国道46号旧旧道 仙岩峠(雫石側) 最終回

公開日 2006.08.03
探索日 2006.06.03



破綻の結末

あまりに強引な馬車道

 明治8年に完成し、しばらくは馬車も通れたという峠道は、実際に昭和38年まで現役の国道だったはずだが、長らく地図上だけの国道と呼ばれていたらしい。仙岩峠は当時いわゆる「不通国道」だったのだ。
今日の仙岩峠の重要性を考えれば、ここに車の通れる道がなかったことなど信じがたいが事実である。

 薮を掻き分け倒木を跨ぎ、その殆どの区間でチャリは邪魔者でしかなかった廃馬車道も、いよいよ坂本川の谷底に近付いていた。
だが、谷を下るほどに地形は急峻なものとなり、沢を埋める水量も増えていく。
そして、沢音を伴って私の前に現れた、深き谷。
覗き込めば、刻まれた段々畑の如き道の痕跡が見える。
クライマックスは近い。


 急な斜面を削った法面には土留工らしき痕跡もなく、ただ削って揃えただけと思われるつづら折れ。
もはやここは道と言うよりも、遺跡という佇まいである。至る所で決壊し、道幅を失っていた。
現存する部分から往時を想像すれば、少なくとも4段の道がこの30m四方程度の斜面に刻まれている。
大正期の地形図にもこのようなカーブは描かれていないが、これはもはや通常の縮尺の地図では描けないようなカーブである。
道幅も2mあるかないかで、各直線の先端は次の段に直接接している。
曲率半径などという近代的な言葉で語るのも馬鹿らしい線形で、すなわちカーブの半径=道幅という状況である。
もしここを車で通るとしたら、スイッチバック以外考えられないが、馬車のスイッチバックって…?



 にしても、この有様では、本当に旧国道が昭和38年に開通した頃にはもう既にこの馬車道が廃道同然だったことが容易に想像される。
明らかに自動車交通時代にそぐわない道である。
実際、昭和30年代の旧国道が現れた最初の地形図でさえ、もう既にこの馬車道は点線としてさえ描かれていないのだから。



 大きな土砂崩れでもあったのか、一番下の段はすっかり消えている。
沢に浸食されたのかも知れない。

 とはいえ、しばらくぶりにこれだけ鮮明な道路痕跡に遭遇し、私の中に燻っていた不安の炎はだいぶ落ち着いた。
今回はかなり乱暴な探索であったが、まだなんとか明治道を辿れているらしい。
坂本川まで下りれば、後は林道が迎えてくれるであろう。
 実は、この場所に出会う直前、あの植林地で道を見失ったときには、本当にチャリを捨て、身軽になって遭難だけはしないよう最善を尽くすべきではないかと、そう考え始めていたところだった。
返す返すも後悔したのは、地形図を持ち込んでいなかったことだった。



 残雪が僅かに残る沢底に着いた。
道なのか、ただの沢なのか、よく分からない地形だ。

 さて、この先の道は……?



 今回のレポのクライマックスシーンはおそらく、この景色。

 明治馬車道の信じがたいつづら折れ。
日本には殆ど馬車交通の時代はなかったなどと評されることが多いが(導入は藩政末期、明治5年以降は鉄道交通に陸上の主役を奪われ早々と消えていったというのが一般的な見方)、鉄道は全国一律に導入されたわけではなく、東北地方でも特に東北本線沿線の他では比較的長く馬車は陸の主役であったのだ。
大正に入ってもなお、この仙岩峠は改修を受けた記録があり、実際に往来が盛んであったことを感じさせるのだ。(流石に昭和期に入ると馬車はどこでも衰退した)



意外な発見


 谷底は地形の変動が激しい場所であり、おそらくこの地に進路を取っていただろう馬車道も、その痕跡は乏しい。

 従来、私が主に辿ってきた廃道には、クルマの轍というものが多かれ少なかれあったものだが、この仙岩峠の馬車道はその重要なヒントが無い。
それだけに、目で見て取れる地形だけが判断の全材料であり、スリリングである。
この時の私にはそんなスリルを楽しむ余裕はなかったが。
こんな場所で道を見失ったら、来た道を戻れる自信がない。(少なくともチャリは戻せなさそう)



 で、かなり慎重にルートファインディングをしながら下っていたつもりだったのに、気付いたら道の痕跡は対岸に…。

 ため息をついてから、間違って下ってしまった分を戻る。
ずっと焦りを感じながら突き進んできたばかりで、それに下り坂が多かったせいか、疲れはあまり感じない。
仙岩峠を出発してちょうど1時間が経った。そろそろ正午だ。



 戻ってはみたが、路盤跡の殆どは沢に削り取られ、結局はチャリを担いで沢を跨がねばならなかった。
だんだん、何でこんな道でもない山野にチャリを引きずって歩いているのか、自分が滑稽に思えてきた。
この感覚……、久々だ。
確固たる道の痕跡を辿ることが出来ず、かなりアバウトに、とにかく下山することを第一目標としたこの日の探索は、数々の反省と同時に、昔懐かしいチャリ馬鹿時代の感激を思い出させもした。
…廃道などといういう目的もなく、写真さえ撮らず、ただ山野をチャリで放浪した、懐かしい日々だった。



 小さな沢に伝って、微かにそれと分かる道跡が続いている。
行く手から、足元の沢音とは違う、もっと大きな沢の流れる音が聞こえてきた。
やっと、坂本川が近いようだ。
本流に降りれれば、そこには林道が迎えてくれる期待があったが、怖いのはその降り口である。
林道があるとすれば沢の対岸なわけで、もし橋もなく、跨げないような谷川だったら…。

 …考えるのは止そう(笑)。


 そして足元には巨大な泥団子
って、熊の糞だろこれ!
思わず、 「わー
とか、叫んでみた。




 クワッ!

 石垣だ!



 よく見ると、石垣は沢を挟んで両岸にあった。

 ここには、かつて橋が架けられていたのだろう。 今回初めて見る、石垣であり、橋梁跡である。 風化が激しく、橋台さえ殆ど原形を留めていない。 苔生した丸石が両岸の斜面や、沢底に大量に散乱している。

 いまだかつて、これほどに原型を失った橋の跡を見たことがあったろうか。
林鉄跡ならばいざ知らず、国道……。
これは、文句なくアツイ発見であった。
(絵的にはショボイがな。)



 ……と、ここで大問題発覚!

 チャリをとりあえず置いて、崩れた橋の先の道を偵察してみたのだが。
そこには道など無い。
まるっきり無いのだ。
ただ、20mほど下方に坂本川の本流が音を立てて流れているばかりである。

 徹底的に捜索したら道が発見される可能性はあったが、いずれにしても、とてもチャリを持って行ける状況では無さそうだ。
さっきの崩れた橋だってチャリを持って乗り越えるのは相当に大変そうだしな。


 それよりも、とりあえずは目標としてきた坂本川が足元にあるわけで、強引すぎる気もしたが、もう、坂本川に身を委ねることに決めた。 私を林道へ連れてって〜。

 単独探索であり、準備も不足していたために、いつものようなねちっこく徹底的に道を探すというスタンスを貫けてません(笑)
堪忍して、すべては生還のため。


生還への川下り


 これは、大きな決断であった。
しかし、ここまで来て進路を完全に絶たれてしまった今、残された道は唯一、沢に下りることより無かった。
山で沢へ下りるという行為は、いつだってリスキーだ。
まして、チャリ同伴となれば、いよいよ進退窮まる危険性が高い。
滝や淵、砂防ダムなどがあったらヤバイ。
これまで私の長い山チャリ経験の中でも、道を失って最後に沢へ下りたことは、2度。
そして、これが3度目だった。

 崩れ果てた橋台の袂より、チャリを沢へと進めた。



 ここから先は、一切のフォローが期待できない。
かつて人が通う道だったという、最低限度の保険さえ無いのだ。
チャリさえなければ、 チャリさえなければ…。
思うことはそればかりだが、可能な限り連れて行かねば。
 



 幸い、本流へ達する流れはそれほど急ではなく、岸辺の岩場をどうにかこうにかチャリを持ち上げて進むことが出来た。
だが、こうなるともはや進行のペースは極度に落ち、もしこんな道中が1kmも続けば、それだけで日が暮れてしまうのではないかと思われる。

 間もなく、坂本川の本流に合流した。



 雪解けの冷たい水に太ももまで浸かりながら、かなり荒れ果てた印象の坂本川を下る。
額の汗も、鼻の頭の血も、かかる水飛沫で流れていく。

 大正期の地形図では、この左岸に道が続いているはずだが、見上げてみてもそれらしいものはない。
その代わり、左岸は大きく崩れたような斜面が長く続いており、道もろとも落ちてしまったのかも知れない。
だとしたら、道を見失ったのも納得できる。



 いい感じにチャリも洗われている。



 川を歩くこと10分。距離にして300mほど。
右岸に明らかに人工的と思われる築堤を発見。
林道であると信じ、急な砕石の斜面に七転八倒しながら、どうにかこうにかチャリを押し上げた。
先に偵察してから登ればいいのに、私はもう、信じ切っていた。



 助かった。

 仙岩峠を発し1時間半。出発から約2時間で、坂本川沿いの既設林道に脱出した。
高低差400m強。距離は推定3.5kmほどだったろうか。
思いのほか苦労した。
というか、今回はもっと重大な結果になっても文句は言えなかったと思う。
各所各所での判断が甘く、運に助けられはしたものの、私にとって“廃道出会いの地”である仙岩峠は、決して甘い顔をしなかった。



 この馬鹿面が、この日の駄目さ加減を物語る。
そして、今も消えない鼻の傷は、それなりの山へ行くときには準備をちゃんとしろと言う罰だった。
誰が地形図も持たないで海抜900mの廃道を走れと言ったか。
愚かだったと思う。
無事に出てこれたのは、本当に僥倖だったと思う。



 幾重にも重なりあい、峠の稜線を遠くのものとする山並み。
だが、少し前には私はあの上にいたのだ。
昔の旅人たちが仙岩峠と言ってイメージした景色は、今日の国道から見上げる高原然とした山並みではなかった。
むしろ、大蛇のような稜線を束ね、険路を想像するに余りあるこの眺めだったのだろう。
人力で越えるにはあまりに遠大な景色に思えるが、かつて日常的にこの峠を往来した人々も少なくなかった。
交易に生計を立てた行商人たちや、馬喰といわれた馬商人たちがその代表格だった。



 林道は余り通行量もないようで荒れていたが、これまでの道から見れば天国そのもの。
生還の歓びと安堵を噛みしめながら下っていくと、間もなく新しげなコンクリート橋が現れた。
渡ると、そこが小さな駐車スペースになっており、「旧秋田街道」の標柱が立っていた。



 標柱のある橋の袂で道が分かれており、坂本川の上流へ続く小径が、明治道や江戸道の峠への入口である。
江戸道のほうは地味だが自然味の濃い登山コースとして知られているようだが、その途中で分かれた明治道は全くの廃道そのものであった。
特に下流に来るほど、鉄塔の管理道とも離れてしまい、廃道の度は濃かった。
 この入口を入ってすぐの場所に明治道と江戸道の分岐があるはずだが、確認できなかった。
やはり坂本川に沿った明治道はほぼ完全に消滅しているのかも知れない。



 次第に轍の濃くなる砂利敷きの林道を3kmほど下ると、やっと水田が現れ、人家が近い雰囲気になってきた。
しつこいようだが、これも国道だった道である。
自分にもそう言い聞かせなければ、忘れてしまうほどそれらしい発見はないわけだが。

 総じて言えば、この峠道は古道ファン向け。
旧国道や旧道好きには、廃れすぎているというか、まあ、うん。
ねぇ。



 そのまま、道の駅雫石のまんまえで国道46号(現道)に接続。
砂利道が突然、多くの車が犇めく国道にぶつかるので、違和感がある。
しかも、流行の道の駅の真っ正面だし。鼻の怪我が恥ずかしいぜ。

 こうして、一応何とか峠から雫石までの明治道を辿った。まあ、自己採点は言わずもがな。
ともかく橋の痕跡や、あのつづら折れを体験し、なにより馬車時代の道が確かに存在したことを確認できたので、成果としてはまあヨシとしよう。



 こうして地図に起こしてみると、未踏査区間が多いな…。
それに、さらに謎に包まれた秋田県側の明治道は、全く不明のまま。(大正期の地形図には記載はあるが、最近の版では点線さえ描かれていない)
いずれ、再挑戦だな。