仙岩峠については、これまで山行がでも何度も語ってきた。
この峠は、秋田県と岩手県の県庁所在地を最短で結ぶ奥羽山脈越えの峠であり、今でこそ秋田自動車道とその役目を二分しているといえ、開通以来北東北の物流・観光・生活を支える、文字通りの幹線道路である。
この道は一般国道46号に指定されており、国の直轄路線であるころからも、その重要性が窺い知れるであろう。
この仙岩峠について我々旧廃道傾倒者、いわゆるオブローダーが語るとき、必ず話題に出る、いやむしろ仙岩峠と言ってもまず現道を指さないと言うほどに有名なのが、昭和38年10月に開通し、この峠に初めて自動車交通の時代を切り開いた旧国道である。海抜800mの仙岩峠を越える、九十九折りと断崖絶壁を繋いだ全線2車線の完全舗装道路だったが、一年のうち半分は雪に閉ざされ、沿道の景色の美しさから観光道路としても愛称を与えられるほどであったものの、結局は幹線国道として不適と判断されるにいたり、たった14年で役目を終えた道である。
現在の国道は昭和52年に開通した、全長2600mを超える仙岩トンネルを主体とする、当時一流の近代的ハイウェイである。
旧国道の痕跡は、今も山稜に横たわる龍の如く鮮明に残っており、多くのオブローダーに「あっちー」や「キター」を連呼せしめていることは、“山行が”を見るまでもないだろう。(参考:「道路レポ・仙岩峠旧道・再訪」)
ここで、一枚の地図を見ていただきたい。
国土地理院発行五万分の一地形図「雫石」(大正元年測量同4年発行)より
そして、次の現在の地図と較べて欲しい。
仙岩峠を越える道が、昭和38年以前にも存在していたことは言うに及ばず、その路線が、現在の現道・旧道のいずれとも大きく異なる道であったことが、お分かり頂けるだろう。
一言で言えば、旧国道や現国道は竜川沿いに道を求めたのに対し、それ以前の道は、尾根を一つ挟んだ坂本川に沿って峠を目指していたのだ。
そして、大正元年の地図でさえ、なお開通までこののち50年以上を要することになる竜川沿いのルートの一部が描かれていることも興味深い。(なお、当時の地形図の道路の線の太さは、実際の幅員とは無関係で、国道>府県道>町村道のようになっていることに注意。上の地図に描かれている道は、どちらも府県道である。)
藩政期までの道路事情にも詳しい人であれば、この仙岩峠越えの道が、古代から連綿と受け継がれてきた、由緒正しい道であることを知っている人もいるだろう。
この峠道の往来は、近年に劣らぬほど、藩政期にも盛んであったのであり、南部藩(盛岡)と佐竹藩(秋田)を繋ぐ街道であった。この道を、秋田側からは角館街道や生保内街道、盛岡側からは秋田街道などと呼んで、交易(特に馬喰が多く通った)の要であったし、戊辰戦争でもこの峠を軍勢が乗り越えて秋田側へと押し寄せた。その当時は、国見峠と呼ばれていた。
だが、結論から言うと、大正期の地図に描かれている道は、その藩政期までの秋田街道とも違うものである。
そして、現在の地形図に歩道として描かれているのは、なぜかこの藩政期の街道筋であり、大正の地形図にくっきりと描かれている道の一部は完全に消失してしまっている。
そこから、私の興味が始まっていった。
もう少し、歴史にお付き合い願いたい。
時代が明治に遷り廃藩置県がなされ、馬車交通の時代が幕開け、新しい交通網が嘱望されるようになる。
そして、明治8年には秋田県と岩手県で合議し、この国見峠に馬車が通れる道を作ることになった。
両県側でそれぞれ新道の建設を含む改良工事がなされ、不十分ながらも、ひとまず同年中に完成の運びとなる。
翌明治9年3月、明治天皇の奥羽巡幸に代わって北東北を巡見した内務卿大久保利通が、馬車でこの峠を越えた記録がある。
そして、内務卿はこのとき、それまで国見峠と呼ばれていた道に、秋田県仙北郡と岩手県岩手郡の一文字ずつを取り、はじめて仙岩峠という名を付けたのである。(大正の地形図に描かれているのはこの道)
以来、秋田と岩手を繋ぐ仙岩峠は、大小の改良を受けながらも存続し、やがて国道になり、そして現在の地位に至ったのである。
仙岩峠(国見峠)の略年表(明治以降) |
年 | で き ご と |
明治8年 (1875) | 秋田・岩手両県合議の上、内務省の許可を得、国見峠の県道の改修工事を行い、10月までに完成する。 |
9年 (1876) | 内務卿大久保利通が雫石から生保内へと新道を馬車で通過。仙岩峠の名前を与える。 |
15年 (1882) | 県境よりも岩手県側が一級県道に指定される。(秋田県側は道が悪く、この後何度か改修を受けた後に指定されている) |
昭和3年 〜8年 | 農山村救済道路整備事業によって、秋田県側の道が改良を受ける。(岩手県側は不明) |
28年 | 二級国道105号盛岡秋田線に指定される。 |
38年 4月 | 一級国道46号に指定される。 |
38年 10月 | 仙岩峠越えの車道が完成し、南八幡平パークラインの愛称を決定。現在の旧国道である。 |
52年 | 仙岩トンネルを含む現国道が開通し、旧道は田沢湖・雫石両町に移管される。(後に雫石町側の大半は県道に再昇格する)
田沢湖町側の旧道は落石や崩落が相次ぎ通行止めのまま現在に至る。 |
というような具合である。
ここまでを要約すると、この仙岩峠(国見峠)にはおおまかに4世代の道が存在したことになる。
藩政期〜明治9年までの道: 秋田街道
明治〜昭和38年までの道: 県道生保内・雫石線〜二級国道105号盛岡・秋田線
昭和38年〜昭和52年までの道: 一級国道46号(通称旧国道)
昭和52年以降の道: 一般国道46号(現国道)
そして、これらの道を一つの地図に落とし込んだのが、次の図である。
上の図の中で、点線で描いた秋田街道と赤い実線のルートとは重なっている部分が多い。
本編の一番上に紹介した大正期の地形図に記載されていた峠道は、この赤い実線のルートということになる。
そして、今回私が辿ろうとしたのも、このルートである。
従来、自動車道としての時代を過ごさなかった道には余り食指を動かされなかった私だが、昭和37年までは現役の二級国道だった道である。
果たしてそこに如何なる難路が待ち受けているのか、この目で見てみたいと思ったのだった。
それに、地形図から完全に抹消されてしまった区間の存在も気になる。
それでは、ご覧頂こう。
反省点の多い、この旅を。
残雪深き峠
旧国道を通って峠へと
今回の探索は、休日に盛岡へ行く途中、現国道の仙岩トンネルをくぐっていると突如、神託を受けたかのように、前から少しだけ気にはなっていた「あの道」を下ってみようか…という気持になり、チャリと食糧以外は地形図さえ持たずに入山してしまった。
あとから散々後悔することにはなるのだが、読者の皆様はくれぐれもこんな行き当たりばったりの入山は慎んでいただきたい。
まして、海抜1000m近い深山であれば、尚更である。
さておき、私が車からチャリを降ろし漕ぎ始めたのは、旧国道の仙岩峠(以降、これを便宜上「新仙岩峠」と呼ぶ)から雫石町側へ2kmの地点である。
この地点より先の旧国道は国見温泉への県道にもなっており、現役の車も通れる道である。
ここから旧国道をヒヤ潟のある県境まで行き、そこからはいよいよ明治時代までの道に入り、大久保利通が名付けた本来の仙岩峠へ向かう。
右の地図上の緑の矢印の通りに進むことになる。
もう何度目になるだろう。
私の大好きなこの旧国道は、かつてチャリで何度も越えているが、雫石側から登るのははじめてだ。
簡易ながら通行止めのバリケードもある国見温泉との分岐地点から先にも、山菜採りの車が大勢入っており、両県の山菜マニア達が熱い視線をこの旧国道に浴びせていることを実感する。もはやこの場所のこの光景も、この時期の風物詩のようになっている。
だが、豪雪といわれた昨冬を証明するように、分岐から一つ目の橋の上に既に山のような残雪があり、車は列を成して駐まっていた。
ここから先は、我々チャリと、歩行者だけの世界となる。
旧国道は至る所でこのような雪渓に覆い隠されており、登っていく途中何度も山菜袋や籐籠を手にした歩行者に出会う。
また、雪渓の上には二筋ばかり、自分とよく似た轍が刻まれており、ここ数日中に誰か同胞がこの峠越えを企てたようだ。
引き返してきたような跡もないので、田沢湖側へ抜けていったのだろう。
何度来てみても、また色々な時期、時間に来てみても、毎回思う。
美しい峠だと。
まず、いかにも高山然とした清楚な山並みが美しいし、そこに廃れた道路があり、近代的な高圧鉄塔が渡る。
峠というものが人の心を打つ要素を全て、この峠は兼ね備えているのではないかとさえ思う。
新仙岩峠は写真右端の稜線あたりで、明治期の仙岩峠は正面の鉄塔が二本建っている辺りだ。
昭和の仙岩峠と明治までの仙岩峠とは、正面の稜線を経て通じていることになる。
分岐地点からわずか8分ほどで、おなじみ新仙岩峠に到着。
押し黙ったまま瑠璃色の瞳を真っ直ぐ空へ向けるヒヤ潟。
その上を楚々として渡り行く高圧線。
鞍部にあってその存在感を誇示する開通記念碑。
今年も何も変わっていない景色に、安心する。
だが、いつもなら目的地だったこの峠が、今回は始まりの地になる。
県境を挟んで東側となる雫石側は残雪の量が半端でなく、おそらくこの深さは5mできくまい。
写真右側の、木々が少し途切れている部分に本来の仙岩峠へ続く砂利道があったはずだが、その入口は全く以て確認できない。
これは夏場の同地点の様子だが、このような小径が稜線上へと分かれているのだ。
入口だけは鋪装されているし、「旧秋田街道」と書かれた標柱も設置されている。
今回は、余りの雪の多さに正直、末恐ろしい物を感じたが、雪渓はよく締まっているのでなんとかなるかなー……。
で、この日(探索当日)の秋田県側の様子。
え?
全然雪がない?
無いですねー。
同じ峠の表裏とは思えない景色である。
このまま下っていけばさぞ楽しそうだが、その誘惑を断ち切って、今回は再び雫石側へと下る道を選ぶ。
峠から見渡せる秋田県側の山容。
足元に広がる広大な谷は堀木沢で、明治期のルートは旧国道とも異なり、この谷間を縫っていたことが判明しているが、その実踏調査は今後に期待していただきたい。
とりあえず、今回は雫石側に専念する。(というか、現時点では秋田側の明治道の入口さえ定かではないのだ……)
峠に来る者全ての前に屹立する仙岩峠貫通記念碑。
「貫通」といっても、この旧国道にトンネルは一本もなく、ただ山に沿って黙々と尾根を越える道だったわけだが、それでも「貫通」と表現したのは、長年の悲願であった本格的な車道開通の歓びの大きさや、克服した峠の険しさそのものを暗示しているようだ。
この開通記念碑が本来の往来の目に留まった期間はあまりに、短かった。
建立14年後には、今度こそ長大なトンネルがこの山嶺を貫通したのだ。
道路を完全に埋没させてしまった峠の大雪渓の上から、北側の稜線を見渡す。
鏡のようなヒヤ潟の左に続く稜線の空に達している辺りが、明治以前の峠道の最高所だった「国見峠」である。
現在も、ヒヤ潟からあそこら辺までは歩道があるらしいが、その先はもの凄い笹藪で、本来の秋田街道は確認できないそうだ。
私は、雪渓の下に道の姿を想像しながら、国見峠とは新仙岩峠を挟んで反対側にある仙岩峠へ向けて、歩き始めた。
もちろん、チャリを連れて。
峠から峠へと
右側には電波塔の建つ主稜線が急な雪面の上に続いている。
数年前にも一度、仙岩峠までは行ったことがあった。
周囲の景色をそのときの僅かな記憶と比較しつつ、目印に乏しい雪原を進んでいった。
気がついたらまるっきり道と関係ない場所にいたりしたら、マジで遭難しかねないので慎重に進んだ。
また、立木の周りは深さ3m近い穴になっていたりと、危険が多いので近付かないように気を付けた。
県境の稜線の少し岩手寄りに、一際雪の浮き出たラインが鮮明にあった。
これぞ紛れもなく道路の名残り。
よく締まった雪の上を、チャリを押しながら進む。
一度乗ってみたのだが、滑って左の笹藪に連れて行かれかけたので断念。
危ないよ〜。
地図を見る限り、新仙岩峠から、本来の仙岩峠までの稜線道は、だいたい1700mほど。
殆ど道は平坦だが、微妙に上っては行く。
数年前はそこまで車が入っていたが、昨冬の豪雪のせいで今年はまだ当分は無理そうだ。
入口から300mほど雪の上を進んでいくと、稜線が少し下がってきて、道は自然と稜線上に送り出された。
ここで本来の砂利道が現れ始めると、あとは殆ど雪渓に邪魔されることなく、気持ちの良い新緑の稜線道路だった。
まるで窓のように木々が切れた向こうから見えたのは、山頂に白く輝くレーダーが設置されていて一目でそれと分かる貝吹岳(992.4m)。
あの近くまで稜線の道は続いている。
なんというか、まあ、ミニ塩那道路(天空回廊)チックなところはある。
ここが2級とはいえ国道だった時期があるのだから、ある意味塩那以上かも。
ただ、残念ながらこの道が国道として車を通したことはおそらく一度もなく、現地にも国道時代を彷彿とさせるような痕跡は一切無い。
境界標や、県の標柱さえ見当たらないところを見ると、そもそもが2級国道指定からいって新道を作ること前提のものだったのではないかと思われる。
そんな思惑とは無関係に、この道はとても美しく、訪れる者に深い癒しを与えてくれる。
県境稜線上とは思えないほど穏やかな、木漏れ日と風渡りの道。
たまりませんな。
この道端の小さな広場には、かつて「お助け小屋」という小屋が建っていた。
べつにビックリマンシールとは関係ない。
明治頃まではこの峠を通る旅人達に盛んに利用された、今で言う山の避難小屋のようなものだ。
やはりこの峠は険しかったようで、このお助け小屋の含め、峠には他にも2箇所の小屋が設置されていたという。
また、ここではただ休むだけではなく、往来する人たちの信頼関係に頼った荷物の引き継ぎが行われていた。
例えば生保内から雫石へと向かう荷物を、生保内の運び人がこの小屋に、行き先札を付けて置いておくと、それを見た雫石側の運び人が、戻るついでに荷物を運んでくれるというわけ。
バッと右側の視界が開けた。
そこには北日本の山独特の、白と濃緑色、そして空の青とが絶妙にコントラストした景色が。
生き返るな〜。
きもちぃ〜な〜。
一番高いところが貝吹岳で、その左の鉄塔が立っている鞍部が、目指す仙岩峠である。
さらに進んでいくと、大音響でラジオをかけながら道に腰掛けておにぎりを食べる2人組の登山者に出会った。
或いは山菜採りだろうか。
軽く会釈してさらに稜線上を進んでいくと、いよいよ笹原に覆われた仙岩峠が近付いてきた。
ここはもう森林限界に達しているようで、大きな木々は生えられない。
この仙岩峠には、「秋盛幹線」をはじめ3線の高圧鉄塔が、まるで空の覇権を争うように跨いでいる。
そして、いまや廃道となるにやむを得ない旧街道の道が、僅かでも存続を許されている最大の要因は、これら大量に設置された鉄塔の管理歩道としての役割なのである。
もっとも、それらの道は必ずしも旧街道を踏襲してはおらず、単にそれを辿っていっても、下界にまで連れて行ってはくれない。
鉄塔の足元はよく刈り払いされており、絶好の休憩場所になっている。
この「秋盛幹線226番鉄塔」が、仙岩峠の何より勝る目印となっている。
ここまで、分岐からは17分を要した。
雪渓のせいで思ったよりは時間を使ってしまったが、本番はこの先。
ここまでは、かつて一度偵察に来たことがあったのだが、そのときはとても、この先の下りに入り込む勇気は持てなかった。
そして、この場所はもう……。
ことば、要らないよね。
峠から、北側の眺めが特に素晴らしい。
アスピーテ特有の、ゆったりとした山容が、まるで馬の背骨のように続いている。
そして促されるままに目で追っていくと、一際高く、青く、俊とした嶺。岩手山(海抜2038m)に遭着する。
その構図自体がもう、どんな絵画以上に絵画的で美しい。
有史以来、幾多の有名無名なる人々が、殆ど変わらぬこの景色を見たに違いない。
で、東側に切れ落ちた谷間に目を向ければ、美しいとばかり言っていられなくなる。
この中央の谷が坂本川で、これから挑む明治道はこの谷底まで下っていく訳だ。
そこには、天下創造の巨人の置いた道標のように、幾つもの鉄塔が連なっている。
起伏などお構いなしといった感じに。
遠く盛岡市が白く反射している。
さらに向こうは霞む早池峰山やら北上山地の山々が、地平線ならぬ地山線を形作る。
もし羽根があったなら、飛びてー!!!
鳥になりてぇ!
ってか、飛べそうな気さえしないか?
……いや。
こ、怖いかも。
鳥ならイイよ。
でもさ、おれ……。
チャリだぜ。
この擂り鉢みたいな谷に一度下りる道を選んだら。
もう、戻って来れないんじゃないの??
大袈裟じゃないかって?
いやいや。
だってさ、地形図にも描かれてないんだぜ。
江戸時代の道は描かれているのに、下りのどっか途中で分かれる明治道はさ、地図にもない。
頼りは、大正初期の地形図の中に描かれた、あの曖昧な、羊腸の如き道のみ……。
そして次回、その不安は現実の物となる!!!
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