2014/5/20 9:16 《現在地》
私の知らない道、海、川、川。
新しいエリアへ踏み込んだ初日ほどワクワクする日は、そうそうない。
繰り返し訪れているエリアの故郷にも通じるような安心感は心地がよいが、これまでの自分の経験の全てをもって新しい風土を全力で理解し、自らの新しいフィールドへと変えていく“開拓”の面白さも、かけがえがないものだ。
この二つは探索における両輪であって、私にはそのどちらも同じくらいに尊い。
過去に私が探索した西の限りは大阪府までだったのに、そこから一気に数百キロも西へ離れた中国地方の出雲地方へとやって来た。
ここで過去の私が経験しているものとしたら、旁らで静かな波を打ち寄せている、日本海くらいなものであった。
この青看の「十六島」に振られたローマ字を見て欲しい。
「Uppurui」とある。
この地名の読み方は、ローマ字の通りで、「うっぷるい」という。
まるでアイヌ語地名のような語感だが、角川日本地名辞典では由来未詳としつつも、朝鮮語説などいくつかの説を上げている。
そしてこの珍しい地名を記した青看があるのが、県道23号の不通区間の南口となる島根県出雲市の小津(こづ)だ。
県道23号は冒頭でも述べたとおり、東西に細長い島根半島の西側を巡る幹線で、大部分は日本海沿いの道である。
だが、厳密には海岸から内陸にルートが入り込んでいる部分が何か所かある。これから先の不通区間となっている山越えも、そんな区間である。
県道23号の不通区間を最短で迂回して進むためには、この交差点を左折すれば、十六島経由で釜浦を経て不通区間の北口である塩津へ出る事が出来る。
迂回と言ってもほんの2kmほど遠回りなだけだし、県道23号が未だに整備されていない一因が、この便利な迂回路にあるものと思う。
迂回を選ばず、あくまでも県道23号だけを頼って塩津を目指そうとするならば、
迷うことはない。
青看の導きに従って、右折する。
あくまでも「県道23号」と表示されている道を選べばよい。
右折して300mほど小津集落内を走ると、再び青看が現れる。
そしてこの50m先の分岐を予告する青看に、不穏な表示が。
2.4Km先
車両通行止
通り抜け
出来ません
最近設置されたらしい青看だが、妙に道の線が細いのが気になる。
主要地方道の行き先が、「車両通行止め」だけだというのが泣けるぜ。
9:26 《現在地》
予告通り現れた分岐。
左折するのが県道23号で、直進は県道275号である。
三方からこの交差点に来ることが出来るが、青看があるのは今私が来た方向だけだった。
ただし、青看ではない、別の“道標”が存在していた(矢印の位置)。
「出雲市・出雲観光協会」が管理しているらしい木造の道標(出雲市の誕生は平成17年だが、多分それ以前の平田市時代の設置か)には、左折の方向を指して「相代」という案内に加え、消えそうな文字で「塩津方面へは通り抜けできません」の但し書きがあった。
いろいろ、望むところだぜ!!
いざ、通り抜け不能が予告されている区間へ突入する!
とりあえずここから見える範囲は、どこにでもありそうな1車線の道でしかないが、
この先にはどんな風景が待ち受けているのか。島根県で体験する初の不通県道だ。
左折して20m地点の道路脇に、一体の古ぼけた地蔵と、「絆」の大きな文字が彫られた真新しい石碑が並んでいた。
そして「絆」の碑の裏側には、「履歴板」と題されたプレートが嵌め込まれていた。しかして、その内容は…
履 歴 板
県道二十三号改良工事は
平成七年度に着工され、その間
土木委員(略)県会議員(略) らのご支援と
小津、相代の地権者皆様の協力により
相代入口〜穴地蔵橋間が県単工事
予防、砂防工事により平成二十三年度に
完成を見た。
事業主体 島根県
施工 (有)山根建設
小津区
主要地方道にしてはしょぼい道だが、今さらその程度で驚かないのは、皆さまも一緒だろう。
ここから日本海に面した塩津集落へ出るまでの山越えは、途中に自動車交通不能区間を挟みつつ、3.8kmの道のりである。
そしてこの途中に、海抜190mほどの峠がある。
こちら側から峠までは約2.3kmあり、相代川沿いに登る。
残りの1.5kmが峠から海岸へ下る区間であり、距離の割に高低差が大きい。
そして、自動車交通不能区間の大部分は、峠の先の下りの区間である。
休耕田らしき緑の原っぱが目立つ谷間の道をのんびり走ること、約700m。
そこに最初の分岐地点があった。
9:41 《現在地》
ほぼノーヒントで二手に分かれる道。
県道の正解は右折で、相代橋という、まだ新しい橋を渡る。
左折は出雲市道の相代線で、この山の中腹にある相代集落の生活道路であり、おそらく集落と外界を結ぶ唯一の道である。
目に見える道はこの左右の2本だけだが、実は平成10年代より以前は、右の道の代わりに、ちょうど中央のゼブラゾーンの辺りに道があった。
そしてそれが県道23号であった。
本編の中では枝葉末節に属する話しではあるが、この先の区間における県道23号の現道と旧道の関係は、分岐地点にある砂防指定地の案内板から窺い知ることが出来る。
この地図中で川をせき止めるように描かれている黒いものは砂防ダムである。
砂防ダムを建設したことで、従来の県道は土砂の堆積に呑み込まれて失われてしまった。
そしてその代わりに建設されたのが、相代川左岸の現県道である。
この砂防指定地の看板がいつ設置されたものかは不明だが、県道斐川一畑大社線が主要地方道に昇格したのは昭和57年なので、そんなに古いものでは無いはずだ。
相代川の左岸を走る区間は長く続かず、砂防ダムの影響範囲を過ぎると、また元の右岸に戻るのであった。
ここで再び相代川を渡る橋の名前が、穴地蔵橋であった。
この橋の名前に私は憶えがある。
記憶を手繰ってみると、なんのことはない、この県道へ入るときに見た「絆」の碑に書かれていた文章だ。
あの碑には、平成23年度に県道23号の相代入口から穴地蔵橋までの改良工事が、予防砂防工事として完了したということが書かれていた。
つまり、碑があった県道入口の地点から、この砂防ダム上手の穴地蔵橋までは、平成23年に改良が終わったばかりの区間であったと言う事だ。
道理で、路面も橋も妙に小奇麗だったわけだ。
その影響かは知らないが、青看まで立派に完備されていた。
小奇麗な改良済み区間が終わった先に待っていたのは、一挙に狭まった道だった。
私は自転車だから良いけれど、車だと対向車が来ないか神経を使うような道幅で、しかも待避所らしきものがあまりない。
こういうのは、いかにも古い道っぽい。
比較的現代になってから作られたような林道なんかだと、道幅は1車線で同じでも、定期的に待避所があったりするものだが、自動車が余り普及していない頃の古い道にありがちなのが、この待避所の少なさなのである。
そしてもうひとつ、より直接的に道の古さを感じさせたのが、路傍の小祠に埋め込まれたようなお地蔵さまである。
この場所は先の「穴地蔵橋」からさほど離れていない。他に地蔵らしきものも見あたらなかったので、これが「穴地蔵」だろうか?
見たところ、穴らしきものはないのだが…。まだ萎れていない榊の枝が供えられており、この道を車以外の手段で、定期的に行き来している人が、おそらくいるらしかった。
通行量なんてたかが知れているに違いないのに、一丁前に鋪装があり、そして両側に白線が敷かれている。
それゆえに、余計道幅の狭さが際立ってしまっていた。
ここまでの区間、一台の車とも行き交っていない。
上り坂は案外に急で、私の進行を鈍らせはしたが、それでもたかだか数キロである。
たいした時間もかからぬうちに、私の居場所は麓と峠の中間を過ぎて、峠の方へと近付いていた。
9:51 《現在地》
更に進むと、左の山手から急坂で合流してくる道があった。
これは先ほど分かれた市道相代線である。
写真は合流地点を振り返って撮影している。
合流地点にゴミ収集ボックスが置かれていることからも分かるように、相代集落はこのすぐそばにある。
あるのだが、各々の民家は市道に面して建っているようで、谷沿いの県道からは一軒も見る事が出来ないようだった。
不通県道を頼りに生きる小さな集落の姿に後ろ髪をひかれはしたが、それが単に寄り道であるだけでなく、激しい上り坂の向こうであることに気圧されてしまい、諦めた。
さて、市道と合流した県道には、進行方向に向かって、もう何度目かになる、「行き止まり 塩津方面への通り抜けできません」の警告が。
変わっているのは毎回の数字で、いよいよ予告された「行き止まり」とやらまで、700mと迫っている。
この分だと、700mで辿りつく場所は、ちょうど峠のてっぺんぽい。
不通のくせに入口に青看が設置されていたり、こう何度も警告の標識があるところは、さすが主要地方道なのだというべきか。
カーナビ全盛時代の今日だからこそ、道は繋がっていても車は通れない、それでいて県道以上の格付けを持つ道に対して、各道路管理者とも気を遣っていることが伺える。
これから先の不通区間などは、距離も短いし、一昔前のカーナビだったら、いたって平然と通りぬけられそうな表示をしていそうだ。
行き当たりばったりやカーナビ任せで道を選ばず、紙のロードマップで予め道を予習するより無い時代には、こんな怪しい県道に迷い込む人も少なかったろうに。
地理院地図では、もうこの辺は県道としての着色はされていないが、ガードレールにはちゃんと県道である証しがあった。
これは島根県オリジナルなのかは分からないが、昨日までの私は見た憶えのない、そして今日はもう何度も目にしている、ガードレールの腹面に貼られた県道のキロポストである。なお、0.1km刻みの表示になっているが、さすがにそんなに頻繁には設置されていなかったと思う。
突然、ドーンと視界が開けた。
景色がひらけるといえば“峠”が定番だったが、ここはまだ峠ではなかった。
それなのに景色がひらけたのは、峠の周りに高い木がほとんど生えていなかったからだった。
ここからは、峠を含む稜線の起伏が、手に取るように見て取れた。
そしてそんな起伏の数ヵ所に、まるで陣取り合戦で建てた旗のように、
征服者の大きな風車が、立ち並んでいたのであった。
峠の一帯を支配する巨大な風車の連なりは、予想外の存在だった。
それも無理はないことで、麓からは全く見えなかったし、地図にも描かれてなかった。案内表示ももちろんなし。
新しい地図にもなぜか描かれていない、巨大な風車たち。
その存在には、悪の秘密結社が関わる陰謀を感じた。
巨大発電施設に似つかわしくない狭苦しい県道も、上等なカムフラージュだったのではないか。
あり得ない“陰謀説”を独り反芻して、不真面目に楽しんだ。
陰謀もさることながら、汚らしい黒ビニール袋で幾重にも巻き巻きされた、隠蔽死体のような「前方丁字路」の警戒標識は、いただけなかった。
現役の県道であるならば、このだらしなさは減点1。
やっぱりなにか、後めたいものでもあるのか、この先の「丁字路」は。
10:01 《現在地》
酷いよ!!!
ここに「丁字路」の標識を設置したのは、なんぼ何でも酷すぎた。
隠蔽も、やむを得ないだろう。
地図には無い、右と左の道。
それらが真新しい風力発電所の道である事は、容易く理解できた。(後日知ったが、ここにあるのは「新出雲風力発電所」という独立系の発電施設らしい)
だが、私はこんな軽薄な左右の道になど、興味はない。
県道23号は、発電所がここ数年の間に山上を占拠してしまう前から、ここを直進していたに違いないのだから。
それにもかかわらず、ここに「丁字路」の標識を、県道の道路管理者自らが設置しようとしていたのは、あんまりな仕打ちだと思った。
お前がまだ、道として立派に“通用”するってことを、
俺が今から証明してやるからな!!