国道121号線 大峠道路及び大峠   その4 
公開日 2005.11.16



 超ひも理論的 大峠峠道
 2005.9.24

4−1 第1ヘアピン群 


 まずは、右の地図を見て欲しい。

 現在地は、図の最も下端の、赤字の「1」の数字のさらに下の辺り、田付川を渡る橋の手前である。
福島側唯一の通行止めゲートを過ぎると、すぐに、この図に示された九十九折りが始まる。
1番から12番まで、12のヘアピンカーブで構成されたこの部分を、便宜上「第1群」と呼ぶことにする。
この第1群は、延長は約2km、高低差は100mほどである。

 

 私がこのレポの最初にもの凄く大きなフォントで、「大峠」と書いて見せたのを覚えているだろうか。

在り来たりなネーミングであるこの「大峠」が本当に大きいと言われても、なかなか土地勘のある人でないと実感が湧かないかも知れないので、その大きさを示す次の地図も見て欲しい。



 その大きさ、実感していただけただろうか?



 「第1群」は、あくまでも大峠の上りのうちでは、これでも前哨戦である。
12のヘアピンカーブを持ってしても、それはただの前菜に過ぎないのだ。
その先に待っているのは、第2から第4までの、さらに規模の大きな九十九折りである。
特に、第3・第4群については、図が見にくくて仕方がないと思うが、ご容赦いただきたい。
もはや、地図にも記しきれないほどの密なカーブなのだ。
(この地図を別ウィンドウに開きますと、この後のレポの位置関係が分かりやすくなると思います。→別ウィンドウで地図を開く




10:13

 まずは、眼鏡橋(昭和22年竣功)という名の、至って普通なコンクリート橋を渡る。
この橋を渡り、田付川の右岸に取り付くところから、大峠の超絶ヘアピンカーブ群は、始まりを迎えるのだ。

 なお、この橋は、確かに明治に建設された当初は眼鏡橋だった。
つまり、石造アーチ橋であった。
しかし、昭和の改修にあたり、貴重な石造アーチ橋は撤去され、現在の橋に代わっている。
当時のアーチ橋の姿は、高橋由一という画家が石版画として残しているものを今日も見ることができる。

←(参考画像
「耶麻郡入田付村新道ノ内字根子屋ノ谷ニ架スル石橋ヨリ北ニ大峠地方ヲ望ム図」福島県道路風景画帖より転載)

 橋を渡り、やや厳しい勾配を右に谷筋を見ながら登ると、すぐにヘアピンカーブが現れる。
これが、81箇所もあると言われている、大峠のヘアピンカーブの、その1である。

 カーブの入口の手前には、カーブ注意の警戒標識や、警笛ならせの指示標識が存在するが、いずれも路傍のクズの海に飲み込まれつつある。
また、通常は幅6mほどの道幅もヘアピンカーブの外側については可能な限り広げられており、カーブミラーも設置されている。
平成4年までは現役の国道だっただけあり、それなりに整備されているというのが、私の初めの印象である。
簡単に言えば、さすがは国道と言うところである、狭いなりにも仕事はしている。



 今回、山行がではチャリの低速性を活かし、大峠(福島側)の全てのヘアピンカーブを撮影する。
という、どーでもイイ命題にチャレンジしている。
読者の皆様も、この後読み進めていけば、もれなく大峠(福島側)の全ヘアピンを把握できることだろう。

 とりあえず左の写真は、それぞれ、2番から9番までのヘアピンである。



ハッとした。

すげー。ぶっ飛んでる。

三島、ぶっ飛んでる!
やっぱ、すげーよ三島ぁ!

私の脳内には、初代山形県令「三島通庸」という人物が、当時の地図の上に不気味なニヤニヤ笑いをしながら、自分の好きなようにヘアピンを描いている様子が、チラッと浮かんだ。

奴は、相当に濃い、道路マニアだったのだろう!
死後1世紀以上を経た今、これだけ多くの新世紀オブローダー達を虜にするのは、奴が、道というものに、なにやら常軌を逸した拘りと愛着を持っていたからだと考えて、何か間違いだろうか。いや間違いではない!



 10番から12番までのヘアピンを卒なくこなし、とりあえず第1群は終了となる。
な〜に、このくらいでねを上げているようでは、絶対に峠に立つ前にいっち・いっち・いっちまう!
(作者がなにやらテンション上がってますが、とりあえず読者もテンション下げないように。)
 

 今終わったばかりの第1群を見下ろしつつ、大峠の高みを目指し道はさらに奥へと進む。
第1群の効果は覿面であり、一挙に谷底から100m近い高度を稼いだ。

 

10:29


 少し進むと、路肩が崩落している箇所に遭遇した。
とりあえず、現時点では4輪の車も通れる幅が残っているが、厚さ20cmほどのアスファルトの下を覗き込んでみれば、さらに崩壊が進むのも時間の問題と思われる。
このまま放置されれば、数年以内には、大峠隧道から4輪車が完全に排除されることだろう。

 

4−2 大曲の難所 泰次郎岩 

10:33

 第1群と第2群の間は、約2.8kmの道のり。
ここには、5つのヘアピンカーブがそれぞれやや間隔を置きつつ存在している。
区間の高低差は、海抜650mから800mにかけての150mほどだ。
ヘアピンカーブの数は多くないが、勾配という点では、なかなか厳しい区間だと言える。

 この区間の前半には、スパンの大きなS字カーブ(13番と14番のカーブ)がある。
直線部分について、夏草の路面侵入によってその道幅が狭いところでは2mほどとなっているが、元々の道幅も一般に言われている6mではなく、明治期と同様の4.5mのままの場所もあるように見受けられる。



 とはいえ、可能な場所では道幅は自動車同士が離合できる幅となっている。
法面の施工についても、主にコンクリートブロックや、コンクリートの吹きつけといった、近現代の代表的な施工法によっている。
しかし、カーブの外側など、明治期から拡幅されていないような場所には、谷積みされた石垣が残っていたりもする。
思えば、明治17年の三島による開通から、昭和10年の車道改築を経て平成4年に旧道になるまでの104年間、主たる道の線形に変更はない。
これは、例えば同時期に建設された「万世大路」が昭和40年代初頭に棄てられた事と比較しても、あるいは他の三島の関わった明治期の峠道と比較しても、特異に長い現役生涯だったと言えるだろう。



 参考までに、三島の拓いた山形県及び県境部の主要な峠と、その車道改築年度、並びに廃止年度をまとめてみた。

峠名道路名開通年度車道改築廃止年度現役期間
大峠国道121号線M.17(福島側)S.12H.4104年
栗子峠国道13号線M.14S.10S.4185年
関山峠国道48号線M.15S.12S.4386年
雄勝峠(杉峠)国道13号線M.15S.30S.3073年
主寝坂峠国道13号線M.15S.34S.3477年
宇津峠国道113号線M.19S.42S.4281年
上の写真は、13.14番の各ヘアピンカーブ。


10:43

 そして、明治の工事で難所だったと伝えられているのが、この「泰次郎岩」といわれた場所である。
現在の地形図には「大曲」という地名がこの一帯にわざわざふられており、曰わく付きの土地であることを伝えようとしているかのようだ。

ただし、作者の努力不足もあり、具体的にどのような“難工事”を強いられた場所なのかは、調べが付いていない。
また、現地ではここがその難所であるということに気がつけなかった。
これは、昭和の改築によって、明治当時の状況からは大きく変化していることを意味するだろう。

  ↓(参考画像
「耶麻郡入田付村新道ノ内字泰次郎岩ノ図」福島県道路風景画帖より転載)
 当時の絵図も、道の線形自体は現在と変わらないように見える。
(道の左に法面があり、右には谷、谷を挟んで対岸上部にこれから登っていく道があるという構成は変わらない。)
ただ、元々はもっと巨大な岩場が道にせり出していたのだろう。
また、開通当時は斜面の木々も伐られており、より見通しが利いたのだ。


 泰治郎岩の一帯は、田付川の支谷が形成する大きな括れを巻きつつ、同時に高度を稼ごうとしたカーブ群であり、単純な九十九折りではない立体的な構成となっている。
その内容は主に三つのヘアピンによっており、左上の大きな写真が15番、左の小さな二枚が16番17番となる。
このあたりも常に8%程度の上り勾配が続いており、一向に手綱がゆるむ気配はない。



4−3 第2群


10:52

 海抜800mから850mにかけて、約1kmの九十九折りについては第2群と命名した。
そこには、18番から23番までのヘアピンカーブがひしめいている。

 すでに、麓の最終集落からは5km以上登っている。
海抜もいよいよ800m台に突入し、この日の空模様では予想の付いていたことではあるが、完全に道中は雲に入り、眺望を奪われてしまった。
このあたりからは、今登ってきた田付川の谷間に豊穣な会津平野を見晴らすことが出来ると想像されたが、残念無念、私と三島の一騎打ちに心を和ます景色などというのもは用意されていないらしい。




 路肩が危うくなっている箇所に遭遇。
路肩側のアスファルト1mほどが、山側から亀裂によって切り離されてしまっている。
その亀裂は、進行方向に10mほど、幅は広いところで30cm以上、亀裂を挟んだ高低差も20cm以上ついている。
しかし、こんな状態になってもなお車で通る者もいるようで、私もこの日上りの最中で一台のSUV車が往復しているのに出会った。


 何者かによって、亀裂を埋めるように砂利が敷かれ、さらにそれでも段差を埋められない場所には、よく民家の駐車場などに見られるスロープが設置されていた。
これなどはおそらく、熱心なファンによる無償奉仕なのだろう。
今もって一応は国道指定を受け続けている道であることを考えれば、なかなかあり得ない、乙な補修方法だと思う。
県や国による管理は放棄されているに近いが、この山中の山菜資源を収穫するためのの唯一の道として、また近在の山中にある高圧鉄塔への保守用道路としても、道が消滅しては困る人間は少なからず居ると言うことのようだ。



 いままででも、もっともヘアピンカーブらしいヘアピンといえば分かり易いだろうか。

アウト側が非常に広くなっており、車同士の行き違いや、大型車の通行の便宜を図っていた形跡がある。
カーブミラーも多くのヘアピンに設置されているものの、損壊しているものも少なくない。





 19〜23番のヘアピンカーブ。

個々のカーブについては、特に感想はない。
ただ、その全体については特別な感想がある。

 この「九十九折りの大安売り」あるいは、あの『旧道倶楽部』のnagajis氏をして「ザ・ツヅラ」と言わしめたこの道であるが、驚くべき事に…。



 バスも通っていた…。


 米沢喜多方間のバスがここを通っていた(昭和29年開業)ことも驚きだが、
それ以前に、この写真のインパクトは何なんだろう?
まるで、ムカデのようにボンネットバスが連なって峠を下っている。
考えられるのは、ふたつ。

 ひとつは、この写真が撮られたのはバス開業の記念式典か何かで、バスだけが隊列を組んで走っていた。
 もうひとつは、バス同士の離合が難しかったために、敢えて同方向のバスを数台隊列を組ませて運行していた。

おそらくは、前者だろうな。
これと同じような写真を、秋田岩手県境の旧仙岩峠についても見たことがあったが。
ある意味、こんなに立派な交通路が出来たというアピールもあって、大きなバスを何台もフレームに納めてみたのだろうが…、
今日見ると、まるっきり逆効果に見えるような… こんな酷い道を、バスが通ってたなんて… と。

(参考写真は、『峠の道路史』より転載)












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