国道49号旧道 藤峠   第1回

所在地 福島県耶麻郡西会津町〜河沼郡柳津町
公開日 2007.8.19
探索日 2007.5. 9


 一般国道49号は、とにかく峠の多い道である。
太平洋岸と日本海岸を結ぶ“列島横断の道”だけに、さもありなんとも思うが、しかし脊梁越えを意識させられるほどの大きな峠はない。
あるのは、麓との比高がせいぜい200m程度の、まあまあ穏やかな峠の数々である。

 その長い道程のうちでも特に、会津盆地の中心地である会津若松市から西へ新潟県の津川町までの区間は、峠が多く連なる区間である。
県境をなす鳥井峠を中心に、車峠や惣座峠、少し離れて藤峠や七折峠がある。

 道は、大河である阿賀川(新潟県内では阿賀野川)に概ね平行するのだが、その両岸は切り立った山地が多く、車道であるべき現在の国道は、敢えて小さな峠を連ねる道を選んでいる。
江戸時代までは、この川が交易の主役であったが、今ではこの完全に舗装された国道と、さらに新しい高速道路とが、その多くを担っている。鉄道全盛の時代も、既に過去のものだ。

 今回紹介する藤峠は、明治時代に突如主役へと抜擢された、比較的新しい峠道である。
馬車交通という新しい時代の街道の座を巡っては、地域全体を巻き込んだ激しい争奪戦がおきた。
そこには大金が動き、幾多の人々の汗が流された。
勝敗を決したのは、かの土木県令の鶴の一声であった。

 これは、その勝者の姿である。



 江戸時代、越後と会津を結ぶたいへん栄えた街道は、束松(たばねまつ)峠を通っていた。
しかし明治15年、かの三島通庸が福島県令に就任してすぐ整備が始められた「会津三方道路」においては、束松峠からは数キロ南に位置する、それまで殆ど無名であった藤峠が、新しく国道として整備される方針が示された。
そして、今日のように十分な議論が施されることはなく、間もなく、藤峠は馬車の通れる道として開かれた。

 このとき、新しく街道が村のど真ん中を通ることになった藤村は、それは諸手を挙げての大歓迎で、只見川を渡る藤橋の建設に対し当時の金額で500円の寄付を県令に願い出ている。また、藤峠の拡幅に対しても1500円を寄付した記録が残っている。この金が県令を動かしたかは不明だが、祈りや信念だけで道が出来ないのは今も昔も変わらない。(ただし、県令の手法は強引であったから、これが本当に寄付だったのか或いは“搾取”だったのか、判断は分かれる)

 このとき、突如生活の根幹を揺るがされることとなった束松峠沿道の片門(かたかど)や束松などの村々では、藤峠開通の後に、「いろいろな手」(その一つが束松隧道の掘削)を尽くし、街道を取り戻そうと試みるが、既に遅きに失したようである。一度移った主役の座は、そう簡単に覆らないのだった。

 敬愛する三島通庸が選んだ峠と、選ばなかった峠。
街道の争奪戦争、その勝者と敗者の「現在」を見るため、雪解けの一段落した2007年5月某日に、私はこの地を訪問した。



輪廻の峠路

 西会津町別茶屋 旧反場橋


 本レポートの開始地点は、明治17年開通の当時「藤村新道」と呼ばれた藤峠の道と、従前の越後街道との分岐点である、西会津町別茶屋(わかれじゃや)である。
地名が全てを物語っているが、この別茶屋は街道の時代から街道が分岐し、沿道の茶屋が旅人の脚絆のひもをゆるめさせた場所だった。
ただし、当時の道の一方は、藤峠ではなかった。藤峠は、明治17年頃に開通する以前、殆ど人が通らぬ間道に過ぎずなかった。
地名の由来となったもう一本の街道は、この地の1kmほど東で藤峠の道から南に入る「柳津道」であり、近年まで只見方面への重要な交通路であった。この道は、現在は一般県道342号藤小椿線として車を通している。

 この別茶屋の分岐地点には、古い橋の跡がはっきりと残っている。




 2007/5/9 14:22 【西会津町別茶屋】

 写真は、別茶屋の分岐地点より藤峠を望む。
明治の開道以来、国道「越後街道」としての地位を固持し続ける藤峠の道は、いまではご覧の通り、まるで滑走路のような快走路に改良されている。現在は一般国道49号である。

だが、ここには街道争奪戦の勝敗が完全に決する前の頃の、まだ藤峠の道も拙かった名残がある。
画像にカーソルを合わせて欲しい。
表示されるガイドラインが、古い道の形である。



 上の写真と同じ地点から、争奪戦の敗者となった束松峠への道を望む。
こちらの道は明治期においては国道の奪還を、その後は少しトーンダウンして、束松峠の県道への昇格を強力に運動した。
結局、熱意は通じたのか、束松峠に県道の線は引かれたものの、今日に至るまで自動車が通れる道は完成していない。
つまりそれは、「通行不能区間」である。地元にとっては、県道に指定さえされればどうにかなると思ったかも知れないが、無情である。
路線名は一般県道341号別(わかれ)舟渡(ふなわたり)線であるが、分岐地点には一切県道のことを教える標識はなく、町が建てた小さな案内看板(束松峠の手前の軽井沢集落への)だけがある。

 明治当時の道は、ガイドラインのように通行していた。
次に、★印の地点から左方を眺めてみる。



 これはあらかじめガイドラインを表示しないと分かりにくそうだ。
現在の分岐の道の形とは無関係に、昔はもう少し山寄りに通っていた。
そして、ちょうど写真フレームの右からはみ出した辺りで、直進の束松峠への道と、手前へ折れる藤峠への道とが分かれていた。
そこを撮影していないのは、私のミスです(笑)
ともかく、古い道の形は、束松峠が主役であった時代を証言しているようである。

 次に、この同じ時点から背後の沢へ振り返る。



 そこに、さっきから何枚かの画像に小さく写っていた、この古びた橋脚がある。

これは反場橋で、大正5年頃に現在残るコンクリート橋脚へと架け替えられた。
それ以前には木の橋が同じ場所に架けられており、三島通庸が画家・高橋由一に書かせた石版画にも、その橋が「藤村新道の橋梁」として納められている。

いつ頃廃止されたのか、定かな記録にはあたっていないが、昭和14・5年頃に藤峠全体が車道改良を施された記録がある。しかし、この橋脚ならば、車道改良にも耐えたと思う。
確実に廃止されたのは、昭和46年に現在の藤トンネルが開通し、峠が旧道となった時点である。
反場橋は現橋と呼べるものが存在せず、真っ直ぐな築堤が脇を走っている。



 現国道の築堤上から見た反場橋の橋脚跡。
二本の橋脚は、今日見れば極めて華奢なデザインで、とても重量物が通れるようには思えないが、この時期のコンクリート橋脚としてはよく見られたものである。(形式名を知っている方、教えてください)
コンクリートが橋脚に使われ始めた最初の頃であれば、旧来の木製の橋脚に比べ素材の強度だけで、もう十分に堅牢なものと考えられだろうし、実際にそうであったろう。
負荷の懸からなくなった橋脚は、おそらくこれからも、河川改修などで取り壊されない限りに於いては、末永くここにあり続けるだろう。



   反場橋を跡に、いざ藤峠へ向けて漕ぎ始める。
ここから現在のトンネル坑口までは約1.4km、旧峠のてっぺんまでで2km強である。
高低差は旧峠でも70mほどに過ぎず、まあ楽な行程であろう。
あとは、旧道となっている部分が、どの程度走りやすいかに依る。

とりあえず、別茶屋附近の旧道は現道とほぼ重なっており、その痕跡を留めていないので、先へ進んだ。
(昭和43年の地形図では、この附近に小さなヘアピンカーブがあったようだが、現道で短絡されたのか全く所在が掴めなかった。)




 新藤橋 一変した柳津道の分岐


 別茶屋には沿道に1軒だけ民家があるが、そこを過ぎると峠の向こうまで人家はない。
国道は、右に不動川の谷底を見下ろす感じで、ほぼ直線にて高度を上げていく。
路幅は2車線だが余裕があり、峠道とは思われない速度で車は流れる。
坂を登る大型車を先頭にした車列は、頻繁に見られる。後続にとっては登坂車線が望まれるところか。
写真に写る路肩の巨大なスペースは、おそらく旧道敷きを利用したものだろう。
旧道はほぼ現道に重なっており、桟橋の箇所や小さな枝沢を渡る部分で、切れ端程度の旧道敷きが残っているが、いずれも現道から一望できる程度のものである。

 そして、別茶屋から800mの地点で、前方に大きな橋が現れる。



 高速で走る車窓からだと、この新藤橋は余り目立ってなさそうだ。
規模の割に親柱や欄干にこれといった特徴がないし、足元に大きな川があるわけでもないので、何となく通り過ぎられそう。
しかし、外部から眺めるとこれはかなり立派な橋である。その写真は下に。

 そしてこの橋の手前が、柳津へ向かう県道藤小椿線の起点であり、左に分岐している。
だが、先ほどの束松峠への道同様、特に道路標識はなく、地元の車以外は気づきにくい。
前述の通り、この道はかつて重要度の高い街道であったが、今ではマイナーな存在である。



 今辿ろうとしている藤峠の明治道、旧国道であるが、当然この巨大な新藤橋は昭和46年の新道建造時のものである。
以前の地形図では、県道藤小椿線がそうであるように、大きく山側に迂回したルートで高度を上げていた。
その情報は持っていたが、この場所の旧道捜索には、思いのほか苦労させられた。
予想していた以上に、道は消えていたのである。



 結論から言うと、昭和46年までの旧道はこの写真に書き加えたガイドラインのように通っていた。

だが、これは非常に気づきにくく、正直このような旧道の道跡探しについてはかなりの経験を自負する私でも、なかなか見つけられなかった。
言い訳であるが、道がこのように二段となって分岐している形が、スペースの都合上なのか、当時の地形図で省かれていたのには騙された。



 最初、平面的な道の形を頼りにして、県道の舗装路こそ旧国道を再利用したものだと思い少し進んでみたのだが、この道は下っていくばかりで全く峠へ向かおうとしない。
これはおかしいぞと引き返す途中に、上の写真の★印の位置で、舗装路の一段上に法面らしき斜面を見付け、それでようやく事態は解決したのだった。

道は、新藤橋の袂で上下二段に分岐する形をもって、進路を別っていたのだ。




 14:38 【現在地:新藤橋の新旧分岐 地図

 旧道は、県道が国道と分かれて下っていく、その分かれるところにある広場から、高度をそのままに奥の藪へと続いていたことになる。
写真の真っ正面の平な藪こそが、旧道敷きの名残であったわけだが、これに気づくには5分以上もかかった。
そんなことをしているうちに、県外ナンバーのセダンが私を見て停まると、中の老夫婦のうち旦那さんが「この道は柳津へ抜けますか?」なんて聞いてくる。
私はジモピーに見えたのだろうか。
まあ、ジモピーほどではないが地図を持っていることもあり、これには元気に「抜けてます」と答えておいたが、標識の無い県道に入っていくつもりなら地図くらいは持っていた方が…。と、思った。



 で、入口があんな不明瞭な状況であるから、その先の道も知れている。

案の定、酷い藪道である。

昭和46年までは使われていた筈だが、当時は未舗装だったのか。
37年には一級国道へ昇格していたが、それでも山道の誹りを逃れるものではなかったようだ。



 進むほどに、状況は悪い。
峠までずっとこんな道が予想されるならばチャリの放棄も考えるが、おそらく新藤橋の向こう側では再び現道に合流する筈なのだ。

 なればこそ、むしろチャリを連れて進む理由もないのでは?

冷静に考えれば、まさにそれが「真」なのだが…。  まあ… ね。



 たった50mを進んで大きなカーブの折り返し地点に達するのに、8分もかかった。
とにかくその中盤は無数の倒木と、ツタと、イバラに行く手を阻まれ、何度もチャリを引きづった。
春先でこうだから、夏場には先日レポートの完結したばかりの伊豆のトモロ岬や、越後の八箇峠なみの激藪になっていそうだ。

 なぜか、カーブの折り返し地点だけは妙に見通しのよい草原になっており、気持ちがよかった。(春だからね)
法面には人工的に削られた跡があるが、いずれも無普請で崩れるに任せている。



 折り返し地点の先では、思ったよりも急な勾配で上りが始まった。
この調子では、新藤橋の先で合流するときに、高さが合わないのでは?
私の中で嫌な予感がくすぶり始めた。
しかし、チャリを置いて確かめに進むというクレバーな方法をとれるほど、私は熟考の人ではない。
万一嫌な予感が的中していたとしても、そこで何とかすることを考える方が、性に合っている。
今来た藪を、またチャリと一緒に戻るのは、非常にキツイ。嫌だ

 後半は、電柱が廃道敷きを掘り返して新たに設置されていた。
これでは路面が残っていないのも道理だ。



 ああ、やっぱりだ。

ほぼ真っ直ぐ橋を渡ってきた現道と、大きく沢を迂回した旧道とは、取り付けの高度差が10m近く付いてしまっている。
しかも、旧道はみるみる現道によってその元々狭かった道幅を侵略されていく。


 …お、降り口は?




14:53 

 イヤぁぁぁッ!

やばい。

いちばん、恐れていた事態……。




 単身なら、この程度の斜面どうにでもなるが…。

 なぜ一緒なんだ。 チャリ君……。



 オワタ\(^o^)/


旧道敷き、現道によって完全に強奪される!

しかも、この足元の雰囲気、施工は昭和46年よりも遙かに新しそうだ。

…やってくれましたね、建設省さん。或いは国交省さん。






 え〜い ままよ!

ママクリーニング○野寺よーー!

というわけで、奇跡の落下傘部隊がここに着陸。
チャリの奴もかなり怪しく転げ落ちていたが、幸いにしてヘッドステムが曲がっただけで済んだ(笑)。
何より気を遣ったのは、車通りが確実に途切れたときに行動を起こすと言うことだった。
通報されかねない怪しさだから、このムーブは。
オブローダー四十八手“外道技”「法面雪崩落ち」とは、これのことだ)



 復帰した現道の、至って平然とした様子。

 と、

 枯れ草を身に纏い、「お前走れる?」状態になった愛車。
その手にあるのは、最近の探索では決して手放さない地図のコピーである。
時々、この地図を風に飛ばされたり、沢に落としたりして右往左往しているのも、決して人には見せられない姿である。



 旧道敷きを完全に葬ったのは、現道の登坂車線のようだった。
登坂車線が出来たことで法面がさらに後退し、旧道敷きを完全に消し去ったものと思う。
或いは、最初からあったのか? 分からないが。

左の写真は、本来は旧道が通っていたラインに、僅かだが斜面のなだらかな部分がある。

右の写真では、次のカーブの所に再び、旧道が一段高く見えている。
次回は、あそこから始まる。



 しっとりとした峠の、のんびりしたレポートのつもりが、前半戦は思わぬ藪こぎで、ムードも予想外の方向へ。

 しかし、私が藤峠で本当に伝えたい景色は、まだ現れていない。

 次回は、明治の空気を残す峠へと到達する。