国道252号旧道 駒啼瀬  最終回

所在地 福島県大沼郡三島町
公開日 2007.6.17
探索日 2007.5. 7

消えた隧道

 最 終 難 関 


平成19年5月7日 午前5時47分 

 重厚なコンクリートの崖によって、息絶えながら辛うじて道の形だけは留めていた旧国道。
しかし、その壁が途切れた所で、忽然と道は消えていた。
幅6mの道は、既に瓦解して谷底へ消えていたのである。

はじめ、本当に行く手に道がないかのように見えていた。
だが、崩壊地の突端へと近づくにつれて、差し渡し20mはあろうかという崩壊地の向こう側にも、確かに道の姿を認めるようになる。
自らの安全マージンと引き替えにする形で、先細って行く斜面に進んでいく。

間もなく、土と倒木によって偶成された、一期一会の斜面へと踏み込む。

そして数秒後、私は幸運にもこの斜面をも突破し得た。
チャリとともに。




 突破。
そしてその足跡を振り返る。
奥に見える青白い崖は、全てコンクリートの壁である。

さて、前を向いて進行再開だ!
ゴールは近いぞ。




 既に道は駒啼瀬の峠を越えており、檜原集落への登り坂となっている。
この坂を登り切れば、このおぞましい廃道も終わる。現道とも再開できるだろう。
だが、未だ予断を許さぬ荒廃の状態にある。
いつ再び、先ほどまで三度繰り返された"命崖"(いのちがけ)が再来しないとも限らない。

完全に廃なるオブジェと化してしまった警戒標識に、明日は我が身と気を引き締める。



 間髪入れず、今度は崖側に現れる標識。
廃道ではお馴染みの「警笛鳴らせ」だ。



 「これでもか」と言うほどに荒れていた道が、引き潮のように平静を取り戻してゆく。
まだ一条の轍さえないが、確実に路面の状況は快方に向かっていた。

そして、広場が現れた。
その先には白い空間しか見えず、ここが川に面した一つの突端であることを物語っていた。

当初、歳時記橋から見えていた廃道は、ここまでであった。

失われた隧道の痕跡を得ることのないまま、私とこの道との逢瀬は終わるのか。




 隧道に関しては、もとより無いものと思っていたのだから、何も得られなくても悔しがる道理はない。

だが、やはり悔しい。どうしても悔しい。
どこに隧道があったのか。
それさえハッキリと分かれば、諦めもつくのだが…。

仙人が「かつて隧道があった」と示したエリアにはある程度の幅があり、ピンポイントではなかった。
しかし、現在の地形を勘案すれば、どこでもと言うわけでは有り得ない。
なにかしら、周囲とは異なる特徴。
たとえば深い掘り割り… あるいは大袈裟な平坦地など、地形を大幅に改変した痕跡があるはずだ。


 つまり、この広場は極めて怪しい。



 そう。

この広場は怪しいのである。

なにせ、河川に対し出っ張った突端という地形。
ここはまさに隧道の頻発地形。
そして、その場所に現れた、不思議なほどに広大な平坦地。
現役当時にはおそらく離合や休憩の途に使われていただろうこのスペース。
はたして、最初から存在していただろうか。

 しかし、そこにかつて隧道があったと確信するには、何らかの遺構が必要である。
存在していたのは素堀の隧道だったとのことであり、具体的には何らかの空洞を確認しない限り、確証は得られないだろう。
私は、何かを得たい一心で、落ち葉に隠された法面へ、よじ登った。



 ここで「発見!」と声高に宣言し、次に上げる画像を適当に紹介したのならば、おそらく私は、ここに隧道を見出した第一人者の栄誉を手にしただろう。
かの仙人でさえ、既に隧道の痕跡はないと言っていたのだから、地元の人も件の隧道の行方は知らないのだ。
だが、私の廃道歩きの真義に誓って、これを安易に隧道の痕跡だとは断定できない。

このか細い穴から覗いた、地下の様子をお見せしよう。
皆さんはどのように考えるだろうか。
果たしてこれは、破壊された隧道の残骸なのであろうか。


 ただの岩の切れ目としては、やや異様な奥行きがあった。

残念ながら、その入り口は腕の一本も満足に通さぬ小さき穴である。
カメラだけが内部に通じた。
そして、フラッシュを焚くと、この画像が救出されてきた。
内部には、奥行き2m内外(その奥は見えない)、高さ50cm以上のスペースが存在している。



 洞内は平坦ではなく、奥に向かって下り傾斜となっているようだった。
そこに人間の残してきたような痕跡は一切認められず、他の生物の気配もない。
まるっきり自然に出来た空洞である可能性もあるが、地下水の悪戯にしては、内部は乾いているように感じられた。
ほんの少しでもこの身を捻り込ませられれば、或いは解明出来たかも知れないが、それは不可能だった。

 もっとも、この空洞が隧道の名残であったとしても、周囲の地上に一切坑口の跡らしきものが見られないことから、単に埋められた坑口を発見したというのは有り得ない。
可能性があるとしたら、隧道を破壊して現道を作った際に、その一部空洞が瓦礫の底に残ったという場合だ。
その空洞がたまたま、地上に小穴で通じている可能性はある。

 なお、かつて隧道があった地点は、きっとここだと思う。
この空洞との関連性はさておき、地形的に可能性は高い。




 「変なもの発見!」 


 5:55 【現在地点】

 広場の向こう側には、なんとお迎えが来ていた。
自動車の轍というお迎えが。

これにて、難所の名を恣にした廃道区間を突破出来た事になる。
時間的には1km強に1時間弱を要しており、程度の割には順調だったが、3カ所ほどは本当に危険を感じる斜面があった。
今回の探索は、何よりも時期が良かったと思う。
夏場であったなら、この倍以上は苦労しただろう。




 なお、こちら側にも車止めとなるようなものはなく、ただ自然に轍が途絶える形で廃道となっている。
すなわち、誰の目にも車は無理だという荒廃ぶりになっていると言うことだ。
この、隧道跡と凝定された大カーブから先は。


 ん?

なんだ、この標識。

なにやら、見たことのないデザインだ。






この附近
転落多い
注意

 マジ勘弁してください。

もう何人も呑み込まれていたのだな。
私が恐怖した、あの淵、あの流れに…。 南無。



 JR只見線の巨大な鉄橋が目前に迫る。
「2ヒンジスパンドレルブレーストバランストアーチ」という大変長い形式名の鋼橋で、昭和16年の開通当初からここにある。
橋の長さは147mあって、谷ごと一挙に只見川を跨いでいる。

いまも年に数度、昔ながらのSLが走ることで有名な只見線だが、彼らが普通に現役だった当時、この旧道もまた健在であった。そして、鉄道ファンの絶好の撮影スポットになっていた。

おそらく、山菜シーズン以外にこの場所へ来るのは、彼らだけではないだろうか。
この素晴らしい鉄橋も、地中にある現在の国道からでは、全く見ることが出来ない。




 道なりに登っていくと、鉄道が旧国道の下へぶつかってくる。そして、そのまま足元のトンネルへと吸い込まれていく。
靄がうっすら漂う濃緑の林の底に、まるで無造作に敷かれたようなレールが見える。その姿は、森林鉄道を彷彿とさせる。

私がここに差し掛かったとき、ディーゼルカー独特の唸りが遠くに聞こえた。
音はなかなか近づいてくる様子がなかったが、やがて急にハイトーンの合唱に変わり、彼が鉄橋へと差し掛かったことを教えてくれた。音は長く続いた。
やがて、緑と白に塗り分けられた列車が、その緑に包まれたレールの上を、思いがけぬ高速で通りすぎていった。
しかも、4両も。(がらがらどころか、人の姿が車内に見えなかった…)

 現役だもんな、列車くらい走るよな。





 廃道ではないが、かといって普通の車で入ってくるには気が引ける。
そんな軽トラサイズの轍を辿っていくと、通行止めの標識が後ろを向いて立っていた。
写真は、後方を振り返って撮影。
この地点から、例の通行不能となる地点までは350mほどだ。



 現在の道幅は1車線ギリギリだが、両側の草を刈れば6mほど確保できそう。
それでも、未舗装であったことや路肩の状況を考えれば、大型車同士の離合には神経を使ったに違いない。
途中、一カ所だけ広くなった場所があった。
ここの山側には、石の空積みによる擁壁が残っていた。



 6:06

 轍が現れてより550m、歳時記橋からだと1400mを経て、舗装と家並みが同時に現れた。
ここまで続いた上り坂も平坦に帰し、檜原集落へと到着した。
そこには眩い朝日が充ち満ちており、清冽な空気を揺らしていた。
廃道を抜け、今日一日の廃道探索がスタート!!

…そんな場面なのだが、あいにく私の探索は時限つき。
午前7時過ぎには宿へ戻らねばならぬ約束があったので、適当なところで引き返さなくては。トホホ



 只見川の大いなる蛇行に削り残された、緩やかに傾斜する丘の上に檜原の集落はあった。
この丘の高いところを現在の国道が通り、旧道は村のただ中を横切る。
ここでは、旧道が殆ど唯一の外界と結ばれた道である。

写真は集落内の様子。
交差点には赤茶けた警戒標識が残っていた。
支柱には「福島県」のシールがまだ辛うじて残っており、国道時代の遺物だと分かる。



 集落の中程で、一カ所鍵型になっている所がある。
だが、この鍵型を緩和するように短い新道が作られており、それとてかなり古いものには違いないが、国道として利用された道であろう。
そして、本来の鍵型を忠実に辿る道はひときわ狭い街路になっていて、角に道路元標が健在だった。
道路元標についての詳しい解説は端折るが、大正8年に旧道路法の施行に伴って全国各市町村に1基ずつの設置が義務付けられていた。その外形も一律であり、残っている数自体多くはないが、街角にあれば目立つので発見しやすい。
役場に最も近い交通上の要地に立てるルールがあったから、その発見は昔の村の姿を知る上での重要な手がかりとなる。

この場所にあった元標は「原谷村道路元標」と彫られたものであった。
同名の村は、昭和17年までこの地にあったが、やがて宮下村に合併され、今はさらに三島町へと変わっている。



 原谷村と言う名前は、この道路元標以外では現地に全く残っていないかも知れない。
それは、この地名がさらに古い別の地名を合成しただけの、根拠の薄い地名だったからだ。
前述の通り、この集落の名前は檜原だが、明治22年に檜村と近くの滝村が合併して、原谷村になったのだった。

※よく調べたら「原谷トンネル」というのがJR只見線にあった。その開通は昭和17年。原谷村最後の年だった。

江戸時代にも上州へと繋がる交易の道・沼田街道の一経由地として、既に村はあった。
旧道脇に軒を並べる家並みは、そんな歴史を感じさせてくれる。



 集落のほぼ中央部に位置する、何とも可愛らしい駅。駅舎新設なったばかりの会津檜原駅である。

それにしても、この駅は便利だ。
なにせ、階段も何もないから、自転車のまま乗り降りすることも出来るだろう。
これぞ、究極のバリアフリーである。



 全く目立たない駅前から真っ直ぐ進むと、家並みはすぐに途絶え、長閑な田園風景となる。
さらに進んでいくと、只見線を小さなガードで潜って(平面交差ではないのも国道の名残か)、その後再び只見川へと下り始める。
この辺りは近年町道として再整備されており、快適な道に変身していた。

そして、駅から800mほど、谷底にて現道と合流する。



 合流地点は一風変わっていた。
国道側は完全にロックシェッドに覆われており、その横っ腹に旧道が直角にぶつかる形。
信号や停止線もなく、カーブミラーの他に安全確認の困難な、車だったら結構恐い合流である。
ロックシェッドの中は薄暗いし、下り坂だからか、かなりの速度で車が通る。

 ともかく、これにて難所であった駒啼瀬峠の、峠にあらざる旧道のレポートを終える。