っ直ぐ対岸の稲庭集落や国道398号線に続いている。
では、実際に県道279号線へと入る。
起点のT字路では、現在(2005年9月時点)拡幅工事(おそらく右折レーン工事)が行われていた。
そこを過ぎると田んぼの中を2車線幅だがセンターラインの消えた道が真っ直ぐ続く。
そして、再び行く手に「通行止」の予告が。
どうやら、当座の目的地である「宮田」まですら、今は行けないらしい。
工事中とのことであるが、とりあえず先へと進んでみる。
そこそこ広かった道は、沿道一つめの集落である下川原の入口で、突如として、とびきり狭くなる。
起点から1km地点だ。
将来的には、民家の敷地を割譲し拡幅するか、田んぼを壊してバイパスすることになるのだろうが、何年も前からここの様子は全く変化がない。
ちょうど集落の始まりと終わりには、目立つ大きな火の見櫓が建っていて、袂には木造のポンプ器具置き場がある。
この辺りも、いかにも懐かしい光景だ。
まさに軒先を借りるようにチョロチョロと走っていく県道。
こんな有様でも、所々の路肩には、お馴染みのデリニエータに「秋田県」と記された物が設置されており、県道であることを主張している。
ちょうど朝のラッシュ時のレポだが、この先に工事中の場所があるせいか、まったく車通りはなかった。
写真の行く手に見えている緑の山は、次の大久保集落との間を隔て、皆瀬川に張り出した障害物である。
工事のため通行止めなのは、ちょうどこの山だ。
ふたたび火の見櫓を過ぎると、道は少し広くなって1.5車線。
集落を隔てる上りが見えてきた。
すぐに上りは終わり、平坦になる。
しかし、この坂の途中でこの日は通行止めの柵が設置されていた。
前年に通ったときは全く何の問題もなかったのだが、一体何が?
先を見る前に、ここには少し目を引く物がある。
写真左の岩場に注目。
なんか、穴がありそうでない?
そう、あるんです。
穴。
しかし、これは水路用の穴。
この写真の背後の岩場にも、同程度の穴が空いており、水路隧道は二つ連続している。
二つの隧道の僅かな隙間から、写真のように水面が見えるのだ。
どちらの隧道も完全に素堀で、奥行きはそれぞれ5mほど。
この堰、かなり歴史が深い。
なんと、慶安3年(西暦1650年)より着工され、元禄14年(1701年)に完成したもので、起工者の名をとって与惚左右衛門堰と呼ばれている。
おおむね県道に沿って8kmほどの延長を持っている。
県道は小さな山越え区間なのだが、ここの通行止めの原因は河川改修だった。
皆瀬川の河川敷と、そこに上久保集落から流れ込む支流の両方を、工事していた。
お陰で、県道はこの有様。
約100mほど道がない。
県道をこんな豪快に破壊しているのに、なんだか急いで工事している気配がない…(午前8時だというのに工事は始まっていない)、はっきり言ってもう数年は復旧しそうもない。
まあ、川を渡った対岸には国道や高規格農道など、十分な交通網があり、また対岸に渡る橋も十分にある。
そもそもが、あんまいらない道なんだな…。
さすがに強烈に県道敷きが消失しているだけあって、何重にもフェンスがあり、チャリを通すのにも難儀した。
幸い、人の目もなく、速やかに任務を遂行。
上久保集落(起点より2km)に到達したのである。
こちらの河川工事は、だいぶ出来上がっている。
県道の橋の、立派な物が出来上がりそうだった。
そして、ここで初めて行く手に、特異な形の山が現れた。
私の最近ファットアップされてきたお腹の形にもよく似た、“ぽっこり”山。
「おちょうしないだけ」だ。
8:00
おおきめのニャオ〜ンに出迎えられつつ、上久保集落へ進入。
なんだか、えらい気品漂う姿だ。
再びもの凄く狭い道が始まるのだが、その路肩というか、明らかに道から1m以上も外れた草むらのなかに、異様な物を発見。
いちおう標識のようだが…。
警笛ならせの標識に見える。
しかし、かなり小さい。
確かに市街地の歩道などで、このサイズの標識を見かけることはあるが、こんなに変色していないし、そもそもこの標識は何で出来ているのだろう?
お手製のものかもしれない?
とりあえず、チャリのベルを鳴らしてみた。
上久保集落内には、県道が一時停止で止まらねばならない交差点がある。
しかし、この交差する道、町道である。
しかも、行き止まりの。
ただ、町道は左折はすぐ行き止まりだが、右折は皆瀬川を渡る橋に続いている。
やはり、この辺りの集落にとっても、重要なのはこの県道ではなく、対岸の国道に渡る町道なのだろう。
一抹の寂しさが…。
上久保集落の出口にも、またも大きな火の見櫓が。
例によって、櫓によって道は著しい屈曲を強いられている。
ここを過ぎると、再び2車線の田園快走路が始まる。
夜間など、反対側から高速で突っ込んできた車は怖い想いをしそうだが、特に速度制限などの道路標識もなく、長閑だ。
この500mほども続くストレートの始めの方に、2kmポストがある。
集落内は狭いが、集落を出ると広くなる。
少し前までは至る所の県道や、国道さえもこんなパターンだった。
しかし、重要な路線からバイパス化や拡幅が推進され、今やここまで正直にこのパターンを再現する道は少ない。
やはり、懐かしさのこみ上げてくる道だ。
単調なストレートを抜けると、再び変化に富んだ景色が。
皆瀬川の河岸段丘上にある宮田集落へ入るため、急に上りが始まる。
そして、この上り始めに、本県道の旧稲川町側では唯一の、ヘキサ(県道の標識)がある。
さらに、この上りは、またしても「懐かしさ」を私にもたらした。
特に、あの細田氏は好きだと思うな。
彼、普段から「街並みにとけ込んだ坂が好き」と言っているからね。
どう、良い坂でしょ?
人工的な掘り割りを使って登っていくのだが、その両脇は苔むした玉石の石垣。
よく見ると、2段になっている。
頭上に張り出したぶ厚い葉っぱたちに空を隠され、坂全体が日影だ。
読者の皆様の多くが小学校、あるいは中学への通い道に、こんな場所があった覚えがあるのでは?
私は、あるなー。
よく石垣に登ったりしたっけ…。(横浜に住んでいた頃の話だ)
坂を上から振り返る。
地形は人工的な物であることがここからも分かる。
しかし、とてもよく風景に馴染んでいる。
おそらく、昭和初期、あるいはもっと古くに築造された道なのだろう。
道は何度も上り下りしているが、平行する与惚右衛門堰のほうは山肌に水路を築いており、等高線の通りだ。
なみなみと水を湛えた堰と坂の間に、いくつもの古碑が建ち並ぶ一角を見つけた。
ミニ観音像のようなものから、お馴染みの庚申碑(珍しく「庚申供養塔」と刻まれていた)、そして与惚右衛門堰の経緯を記した巨碑など様々な碑が一同に。
このように由来の異なる碑がまとまっているというのは、おそらく道路工事か何かで移設され、まとめられたのだろうな。
そのなかにひとつ、「二十三夜塔」(写真では左から2番目の碑)と言うのが、目新しく思った。
少し調べてみると、江戸時代に盛んに行われた「二十三夜講」と言う風習によるものらしい。
これは、毎月の旧暦15日、16日、22日、23日などの夜、月が昇るのに合わせ勤行や飲食をした月待ちの儀式で、女性に多く講ぜられた。
しかし、明治に入り風習自体が廃れそうだ。
また、東北地方ではあまり見られない物のようである。(関東や長野県が中心)
なんだか最近、民俗やその証しとしての石碑に興味が湧いてきた。
坂の登り切ると、いよいよ起点にあった青看が記していた目的地、宮田集落(3km地点)である。
堰と民家の生け垣に挟まれた、極狭い舗装路が県道である。
ここで、初めて対向車が来てしまい、チャリなのに離合に苦戦した。
その狭さが分かろうというものだ。
背景にいよいよその存在感を増したのが、ポッコシ山こと、おちょうしないだけ。
宮田集落内の県道の様子。
おばあちゃんの手押し車…。
我が子の登校風景をカメラに納める若い母親。
木陰や路地といった、休憩場所が随所にある。
これぞ、生活道路。
大型車は通れないけれど、車同士の離合も出来ないけれど、これぞ、暮らしの道だ。
…なんてな、住んでいる人にはやっぱり安全なバイパスが熱望されているのだろうな。
田舎道には欠かせないアクセント、手書きの標語も、もちろん健在。
内容も、にじゅうまるをあげたい。
こんな狭い道では、スピード出ませんから。
語尾の置換が効いた一品です。
さあ、いつまでも黄昏れてはいられない。
道路レポの本番、
通行不能区間へと、いざ左折!
地図を片手にこないと、絶対にここは左折できないだろう。
一切標識はなく、まるっきり目立ってない分岐なので。
しかし、山越えに続く道は、ここを左折なのだ。
とにかく、何はなくともここは左折。さあ復唱して!
ここ以外を左折しても、なんだかよく分からない場所へ連れて行かれるぞ。
8:10
左折してみると あら驚き、綺麗な道が一直線に峠へ続いている(ように見える)。
確かに、道はいい。
センターラインこそ消えているが、2車線十分な幅がある。
そして、ここには3キロポストがあり、間違いなく県道である。
去年初めて来たときには、このまま抜けてるのかと思った。
しかし、なんだかとても寂しい。
余りにも、人もいなければ車もいない。
心なしか、峠も遠く見えるし。
おちょうしないだけ。
漢字では、雄長子内岳と書き、海抜470mの山だ。
湯沢市や旧雄勝町などのある国道13号線の通る雄物川筋と、旧稲川町や皆瀬村のある皆瀬川筋の間を隔てる山脈の中では、東鳥海山(778m)についで、二番目に高い山だ。
しかし、その姿の特異さから、存在感では一番であろう。
県内をテーマにした登山ガイドには、隠れた名山として大概紹介されているが、山頂に立つためにはかなりハードな上りがあるらしい。
ここから見ても、そのピラミッドのような山容は、明らかに険しい。
しかし、イイ形してる。
パイオ… い、いや…
こんな山が近くにあったら、故郷って一段と愛おしく思えるんだろうなっ。
左折から500m。
起点からは約3.5kmで、舗装は終わる。
と同時に、峠への上りは始まる。
果たして、ポッコリ山の峠を越えることは出来るのか?!
懐かしい郷の景色から、ハードな山岳への急転直下!