2007/3/6 14:18 【現在地】
それでは、本編最後の区間である元名隧道の旧道部分へ進む。
入り口は、ガードレールを横向きにしたもので塞がれているが、自転車や徒歩ならば容易に入れてしまう。
「この先通り抜けできません」の看板も立てられている。
左のコンクリートの躯体はロックシェッドで、すぐ先から元名第一隧道となっている。
元名第一隧道は、昭和26年に開通した全長120mの隧道である。
現道と旧道とは、僅かな岩盤を隔てて並行しているのだが、相手は隧道内であるから、その存在を意識することはない。
路面にはアスファルトが微かに残っており、それを覆い隠すようにして、背の高い薄のような植物が蔓延っている。
確かに廃道は廃道なのだが、道幅の外にも平坦な草むらがかなり広がっており、依然として、「関東の親不知」というほどの難所ぶりを感じることは出来ない。
この平坦な土地の存在は、隣に掘られた狭苦しい隧道と対比すれば、不自然であること限りない。
私が感じた不自然さを解消するヒントは、旧道の法面というには余りに大袈裟な、旧道脇の崖の補強にあった。
これほど大規模な工事が、昭和26年の現道開通以前に行われたとは、全く考えられない。
つまりこの大規模な工事は、この崖の地中に存在する現道を、崖の崩壊から守るために、比較的近年行われたものだと断定して良いだろう。
そして、この補強工事を行うにあたって、廃止後荒れるに任せて放置されていただろう旧道の小道が拡幅され、作業場として使われたのではないか。
旧地形図によれば、ここにも現在の隧道よりも遙かに短い隧道が描かれている。
元名第一隧道の旧隧道と言うべき存在だ。
だが、この隧道もまた、跡形もなく消滅していた。
この明鐘岬の区間だけで、旧隧道の開削・消失は3本目となる。
残念なことだが、これはやむを得ない。
図中の赤いラインは、昭和26年に現在の元名第一、第二隧道ルートが開通する以前の明鐘街道である。
現道は2本の隧道が繋がっているように描かれているが、もともとはちゃんと別々の隧道であった。
そして、そのさらに海側に、明治の街道が通っていたのである。
残るは喫茶店で聞いた、埋められたという隧道の所在だ。それがおそらく、この区間最後の隧道となるであろう。
旧道はその先で突如、深いススキの海に没してしまった。
先ほどまで敷かれていたアスファルトは消滅し、路面の平坦さえ失われている。むしろ、人為的に盛り土して道を塞いだようであった。
そして、その盛り土の上はススキの天国だった。
ほんの僅かな、人一人分にも満たない掻き分け道を10mほど進むと、小さな窪地が道を横断するようにあった。
もはや、本来の旧道の地形は全く残されていない。
その窪地に沿って、視線を山側へ向けると、そこには轟音を漏らすコンクリートの坑口がある。
これは、元名第一第二隧道を繋ぐロックシェッドであり、その窓が海側へ向けられているのだ。
なお、窓は柵があって出入りできない。
チャリと一緒に溝を乗り越えるも、その先はお先真っ暗といったご様子…。
「埋められた」とはっきり言われた隧道である。
残念ながら、目に見て分かる形に現存するわけが無かったのかも知れない。
そもそも、坑口へと続いていた筈の道は、全くその形を無くしている。
地形も変わり、さらに3月とは思えぬ猛烈な藪に隠されている。
ここを闇雲に掻き分けて捜索しても、何かが出てくる感じはしない…。
片手は海。
現道も十分海沿いの道ではあるが、旧道はさらに海べりに通じていたことになる。
そこに、数はたくさんあった隧道だが、どれもが短く、どうしても必要な場所に申し訳程度掘られたに違いない。
明鐘街道などといっても、難所には変わりなかったのである。
だが、それだけに、今の道よりも遙かに、旅人の印象に残る道だったらしい。
明鐘街道開通当時、夏目漱石をはじめ多くの文人がここを通り、その景観に魅了されたといわれている。
チャリを藪に停め、足元に伸びる踏み跡をさらに辿ってみた。
だが、その道はみるみる崖を下り、すぐに磯へ下りてしまった。
なるほど、磯伝いに行けと言うことなのか。
まあ、単身ならば不可能ではないだろう。
というか、明鐘街道が開通する以前には、多くの旅人がここを越すのに磯を歩くか、或いは小舟に頼ったというのだから、ある意味この磯こそが最古の道である。
江戸時代の房総往還もここにあったわけだ。
しかし、このまま進んでも、目指す隧道を見付けられる可能性はない。
私は、先ほどの藪へと戻ることにした。
旧道の高さまで戻った。
道は、奥から来て、手前右側の藪へと進んできたはずである。
全くそこに道は見付けられないのだが、隧道の何らかの痕跡を得るには、この藪へ入るしかないだろう。
意を決して、ススキの藪へ頭から潜り込んだ私は、思いがけず、すぐに藪の外へと出た。
…だが、そこは……。