道路レポート
国道113号旧線 八ツ口 後編
2004.6.10
藪突破?
2004.5.12 15:30
いたたたたたた。皮膚が何カ所も切れて血で滲んでる。 藪漕ぎでの流血は全然珍しい事態ではないが、またしても藪め、私のタマの肌に傷を!
わざわざズボンたくし上げてなぜ写真を撮っているのかと思われるかも知れないが、ずっとズボンはこの状態であった。
スノーシェードから200m程度は進めただろうか?
時刻は15時半を回った。猶予無し。
出口までは、あと5・600mと思われるが、またこれまでの様な藪が現れたらヤブイ。(チュマンネー)
藪が途切れたのは、ほんの13mほどであった(計ったのかヨ)。
なんか、藪をレポしているときのテンションが高いのではないかというご指摘も頂いたが、その通りである。
藪などという
極めて不快な場面
を冷静にレポできるのは、人間が出来ている。
私には無理だ。
「くそっ、藪め! 俺の快適な旅路を返しやがれー!!」
などという怨嗟の叫びを発しながら藪に挑む私が、藪について語るためには、自虐的な笑顔が不可欠なのだ。
藪などという
下らないもの
に挑んで傷だらけになる、ツマラナイ男がヨッキれんである。
「藪を超えてでも行く価値がそこにあるのか!」
もしそう問われたなら、迷わずこう答えただろう。
「一度引き返して行く場所は、同じ場所に見えて、違う場所だ。」
「そこは、引き返した者が辿り着く場所だ。」
私は再度奇声を発し、あの橋(現道合流点の八ツ口橋だ)を目指すのだ。
廃道ハードボイルド…。
…カッコワル。
もう5月も半ばだというのに、巨大な雪渓が道路上に残っていた。
ここは海抜1000mか? 或いは、500m?
正解は、僅か100mである。
ここでの荒川は、蛇崩山(海抜530m)からストンと直角に落ちている。
この場所なども、雪渓の上を見上げれば殆ど垂直の壁が山頂まで続いている。
こんな場所に道が長続きしなかったのも、当然のことだ。
で、道路の下はと言うと、こちらもやはり救いのない断崖である。
この写真の場所には、一面に春先の山菜が芽吹いていた。
先ほどまでのクソ藪と同じ道とは思えないが、僅か10m離れただけでも季節が一ヶ月は違う。
それもみな、極めて急峻な地形が作り出した現象である。
雪渓の傍らには、今やっと春が来ているのだ。
東沢橋
15:35
際限なく険しくなっていく山肌に、遂に道は「橋」という逃げに走った。
しかし、その橋が落ちてさえいないなら、廃道に苦しむ者にとっても橋の存在は福音になる。
なぜならば、基本的に橋の上は藪が薄いか、もしくは…。
このように、クリーンだからだ。
この橋の出現には、スノーシェード以上に衝撃を受けた。
これによって、ほぼこの道が旧国道だろうと確信を持った。(実際に新国道だったと後に関川村役場に確認済み)
この橋の広さ、欄干の珍しい形、橋が架かっている場所の険しさ、周囲の景色。
写真や文章でお伝えできる内容は限られていることが、大変に惜しい。
この場所の独特の空気は、衝撃は、忘れがたいものであった。
自分で思いがけず発見したのだという喜びも、その印象をより濃くしている。
まさか、現国道の対岸に、斯様な道が隠されているとは…。
そして、その感動は、私が初めてではなかったらしい事も、欄干の落書きに知った。
欄干は、近年見ることの無くなった、金属製且つ標準のガードレールとも全く違うタイプである。
これは、デザイン的なチョイスなのか、この橋にはどうしてもこれが必要だったのかは分からない。
汚れや錆を全身に纏いながら、なお気高い白を新緑に映やす欄干は、この廃橋の景色を格別のものに昇華している。
いまとなっては、その欄干に刻まれた幾人かの悪戯書きすら、人恋しい気にさせるほどの廃道の有様である。
落書きは皆、湖側の欄干にのみ刻まれていた。
対岸に穏やかな家並みを見せる八ツ口と、それを眺めている私の背後の景色は余りにも異なる。
スクリーンを通して、何処か別の世界を見ているかの様ですらある。
丁度、西日が対岸のみを照らし出していることも、その印象を強めている。
刻まれた文字は、「川上」 「朋広」と言った人の名前に加え、年号らしき数字もある。
「43.3.14 PM4:44」 …これは?
多分、彼が訪れた日時だろう。
昭和43年か。
…かなり古い。
そして、意味深なゾロ目の時刻。
もしかしたら、何か都市伝説的な謂われがあってここに来たのかも知れない。
また、その傍にはこうも刻まれていた。
「またきたよ S56.5.23」
この言葉、女性のものかも知れない。
昭和56年…私が子供の頃には、結構気軽に訪れることも出来る旧道だったのか。
他にも、幾人もの名前が、みな湖面へ向かって刻まれているのだ。
そこには、二人の名前を「AND」と言う文字で繋いだものもあった。
私の想像力が色々な、忘れ去られた都市伝説をイメージする。
恋人同士、午後4時44分に、この橋から湖に向かうと、結ばれる…。
昭和40年代から、遅くとも50年代半ばまで、その様な話がなかっただろうか?
場所は、ご覧の場所。
この橋の正式な名前は、実は分からない。
この後に登場するもう一本の橋と対比して、こう名付けているまでだ。
或いは、ここは歴史ある、新潟廃道マニアたちの聖地だったか?
この橋の上だけは居心地が良かったが、前後は鬱蒼とした藪であり、全く予断を許さない。
逃げ道がないことは、先ほどの湖面の写真などからも、皆様きっとご理解頂けたと思う。
写真は、新潟側から振り返って撮影。
橋から眺める沢の様子。
よくもまあ、こんな場所に橋を架けたものである。
私にとって、一生忘れられない橋になったのは間違いない。
西沢橋
15:38
東沢橋を渡ると、再び藪が勢いを取り戻した。
もはや、臑の皮が削がれることを気に留めている猶予はない。
こんな皮はいくらでも再生するし、痛みも一時のものだ。
強がりを言っているのではなく、長い藪漕ぎの末に辿り着いた、境地である。
誰に話しても、羨ましがられると言うことは決してない、境地だが。
チャリに跨がれないストレスゾーンが続く。
一連の廃道区間で高度的にはここが最高度であった。
路肩が激しく抉られている谷の底には、まるで海の様なブルーの水面がある。
その水面までは約40mほどの高さ。
チャリを押して狭い崖際を往くときのスリルの大きさは、崖の高さに比例し、残った道幅の2乗に反比例すると言う法則が、ある。
(嘘だけど)
また延々と藪漕ぎかと思われたが、意外に早く救いの手はさしのべられた。
とはいっても、念願の脱出ではない。
再び橋が現れたのだ。
今度の橋は、また先ほどのものとは様子が大きく異なる。
東沢橋が「空」を、この西沢橋が「森」を表現している。
上の写真には、鋭角な“へ”の字型に折れ曲がっている標識の支柱が、橋の袂に写っている。
右の写真は、これに接近した様子だ。
への字の折れた標識の先端は、枯葉の積もる地面に突き刺さっている。
大地に対し、深く敬礼しすぎたのか。
先端から外れたままの標識部分も、半ば埋もれながら残っていた。
当然、死に顔を拝見する。
死に顔拝見!
死んでますなこりゃ。
死後20年余りと言ったところでしょうかな。
死因は、落石が胴体を直撃したことでしょうな。
落石にはもっと注意しなければいけませんよ。
仏さん。
この橋の名は、親柱から正式に知ることが出来た。
「西澤橋」と御影石に陰刻されていた。
また、幸いにして他の親柱も健在であり、竣工年度が判明した。
これは、大変に嬉しい収穫であった。
西沢橋、竣工昭和13年10月。
現在の国道は、2本の橋をもって二度荒川本流を渡る事により、この断崖絶壁を完全に克服している。
旧国道がいつまで使われていたのかは分からないが、むしろ最初から現道のコースを選んでいれば、今でも小さな改良だけで使われ続けていたかも知れない。
結局、大きな橋で荒川を渡ることが出来なかったために、やむなくこの断崖に道を刻んだのだろうが、数十年で廃道となってしまった。
昭和42年の羽後大水害も関係しているのだろうか?
橋の袂から、崖にへばり付いて無理矢理橋の全景を撮影したのがこの写真。
橋が渡るのは沢ではなく、沢に入り込んだ湖面である。
構造は、いかにも古くさいコンクリートアーチ。
秋田近縁では、岩手県との県境を越える平和街道の旧道や、雄勝から秋の宮を通って宮城県へ通ずる国道108号線の旧道などで良く同型の橋を見る。
いずれも、昭和初期の道だ。
今回のベストショット。
西沢橋の眺めだ。
橋上に残された楽園を味わいながらも突破。
いよいよ谷に西日が注ぎ始めた。
夕暮れが近いと言うことだけでなく、道が、谷が、西向きになったことを知った。
それは、いよいよ合流点が近いだろう事を意味していた。
印象深い道にも、終わりは来る。
…早く来い。
早く脱出して村上駅へ直行せねば、私のローソン人生は終わりかねない。
脱出!
15:44
距離感はとうに失われていたが、やっとチャリに跨がれる様な下り藪となった。
橋以外の場所は、スノーシェード以降ここまで、約800m、ほぼ全滅だった。
要した時間は、25分。
体の傷を厭わずペースを上げたお陰で、極藪にしてはまずまずだ。
チャリの駆動系にまとわりついた植物の残骸を引きちぎり、勢い付けて進む。
で、やっと舗装路出現。
ここの傍らには、天然ガスのパイプを通すためのトンネルが、頑丈な扉に塞がれた坑門を見せており、ここから先現道まで100mほどの旧道が舗装されているのは、ここへのアクセスのためだろう。
ガストンネルの延長は、銘板に因れば1500mだそうだ。
入れないが。
簡単なロープゲートを一基突破して、やっと現道に合流。
15時46分だった。
その場所は期待通り、八ツ口橋を越えたすぐ先だった。
ここから、車の流れに乗ってヒタスラに村上を目指したのだった。
八ツ口の旧道はこれにて終了。
知られざる難所は、時として地図上に何食わぬ顔の点線として描かれている。
そもそも、点線にチャリを持ち込んだのが、馬鹿なのだが。
今更いいっこ無しで。
完
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