道路レポート
国道283号線 仙人峠 その3
2004.8.26
素堀の待避口
2004.8.11 10:27
歩道も路側帯もないギリギリの隧道内で、車列に追い立てられるようにして逃げ込んだ待避口は、私が期待している姿ではなかった。
広さは申し分ないが、足元が泥っぽい土だ。
そのことに気が付き、手持ちのライトで壁を照らしたが、壁は明らかに凹凸を見せている。
しかも、その壁は墨を塗ったように真っ黒で、光を吸収してしまうのか、全然光が広がらない。
壁に近寄って、恐る恐る手を触れてみる。
ヌメッとしていて、コールタールのような泥が指先にまとわりついてきた。
これは、厚く壁に付着した排気ガス由来の煤と思われる。
永く蒸気機関車が往来した廃隧道でも、こんなのは見たことがない。
壁の凹凸は、素堀とは異なり、かなり丁寧にカッティングした岩盤にコンクリを吹き付けた状態のようだった。
故に、パッと見は通常の待避口のように見えるだろう。
パッと見でも異様なのは、ここのライトが消灯しており、真っ暗闇であることだ。
幅・高さとも、本坑に及ぶほどに広い。
奥行きは、手探りに様な感じで進むと、10mほどで側壁と同様の黒い壁に遮られた。
そこには扉などはなく、行き止まりのようである。
壁の微妙な凹凸が、フラッシュで白く浮かびあがって写った。
本坑に戻り、釜石側の残り2000mほどの行く手を見る。
いまは、不思議なほどに洞内は静かだ。
まだ豆粒ほどの出口まで、一台も車の姿はない。
この隧道内で、車は皆、不思議と車列をなして来た。
なぜその様な事になったのかは、釜石側の下りで納得することになる。
とりあえず、愛用のライトの電池が心許なくなってきたので、暗い待避口に跪いて、交換を行った。
お陰で、待避口の入り口からも、奥の壁が照らせるようになった。
上の写真にも隅に写っているボックスは、空気清浄機のものだった。
一酸化炭素浄化装置と書かれていたように記憶している。
見たところただのボックスであるが、どのような働きをしているのか。
私のように、ただ通り抜けるだけでなく、洞内に不要に時間を使うものの安全も、守ってくれるのだろうか?
ちょっとだけ不安を感じ、待避口を後にした。
しかし、予想通り待避口は一カ所だけではなかった。
他の待避口の様子
10:28
トンネルは真っ直ぐで、ほぼ平坦であった。
仙岩峠の仙岩トンネルなど、大概の長大トンネルは片勾配であったり、或いは峠型に撓んでいたりするが、ここはまるっきり真っ直ぐだ。
写真が傾いているのは、私の失敗である。
車との対比で、待避口の大きさを感じて頂きたい。
これは、先ほどの待避口の500mほど先に、今度は進行方向左手にあった待避口からの撮影である。
この待避口が先ほどと異なるのは、2点。
一つ、本坑の明かりとは異なる白い白熱灯が点灯しており、待避口全体を淡く照らし出していたこと。
もう一つ、奥は岩壁ではなく、金属製の重厚な壁であったことだ。
この壁には、興奮を隠せなかった。
天井からも出水も凄まじく、水滴と言うよりも、ホースの先から出るように、水が流れ落ちていた。
これら違いを除けば、壁の様子などは、先ほどのものと同様だ。
そして、注目は壁に扉があることだった。
取っ手も付いているのだが、無念。
重く施錠されておりビクともしなかった。
悔しくて扉を叩く私だが、返事があったら逃げようと思ったが…返事もなく、ただ、奥からも水の流れる音が聞こえていたように思う。
写真の目立つホースは、天井から鉄壁の裏に通じているようだった。
さて、この仙人隧道の不自然な待避口の扉だが、おそらくは、坑道である。
このことは、隧道の釜石側出口に設置されている顕彰碑からも知ることが出来るが、元々の隧道は、決して道路用となる予定ではなかった。
一体の山中に全長2000kmも張り巡らされているという釜石鉱山の坑道の一つだったのだ。
さらに言えば、探鉱用坑道だった。
顕彰碑に示されている内容を要約すれば…
仙人隧道ははじめ、日鉄鉱業株式会社によって1952年に探鉱目的で着手された。
その後、内陸部との交通を確保したいという釜石市民の期待に応え、日鉄社の協力を持って、道路用トンネルとして貫通させられたのだという。
日本道路公団による仙人トンネル道路として開通したのは、1959年9月のことである。
釜石市の建立した顕彰碑の故、多分に日鉄社の功績を讃える配慮はあったと思われるが、出鉱の期待がほとんど無くなった後も日鉄社による開削は続いたのは事実で、企業市民として地域社会に貢献した日鉄社やその釜石工業所の栄誉は讃えられて然るべきものであろう。
写真は、ねっとりべっとりした壁の様子。
天井にもよく見ると、金属の扉らしいものがある。
どうやらこの隧道には、我々一般の通行者が預かり知れない、広大な空洞が存在しているようである。
釜石鉱山2000kmの坑道にも接続しているのかも。
また別の待避口の様子。
出来るだけ車が少ないタイミングを狙って、約500m置きに現れる待避口を繋ぎながら走った。
どの待避口にも、全くと言っていいほど利用されている形跡がなかった。
車の轍や、足跡、放置されたゴミなどは、ほとんど無い。
この隧道を歩く人は少なそうだし、自転車というのも、居なくはないだろうが、多くはないだろう。
圧倒的多数の通行者である自動車にとっては、この待避口のお世話にならないのが前提であり、万が一車をターンさせる必要が生じるような事故や災害に見舞われたら、きっと多くの命が失われるだろう。
全長2500mに非常電話が数台と待避口が4.5カ所。標識によれば消火器もあるそうだが、見つからなかった。
ラジオも、洞内信号機も、排煙装置もない。
終わっている。
はっきり言って、ひとたび車両火災があれば、大惨事は堅いだろう。
ある意味、恐い隧道である。
私は、この隧道にまつわる怪談を聞いた。
なんでも、仙人隧道の名は、「工事で人が千人死んだ」からとか、そんな噂もあるらしい。
馬鹿げているけど、千人とは行かないまでも、百人くらいは一気に犠牲になるかも知れないと思うのだ。
いまのままでは。
まあ、そう言う危険に気が付いて、現在の仙人道路建設があるのだろうけど、こんな状態のままでウン十年も使われ続けていたというのは、驚いた。
最後の待避口を過ぎ、あとはもう出口へ向けて一直線。
追い風だから、余り漕がなくてもチャリはどんどん進む。
次々とすれ違う車達。
薄暗い洞内、ナトリウムネオンのオレンジに支配された世界では、金属の光沢を放つ車はどれも一様に見える。
そして、中に人が乗っている事さえ忘れそうになる。
まるで、隧道を通過している間だけは自動操縦なのかと思われるほどに、どの車も坦々と、一様に連なって走っている。
トンネルの持つ、通路という機能の純粋さを感じさせる光景だ。
壁に接触防止を期してか、白と赤にフラッシュするライトが内壁に等間隔で設置されていて、それはランディングを待つ滑走路を連想させた。
あともう少し。
まるで私も風になったような気分だった。
大きな風圧を伴って流れる空気に乗って、出口から吹き出す感覚。
脱出と同時に沸き上がる開放感を、全身が期待するのだった。
3
2
1
脱出!
10時41分。
入洞から18分で、仙人隧道を通過し、釜石市の人となった。
トンネル以上に衝撃的だったのは、このさきの下り坂だった。
次回、最終回。
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