道路レポート 国道229号雷電海岸旧道群 ビンノ岬東口編 前編

所在地 北海道岩内町
探索日 2018.4.26
公開日 2019.10.9

※このレポートは、道路レポート「国道229号雷電トンネル旧道(ビンノ岬西口攻略)」の続編です。先にお読みください。


前回探索の終わりは日没のシーンだったが、あそこで自身初の北海道探索3日目が終わり、岩内町の道の駅での車中泊が明けた4日目は、朝一から再び雷電海岸へ向かった。

前日の探索では、雷電海岸の国道229号に2本ある長大トンネルの1本、雷電トンネル(平成15年開通)の開通により廃止された旧道を探索し、陸路到達難度が高い核心部を解き明かすことに成功した。だが、予期していた旧道トンネルの閉塞により、探索出来なかった区間があった。

加えて、もう1本の長大トンネルである刀掛トンネル(平成15年開通)に関する旧道は、完全に未探索で残された。
もとより、前日は夕方からの探索で、時間が足りないことは承知しており、2日目へ持ち越す予定であったのだ。

というわけで、この日の探索は、右図の「今回探索区間@」と「A」を対象とした。
まずは前日のやり残しといえる「@」から挑戦する。
もっとも、「@」は現道から容易にアクセスできるため、前日のように難度は高くないと思われる。
しかし、「A」については、やはり閉塞隧道に挟まれて“絶対領域化”している区間があるため、高難度が予想された。



@ 地理院地図(現在) A 昭和51(1976)年 B 大正6(1917)年

なお、現場の私は、前日の探索から一晩寝ただけですぐにこの探索に取り組んでいるので、さほど知恵が増えたりはしていないわけだが、読者諸兄は既に前作の机上調査編を読んでくれていると思うから、原則的にはそれを前提としてレポートを書き進めたい。

右図は、これから探索するビンノ岬東口区間を描いた3世代の地形図だ。

前日は、旧道上にあるビンノ岬トンネル西口をゴールとしたが、今度は同トンネルの東口を目指したい。
探索のスタート地点は、岩内の市街地から海岸沿いに細長く連なる家並みが途切れて、雷電海岸の険しい岩場が現れ始める、敷島内集落の端辺りにとった。
ちょうど、前回レポートの1枚目の写真を車内から撮影した辺りでもあった。
ちなみに距離は、ビンノ岬トンネル東口まで1.7kmである。

余談だが、前回の机上調査編へ皆様から寄せられたコメントを見ると、期待以上に好評であった。
この2日目の探索で、より評価を高めることは難しいかもしれないが、雷電海岸にある旧道の全貌を解き明かすことが一連の探索の目標であったから、前作を越える2作目などと気負わず気軽に書き進めるので、皆様も肩の力を抜いて読んでいただければと思う。




敷島内集落、繁栄の名残


2018/4/26 5:06 《現在地》

おはようございます。
近くに駐めた車から自転車を下ろし、昨日は車で走り過ぎた道を元気に漕ぎ始めた。

昨日の【1枚目の写真】に撮ったのと同じ形の山並みが、昨日よりは幾分大人しげな感じで視界に収まっている。風雲急を告げる感じに中腹を隠していた雲は消え、天気は快復へ向かっている。まだ日は見えないが、昨日以上の探索日和が期待できそうだった。

天気の不安はないが、行く手の海岸線はこれから先、非常に険しくなっていく。
次第に高さと奥行きを大きくしていく岬の列が、ここからでも4つまで、折り重なるように見えていた。
それぞれ手前から、鳴神トンネル、敷島内トンネル、ビンノ岬トンネル、鵜の岩トンネルによって貫通された岬であるが、後者2つは旧道となり閉塞済み、代わりに全長3570mもある雷電トンネルがまとめて潜り抜ける。

さしあたっての目的地は、ビンノ岬の手前まで。その先は、昨日の苦闘でやっつけてある。



出発直後、上の写真の矢印の位置にて、さっそく足を止める発見あり。

昨日、車で走った時には気付かなかったのだが、集落のほぼ端っこにある民家の造りが、特別だった。
なんと、煉瓦造りだった。
観光施設や展示目的の保存された建物ではなく、純粋な民家(空き家のようだが)であろうから、余り撮影するのもどうかとは思ったが、国道沿いから見える風景なので、捨て置けなかった。

いわゆる寒村、そんな表現がしっくりと来そうな風景に佇む、豪奢な煉瓦建造物は、この地を満たしていた繁栄の残滓としか取りようのないものだった。




思いつくのは唯一、ニシン漁だ。

北海道の西岸各地に今も残る“ニシン御殿”と呼ばれる大きな建造物……、かつてニシン漁で大財をなした網元が作り上げた家屋だろう。多くは木造だったはずだが、このような煉瓦造のものもあったのか。

しかし、2棟並んだ煉瓦建造物の片方は、屋根部分が無装飾のコンクリートによって繕われていたのが印象的だ。もとは隣の建物のような瓦屋根だったと思う。細部のデンティル(歯飾り)まで凝りに凝りまくった煉瓦建造物の修繕が、無骨一辺倒のコンクリートになってしまったところに、忽然と消えてしまったニシンにまつわる悲哀を感じた。



ニシン時代の夢の跡は、これだけではなかった。
煉瓦住居のほぼ向いの海岸線に、石材を布積みにして作ったコの字型の石垣のようなものが、半ば以上丸石に埋もれるように残っていた。

間違いなく袋澗の跡だった。
昨日の探索でも、カバソマナイで、同じように石を積んだ【袋澗の跡】を見ている。
網元の屋敷があり、その前に袋澗がある。これは本で読んだ典型的な配置だった。今は幅広の国道になっている地面も、かつては家屋敷や作業場だったはず。
また反対に、今は袋澗しか残っていないカバソマナイにも、この敷島内と同じような長閑な景色があったことを想像させる発見だった。

いまは国道があるこの場所に、かつてはカバソマナイへ通じる細い道が通じ、人びとが行き来していたはずだった。
昨日の発見と、今日の発見は、険しいビンノ岬に阻まれてはいても、間違いなく繋がっている。




家並みが途絶えると、幌内川という川の河口を渡る。
そこに、北海道の水力発電発祥の地の案内板があった。明治39(1906)年に、岩内水力発電という会社が道内初の水力発電を行った記念地で、これも当時の岩内地方が道内屈指の繁盛地であったことを物語る遺物だ。

5:10 《現在地》
橋を渡って国道をさらに100mほど進むと、今度は当別川という小川が見えてくる。対岸に数軒の民家が固まっている。集落というよりは、ひとかたまりの大きな家屋敷だ。「敷島内」のバス停が、ここにある。

この当別川の河口は、大正6年の地形図を見ると、特別な場所だと分かる。
私を(主に机上調査の面で)悩ませている海岸道と、雷電山道が分岐していた地点なのである。


予想外にも、雷電山道の入口であることを伝える立派な石の標石が、路傍にしっかり根を下ろしていた。
雷電旧山道登口」とだけ書かれた年号のない標柱だが、古いものではないだろう。

標柱の立派さからは、いわゆる“歴史の道”を遊歩道化したようなものを想像するが、実態は甘いものではあり得ない。
なにせ、入口からして枯れ草まみれだ。春先だから大人しく見えるが、刈り払いされないまま前年を生ききった枯れ草が、登り口とされる軽トラ幅の道を覆っていた。

ここから蘭越町側へ越えるには14〜15kmの行程があると思われ、しかも700m近い峠を2回超える必要がある。
峠の在処はここから見えないが、まだ白雪に包まれているに違いなかった。車道ではないし、私の手には負えない。



当別河口に建ち並ぶ家並みの中にも、煉瓦の建物を発見した。
しかも、隅の石飾りが先ほどの建物と全く同じであり、同じ建築家の手によるものかもしれない。

アーチの要石に施された飾り石など、帝都第一級の建築物を思わせる豪奢さだったが……、無残、このアーチ以外は倒壊、ないしは取り壊されていて、現存しない。




ちぐはぐな改修を受けての生存と、原型を止めたままの倒壊と、どちらが幸せかなどと論じるのは部外者の軽薄だが、この都会の重い名残を前にして、ただ車の行き交うばかりの現在の海岸風景も、ことさらに軽薄である。
薄ら寒く、寂しかった。



煉瓦の建物の前浜に、袋澗。

と思いきや、この港は生きていた。
驚くほど小さいが、現役の漁港であり、「第1種 敷島内漁港」の標識があった。
こんな姿でも、わが国に2860ほどある(法的に有効な)漁港の一つである。小舟一艘、ネコ一匹いなかった。

昔はここも袋澗であったと思われる。
袋澗を改修して生まれた漁港は、この地方では珍しくない。




漁港を過ぎると、いよいよトンネルが見えてきた。
岩内町から蘭越町港町まで、雷電海岸に7本のトンネルが連なっているが、その1本目である。

沿道人家はこれからしばらく途絶え、古くから難所と恐れられた雷電越えが始まるわけだが、その割に、ドライバーに覚悟や注意を迫るような表示物は一つもなかった。
昔からこうではなかったはず。
危険箇所の数々が、全てトンネルによって回避されるに至り、雷電海岸はついに難所の旗を降ろしたということなのだろう。
それを寂しいと言ったら、怒られそうだが、寂しい。




鳴神トンネル 旧道


5:12 《現在地》

雷電トンネル群の1本目が、これだ。
鳴神(なるがみ)トンネルという。

アーチ環を模したタイル化粧くらいしか特徴のない平凡なトンネルだが、標識にも書いてあるとおり、全長は273mある。
そして、これは現地では分からなかったことだが、竣工年は昭和58(1983)年である。
つまり、この先に待ち受けている敷島内トンネル、ビンノ岬トンネル、鵜の岩トンネル、樺杣内トンネルなどよりも、20年以上遅れた開通だ。国道開通当初はなかったトンネルなのである。

よって、ここにも旧国道が存在している。
当然私はそこを行く。




時期が良く、夏場なら草に埋もれていそうな旧道の入口はすぐに見つかった。
旧道の路面は、現在の国道より一段高い所にあったようで、見上げる入口だ。
そこを、北海道開発局による立入禁止の看板と、地元設置の密漁禁止の看板が取り付けられた、古い鉄パイプの柵が通せんぼしていた。

昨日の苦労を思えば、懐かしさを感じるような封鎖風景だった。
自転車を小脇に担いで、脇をワキニャンした。




漂泊。

思わずそんな言葉が思い浮かぶ、枯れススキが似合う寒々しい第一の旧道だった。
隣に埋もれているトンネルが全長300m弱なのだから、この旧道も長いものではない。だが、いま見える景色だけならば、果てしなくこんな道が続いていきそうに思える。

昨日探索した区間よりも遙かに古い、昭和58年に廃止された旧道だが、ちゃんと舗装がされており、センターラインもある2車線道路だった。
もっとも、あまり余裕のある幅ではないし、なんとなく不吉な感じがする。
こんな道だったら、間もなく踏み込んでいく雷電海岸の険阻さと良くすり合っていたのだろう。
ドライバーは、看板なんかなくても、自然と覚悟を決めたに違いない。



鳴神トンネル旧道は、一つの緩やかな弓なりカーブだけで構成されている。
そのカーブの突端にある小さな岩場が、1枚目の写真で見た“最初の岬”だったが、こうして近づいて見ると、明らかに人の手が加わっていた。

遠目には想像もつかなかったが、ここは相当に手の込んだ土木工事が行われている。
岬の岩場の一部が、外海と狭い水路で繋がるように丸く切り抜かれており、青い海水のプールになっていた。
さらに、プール以外の岬の地面は平らに均されていた。

これまた袋澗の跡だった。
ただし、今まで見たものと大きく違うのは、石垣を全く使っていないことだ。全て硬い岩盤から削り出されていた。
海蝕洞のような地形を活用したとしても、明治・大正の時代に、独力でこれほどの工事を行った網元の力は、やはり凄まじい。
この力があれば、昨日見た海岸道を作り出すことも出来ただろう。



袋澗を眺めていると、神秘を引き裂くものがあった。

1kmほど沖合の海上を、矢のように走り去る小舟だった。2〜3人の男が船上に見えた。
出漁していく船には見えなかったが、沿岸の密漁監視だろうか、それとも定置網のチェックとか。

正体はなんにしても、目の覚める疾さだった。

(チェンジ後の画像)
岬を廻ると同時に、ここより一回りくらい険しい、次の岬が見えてきた。
岬の付け根には、またもトンネル。
現役物件第2号、敷島内トンネルである。



旧道のラスト100mは、悲しい死に体だった。
鳴神トンネルを埋設している整形された土斜面が、進むほどに旧道の幅を狭めていたのである。
ちなみに写真左に見えるコンクリートの擁壁は、鳴神トンネルの露出した外壁だ。

このように土被りが全くない部分もトンネル化してあるのは、土砂災害に備えてのことだ。つまり、この部分はトンネルに見えても、実態は覆道である。

昭和58年当時には、既に道路防災の思想が浸透し、こうしたトンネルも新設されるようになっていた。
道を先へ延ばすことに血道を上げた時代は去り、安全重視の時代が来ていたのだ。

おかげで、平成5(1993)年に開発局が行ったトンネルの安全点検で、鳴神トンネルは危険度が高いAやB評価ではなく、C以下の評価を受けることが出来ている。
だから鳴神トンネルは封鎖を免れ、今では雷電海岸で活躍する“最古のトンネル”になっているのである。これより古いトンネルは、全て作り替えられた。



5:16 鳴神トンネル旧道、探索終了。

坑門左の鉄パイプの所から、自転車を抱えて出て来ました。

次は敷島内トンネルだ。