産業遺構レポート  田瀬ダム 謎の遺構  <第一回>
公開日 2005.6.29

 田瀬ダムは、「日本のTVA」と呼ばれた、北上川総合開発計画により建設された「5大ダム」の一つである。
また、国の直轄ダムとしては、日本で最も早く着工(昭和16年)している。
ただし、建設途中に太平洋戦争のため中断し、戦後昭和25年から29年にかけて完成させられた。
現在も5大ダム中最大のダムとして、洪水調節・灌漑・発電という多目的に活用されている田瀬ダムであるが、この堤体のすぐ傍に、謎の遺構が存在することは、余り知られていない。

 この遺構と我々の出会いは、2005年1月末に遡る。
堤体傍に使われてなさそうな隧道があるとの情報を得た山行が合調隊は、釜石製鉄のインクライン調査の日の帰りに立ち寄った。
そして、そこで読者情報以上の発見を得たが、あいにく、PCの不調により撮影した写真は全て失われてしまった。

 同年3月16日に、メンバーを一部改め、再度合同調査となった。
本稿ではその、田瀬第二次調査の模様をお伝えする。
発見された遺構群について、一月の探索終了段階では鉱山跡だろうと考えたが、それを裏付ける資料は見つけられず、断定は出来ないでいた。



 岩手県和賀郡東和町 田瀬ダム
 2005.3.16 早朝

1−1 読者情報にあった隧道


 この日の合同調査は、田瀬ダムの遺構探索から幕を開けた。
参加メンバーは、私(ヨッキれん)、細田氏、ふみやん氏の3名。

この冬は例年になく多雪であり、それほど雪の多い場所では無いはずの北上山地にあるこの田瀬ダム周辺も、3月中旬においてなお、日陰には大量の雪が残っていた。

 


 強烈な放射冷却効果によって凍てつく朝日を浴びながら、早朝の田瀬ダムに探索の準備をする、我々の姿はあった。
このとき、外気温は0度程度で、別段難しい探索ではないものの、防寒対策は十分に行う必要があった。



 現場は、田瀬ダムのダムサイト傍、猿ヶ石川左岸にある、ダム関連施設の駐車場である。
以前読者情報によりその存在が明らかになり、1月の探索時に目的物となったのが、この駐車場の片隅にある、写真の隧道である。

だが、この隧道については侵入することが出来ず、内部については未だ不明である。
入り口はしっかりと施錠されており、重い鉄の扉はビクともしない。

ただし、これが何なのかは、おおよそ見当は付いている。


 開かずの隧道近景。

やや美観に配慮した坑門には、扁額は見あたらない。
坑口は、ダムとは反対側の山中へと向いているが、ダム管理施設の一角にあることから、無関係とは考えにくい。
1月に初めて来たときも、おそらくはダムの監査廊に通じている内部通路だろうと想像していたが、今回それを裏付ける物を見つけた。

上の写真には、坑門の前に小さな飯場が写っているが、掲示された工事案内板によれば、ちょうどこの時ダム堤体の補修工事が行われており、監査廊の工事も含まれているらしかった。
図版には、監査廊の地図らしき物が描かれており、現在地としてマーキングされた箇所は、監査廊の入り口に面していた。

ゆえに、この開かずの隧道は、監査廊の入り口の一つであると判断する。


 なお、カメラを手にしたまま、坑口右下の排水路部分に手を突っ込み、無理矢理内部を撮影した内の一枚がこの写真だ。
これは、入り口の鉄の扉を見上げている。

内部は普通のコンクリ巻きであることや、内部に灯りはないことがわかる。



 もう一枚の内部写真を、目一杯まで明るく画像処理した物が、この写真。
地面スレスレから、隧道奥方向を写している。

中央から左にかけて写っている真っ白い物は、白いコンクリートのような石片である。
画像処理により、色が飛んでしまった。
注目は、この石片の下にあり、隧道奥へと一直線に伸びている、赤錆びたレールである。

坑門前の写真をもう一度見てもらうと、確かに隧道から2条のレールが出ている。
このレールは、鉄道用の物よりも遙かに小さく、頼りのない物だ。
だが、この隧道にて簡易な軌条が利用されたことは、間違いないだろう。

読者提供情報による隧道探索はこれ以上進捗していないのであるが、我々は他に、驚くべき物を発見したのである。




 謎の遺構群との遭遇
 


2−1 山中に屹立する橋脚群


 見て欲しい。

 頭上の斜面に点在する、コンクリート製の巨大な橋脚を!

1月にはじめて発見したときの衝撃は、忘れられない。

腰丈近い積雪に覆われた静かな森の斜面、
小雪が舞う鈍色の光の中に、凛として屹立する橋脚群は、
一瞬にして、私の心を鷲づかみにしたのであった。

そして、
濡れるのも構わず雪原に駆け上がった私は、
そこで更なる衝撃的な発見を成すのであった。


 駐車場の周りを囲む石垣を登り、塞がれた隧道の真上付近に来ると、橋脚群はいよいよその存在感を増す。

雪原の中に浮き上がるように立ち尽くす姿も素敵だったが、雪が消えたばかりの枯れ色の森と空のコントラストにも、なかなか似合う。

ダムサイト左岸にあるこの山は、地形図に尤部山(海抜388m)と記されているが、ここはその中腹にある。
単にこの場所に稼工していた鉱山か、立地的にはダムと関連があるものとも考えられた。

これから、1月の段階で発見していた遺構に加え、今回新たに発見した場所に至るまで、このレポートにて案内する。
皆様のご意見も是非、お聞かせいただきたい。



 橋脚群は、不思議なことに一列には並んでいない。
少なくとも、二つの以上のルートがあったようだ。
そのうち、一つのルートがメインであり、他は橋脚一、二本程度の枝線かもしれない。
橋脚の頂点の高さはほぼ一定なので、軌道、もしくは索鉄による運搬が、この頭上で行われていたと想像する。
確認されている延長は、合計300m程度であるが、橋脚群の延長線が地上に交わる箇所には、別々の遺構が存在する。
順次紹介していく。

まず紹介するのは、右の写真の橋脚群の最も下部だ。
そこには、ご覧の石垣が、東西に数十メートルの連なりを持っている。



2−2 穴


 穴が開いている。


 橋脚群の下方にある石垣の基部に、一箇所だけ、写真の穴が口を開けている。
その位置は、地図で確認

円弧の上半分だけのような、特異な坑口である。
坑口からは、風の流れもあり、隧道のようである。
扁額など、その正体の解明に繋がるような物は、一切見あたらない。



 坑口を背にして、車を停めている駐車場(写真左側)を見下ろす。
こうしてみると、駐車場からは結構高い位置にあることが分かる。
駐車場のさらに奥には、猿ヶ石川が深い谷を刻んでおり、河床からここまでの高度差は、100m近い。
現在は、駐車場が傍にあるので余り感じないが、もしダムがなければ駐車場もなかったであろうし、険しい山の中腹に遺構は孤立している印象がある。

先ほどの地図をもう一度見ていただくと分かるが、猿ヶ石川を渡り、遺構群に続く点線の道が、現在の道と一部重なりながら存在する。
おそらくは、これがかつてこの遺構へと通じていた道だと思われる。
もしこの推論が正しければ、遺構はダム建設開始(昭和16年)以前のものと言うことになるだろう。
現在、旧道のものと思われる河床の橋は、橋桁だけの存在になって残っている。


 ライトを装備し、いよいよ内部へと侵入する。
もちろん、1月の探索においても、内部は探索済みだったが、撮影した写真は全て失われており、今回は改めて、再探索である。

中を覗くとすぐに、これが普通の隧道ではないことが分かる。
坑口こそ、立って入れないほど天井が低いが、厚さ30cmほどの坑口のコンクリの裏には、思いがけず広い空洞が広がっている。
そして、頭上には点々と明かり窓が続いている。

なにやら、かつてない遺構のかおりがする。




 内部は、砂利が敷かれており、足元は悪くない。
しかし、ここが道でないことは、地面に轍のような物がないことからも、立ち入った最初の地点からいきなり左右に分岐があること、さらに、直進する道が分岐の先でいきなり1m以上の段差を設けていることから、明かである。

直進方向には、かなり奥まで続いている様子が見えるが、左は、わずか10mほどで行き止まりになっている。
これもまた、謎の構造と言える。


 分岐から、行き止まりになっている左を向いて撮影。

坑口こそ狭いが、内部は十分な高さがある。
入洞直後の通路の幅は4m、高さ3m程度か。
内壁は、総コンクリート製であるが、劣化が著しい。



 向かって左の通路は、10mも行かぬうちに、写真のような行き止まりになっている。
しかし、行き止まり部分の施工は、もとよりこのの姿であったにしては不自然さが漂う。
高さ1mほどの段差があって、その先一回り断面が小さくなった直後に、石垣により行き止まりとなっている。
どちらかというと、後日封鎖されたように見える。

また、よく見ると、坑口から直進した場合の通路にも、同様の段差があり、元は、この方向にも、直進通路と同様の隧道が伸びていた可能性を示唆する。


 こんどは、直進する。

すぐに洞床が1mほど高くなり、頭上高が一気に低くなる。
特徴的な断面の隧道は、一定間隔ごとに、地上に続く明かり窓が設けられている。
また、洞床にも、不思議な突起物が整然と並んでいる。

明らかに、通常の通路隧道ではない。
さらに奥へと進む。





2−3 穴の奥


 フラッシュを焚かずに右の写真は撮影したのだが、実際の見え方はこれに近い。
産業遺構特有と言える、均整と荒廃が混ざり合った妙である。
つまりは、「廃美」と私が呼ぶ情景である。

頭上の明かり窓は、実は単なる明かり窓ではなく、別の意味合いがあったことが、先に進むと判明する。
また、洞床に並ぶ突起物も、やはり意味がある。
隧道は、結構な勾配で奥に向かって登っている。



 天井の穴からは、このように外が見える。
地表がすぐ傍にあることが分かる。
また、周囲には数本の橋脚が林立しており、これも見上げる形で見える。


 入口を振り返る。

ふみやん氏の身長は、一般的な成人男性よりやや高いが、洞内の狭さがおわかり頂けるだろう。
また、壁の水分がライトや外の明かりに反射している通り、内壁は全体的に良く濡れている。
雪解けシーズンのせいもあるかもしれないが、内壁の品質が良くない可能性もある。


 さらに奥の窓から、外を見る。
ここに来て、橋脚の内一本を、極めて間近で見ることが出来た。

その構造は単純な物で、一般的な円筒形の橋脚に見える。
ただし、上部に平らな板状のコンクリートが乗るような形になっている。
また、構成するコンクリの品質が低いのか、柱部分の表面がぼろぼろと剥がれ、内部の粗骨材(砂利)が露出している。


 坑口からおおよそ40mほどで、ご覧のように閉塞している。

しかしこの景色、じつは、この遺構の謎を解く、大きなヒントが隠されているように思われる。

注目点は二つで、一つは、洞内を埋め尽くしている物が、一般的な土砂ではなく、比較的目の揃った砂利であること。
これは、内壁の破綻によって地山が崩壊した物ではないことが明らかで、むしろ、閉塞部上部の穴から、落ちてきたものだと考えられる。

もう一つ、ここまで点々と洞床に続いてきた突起物であるが、その上部に木造の柱が、隧道の進行方向と並行に固定されている事が、確認できた。
これもまた、突起物の正体を考える上で、重要な物だと思われる。

そしてさらに隧道は続いている。
この奥には、通常進むことは難しいが、私が単身で、仲間に体を押してもらうことでやっと、この奥の隙間へと進んだのである。
くれぐれも一人では入らないで欲しい、引っかかっても誰も助けてくれないぞ。


2−4 穴の最深部


 人一人ギリギリ潜り込めるだけの隙間を通り、砂利と天井の合間からその奥へ進む。
そこは、ライトを消してしまうと殆ど光が届かない闇で、行く手にも一切光は見えない。
そして、何よりも違和感を覚えるのは、その異様な暑さだ。
ムワッと、暑いのだ。 無論、氷点下に近い外気に比べてと言う話だが、その違いは即座に体感できる。

そして、砂利による閉塞の先にあった景色もまた、天井へと山と積み上げられた砂利の姿であった。
その量は膨大で、足元も全て砂利に埋もれている。
さしもの私も、その異様な熱気と圧迫感に恐怖を覚える。
すぐ背後の隙間から、細田氏の持つライトの灯りも漏れてくるが、不快感は払拭されない。


 決定的な景色というのは、こういう物を言うのだろう。
この隧道の、いや、おそらくは遺構全体の正体が、この景色によりほぼ判明したと言って良い。

隧道最深部は、異様な空間だった。
天井には、さらに二つの窓があり、その両方には、金属製のホッパーが設けられている。
そして、そこから落とされたままの砂利が、天井まで積み上がって止まっている。
用途は不明ながら、脇には碍子も取り付けられている。


もうおわかりだろう。

この隧道は、砂利の積み出し設備だと思われる。


 最も奥のホッパーと、その手前のホッパーとの間の天井には、コウモリ達が鈴なりになっている。
そして、そのどれもが驚くほどに、巨大だ。
コウモリ達は、冷気が流れる通路を避け、この生暖かい最深部に集まっているわけだ。
それにしても、まるまると太りすぎで、羽根で体を包み隠すお馴染みのポーズで身じろぎひとつせずにぶら下がっているのだが、その羽根の間から、気持ちよさそうな羽毛がはみ出しちゃってます。
で、このデップリの理由も簡単に分かった。
この最奥部は、多少嘔吐感を覚えるほどに、大量の羽虫が発生している。
通常、この季節では見ることが出来ない羽虫達だが、暖かい環境のために、年中発生しているのだろう。
コウモリ達にとって見れば、もはや体を動かさずとも、餌が周囲に常に充満している状況なのだ…。

ここは、コウモリの楽園だ。
いずれは、さらに数が増えてくるに違いない。


 最奥部の終端壁。
なんというか、熱気も最高潮で、はっきり言って息苦しさを覚える。(熱源はコウモリの体温?!)
空気を吸うと一緒に羽虫も鼻に入ってくる様な錯覚を覚えるほど、虫が壁一面にビッシリと張り付いている。
苦手な人はもちろん、やはりここは人が立ち入るべき場所ではない。

隧道全体が、出口へ向けて緩やかに下り傾斜をしている。
そして、洞床には点々と続く突起物、今もその上には僅かに木柱が見られるが、もとは砂利が流れるための通路が形成されていたに違いない。




 砂利が、このホッパーを使って洞内に流れ込み、洞内は傾斜によって、或いはベルトコンベヤによって、砂利を搬出していたのだと思う。

さらに、この砂利の用途であるが、それは十中八九、田瀬ダムの重力式コンクリートダム打設に用いられた物だろう。
重力式コンクリートダムは、ダムの中でも特に莫大なコンクリートを必要とするので、一般に現地でコンクリートを生産して利用した方が、コスト安になる。
その場合には、原石山と呼ばれる、採石場をダム付近に選んで採石して利用する事が多いが、ここに散乱している砂利は、明らかに角のない玉砂利であり、水没地の河床に元々あった砂利を利用している公算が高い。
砂利をこの高所までどのように引き上げたのかは不明だが、いずれにしても、この場所で砂利が生産され、さらに下方のバッチャープラントと呼ばれる、コンクリート生産工場へ運ばれたものと推測される。


 バッチャープラントの場所が分かれば、その推論を強力に支持するわけだが、残念ながら特定には至っていない。
ただし、この隧道の坑口傍に分岐していた、おそらく封鎖されたらしい通路は、見ようによっては現在のダムサイト方向を向いている。
また、我々が侵入に使った坑口は狭く、砂利の搬出に向かない上に、出た先も急斜面である。
もし、この隧道がダムサイトへと通じていたとしたならば、その傍にバッチャープラントが設けられ、コンクリートの生産と、ダム打設が行われていたのではないかと考えるのである。
現在位置は、地図で確認


 ここに至り、一月の探索では鉱山跡と考えていた遺構は、実は田瀬ダム建設のための一時的な設備であったのではないかという考えに、大きく傾いたのである。

 次回からは、本稿タイトルも「田瀬ダム コンクリートプラント跡」と改め、さらに上部の遺構群をお伝えしたい。








つづく

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