国道46号旧旧道 仙岩峠(秋田側) 第4回

公開日 2007.1.4
探索日 2006.09.26

失われた道を辿る

最後の良心


<1.8km地点>12:35

 現在地は、出発地の「峠の茶屋」から約3km、明治道の入口からだと1.8kmの地点である。
妙に日当たりの良い谷に、石積みの橋台の片側だけが現存している姿から、この場所を片橋台谷と名付けた。

 それにしても、極端に進行のペースが遅い。
出発からは、既に3時間を経過している。
長時間の藪漕ぎは初体験であったトリ氏は、数分おきに私を振り返らせた。
しかも、この真夏の暑さである。
海抜800mを越えているのも忘れさせられる。
風が殆ど無い事もあり、滴る汗は止めどもない。



 確かに彼女のペースは私より遅いものの、足取りは確かであった。
その歩みを見ていると、元々の歩幅が短いだけで、まだ疲労はそれほど貯まっていなそう。笑顔もある。
残りの行程もまた、半分程度である。
焦らず、じっくりと進むことを、私は自分に言い聞かせた。

 写真は片橋台谷で休むトリ氏を、振り返って遠望。
この一面の緑の世界に、仙岩越え最初の国道が埋もれていた。



 トリ氏の、休息風景。

はたして、これが体を休めることになっているのか。



 数時間ぶりに大規模な石垣に遭遇した。
大小の石だけを組み合わせた、素晴らしく緻密な石組み。
築一世紀を経てなお、道を確かに指し示している。

 それにしても、ここには本当に誰も来ていないようだ。
誰かの訪問を臭わせるようなものが、何一つ見当たらない。
だが、確かにここは、非常に訪れにくい場所である。
我々が四苦八苦した先ほどのロストポイントは、普通の神経の人ならば問答無用に引き返す難所であったし、峠側から下って辿り着くこともまた困難であることを、我々は身をもって体験する。

 貪欲な山菜ハンター達でさえ、あえてこの道に近付く者は無いのかも知れない…。



 石垣の出現によって、だいぶ英気を養えた感があったが、この道で楽なシーンが続いた試しはない。
行く手に再び明るい光が溢れ始めたのと同時に、地面を覆う緑の勢いも増していく。



 この道は、もはや人の手を離れて久しい故、自然の摂理にのみ現状を左右されている。
そこに道の使命を思い出させることも、人手が多ければ(刈り払いなどにより)可能だが、わずか2人で出来ることは、ただ、薮の機嫌を伺うように隙間を見つけ、そこを通らせてもらうだけだ。



 大堀割とロストポイントの間にあった薮も酷いものだったが、今度のものに較べれば大人しかった。
既に草藪→笹藪→木薮(そんな言葉があるのか?)という成長を遂げており、よく撓る若木が笹にも匹敵するような密度で、かつての路面を跋扈している。
一歩一歩、全身のバネをフル稼働させた身のこなしで、この天然の檻を突破せねばならない。
うだるような暑さの中、ミドリガメのような行軍が続く。
見通しはゼロに近く、こんな道がどこまで続くのかさえ分からない。



 だが、こんな場所にも石垣が存在していた。
どこまでが道なのかもはっきりしない猛烈なブッシュの底にあって、石垣には見えない聖域でもあるかのように、木々もそこを避けていた。
必然、我々は石垣にへばり付くように、前屈みで姿勢を低く進むことになった。
失われた道、道でなくなった道の、最後の良心なのだろうか。
我々は大いに救われた。



 見晴らし台 


 廃道最後の良心…石垣に進路を託し、薮の底を深く潜行して進むことしばし。
石垣の消失と同時に、ヤマブドウの大きな葉っぱがたくさんのし掛かってきた。
それをちぎっては投げちぎっては投げして、緑の海の水面に顔を出す。
首より下は、全て薮の中。トリ氏も一緒。というか、トリ氏はまだ背後の薮でごそごそやっている。
そればかりか、時折、奇声が聞こえてくる。

 ここに至って我々は、久々の人工物を目の当たりにすることになる。それも現役の。


 遠くの斜面に立つ、鉄塔の列である。
鉄塔は当初から、中盤戦から終盤にかけて出会うものと想定されていた。
しかし、現在地は明治道入口から約2kmの地点であり、いま見えている鉄塔の(どれかの)下を通過するまでは、まだ1km以上の距離があるはずだ。
さらに、鉄塔下から目的地仙岩峠までは、さらに1km以上あると推定される。
すなわち、まだようやく半分来たかという段階であり、確実に終わりへ向かっているという実感を得ると同時に、終わりはまだまだ遠いと言うことをも痛感させられる眺めだった。



<2.0km地点>13:07

 上の眺めは進路方向のものであるが、崖側(南)には思いがけないものが見えた。

 薮の隙間に、水色の模様が少し見えはしないだろうか…?

 それは、谷を渡る巨大な橋の姿だった。
仙岩峠の現道を走ったことがある人なら、皆通っている筈だ。
堀木沢を渡る堀木橋である。
地図読みでは、ここから橋まで直線距離で約1km、高低差は200mもある。
もはや、行き交う車の音も届かないが、薮の隙間から、確かに孫の姿が見えた。
あの道の旧道は我が頭上さらに150mも高い雲の中、稜線付近にあり、全く窺い知れない。
しかし、現道と旧道の中間にある旧旧道からは、こうして現道が見える。

 だから何と言われると返す言葉もないが、私の愛する仙岩峠の、新しい眺めの発見だ。嬉しい。



 辿り着いたトリ氏の労をねぎらい、開放感のある眺めでしばし癒される策に出た。
ここまで地図も持たずただ私の足跡を辿り、あるいは共に進路を切り開いてきた彼女にも、私は地図を指し示し、今の眺めの説明と、残りの行程の見通しを、事細かに伝えた。
この先はいよいよ人跡稀の仙境となろう。そこに私一人の独断だけで進んでしまうことは回避しなければならない。
正直、私自身も、これだけ薮が濃く、またこれだけ道が風化しているとは思っていなかった。
それ故、午前9時半などという腑抜けた時間に出発したのだが、いまは後悔していた。

 ここからの眺めは、彼女にとって初めて峠の稜線を意識するものだったに違いない。
麓から見たのと実際に登攀するのとでは、大いに印象が異なった事だろう。
現実の峠の厳しさというものを、私以上に感じた筈である。

 しかし、彼女は嫌な顔をしなかった。
むしろ、「なんぼのもんじゃい!」。そんな顔だった。
顔が、赤かった。



 薮の厳しさの頂点は、高度的にも一つの頂点だった。
私が勝手に「見晴台」と名付けた場所にて登りが下りに転じる。

 さしあたっての目的地となった鉄塔との彼我を埋める、宏大な緑の谷。
明治道は一旦、その底まで下り切る。
それから再び登り直すのだ。
この道中で最も大きな谷には、堀木沢が流れている。大規模の橋の存在が期待された。
そこは距離的にも峠と麓の中間地点であり、一番辿り着きづらく、一番引き返しづらい場所でもある。
進路と退路が両方いっぺんに狭まっていくかのような、そんな嫌な感覚を覚えながら2人は前進した。



(左)まるで熱帯雨林のジャングルに生えていそうな異様な根の形をした木。板根みたいだ。これに限らず、明治道周囲の森はどこも巨木の森だった。豊富な自然が、殆ど手つかずに残されていた。



 勾配は緩やかだが、次第に下っていくのが森の暗さからも分かった。
ついさっきまで明るい尾根に立っていた我々は、一転、源頭の森へと分け入っていた。
日陰が多い森の底では、道の残りも比較的良好で、久々に快調な道行きとなった。

 たとえ峠へと無事にたどり着いたとしても、スタート地点の「峠の茶屋」まではやはり歩いて戻らねばならない。
夕暮れ後に「空中回廊」などの廃道を歩くのは危険だが、それは避けがたいだろう。
まして、万一峠にたどり着けず引き返す場合を考えれば、時間はいくらあっても足りないくらいだった。



 谷底から急速に立ち上がってきた沢が、行く手を遮った。
しかし、それはあまりに細く、まだ堀木沢の本体ではないことが分かった。
その小さな支流である。

 居並ぶ巨木によってこの森の日照権は掌握されており、地上は思いのほか視界に恵まれていた。
お陰で、失われた橋とその前後に残る道形を、はっきりと確認することが出来た。



 振り返ってみると、今歩いてきた場所も意外に危うかったことを知る。
この先では、いよいよ堀木沢本体へと下降するが、見ての通りに周囲は切り立ち、しかもまだその底は知れない。
果たして、この道は大丈夫だろうか。
足下が道だなどという信頼感はとうに捨てていたが、道が無ければまた谷底へはたどり着けないだろう。
道中でも、この頃ほど不意の行き止まり(進行不能)を恐れた時期はなかった。
ここが、現道からも旧道からも、最も遠く離れていたからだ。




次回、いよいよ探索はクライマックスへ。

人跡稀なる堀木沢源頭に、一行は何を見るのか!

失われた峠路に、下された決断とは?!