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  [No.8351] Re: 「佛山修路記」意訳 投稿者:さきほどコメントしたひと   投稿日:2014/08/02(Sat) 10:53:27

コメントの方の原文と書き下しも、少し修正しておきます。

佛山修路記

凡除害興利其事益於世者宜紀勒以傳焉若鏟險夷阻以便交通則
其一也常野之界山嶺重沓通路甚少我西茨城郡西北自片庭里達
野之小貫部者曰佛山阪路陂陀陟降亘數里稱山而實嶺也封建之
世恃為險要故雖官道不甚修治久委荒障車馬苦往来加之地勢深
阻刧盗出没有畏途之稱焉明治十六年片庭人民相議曰今也世運
日開古来無徑之地往往開通而興委其阻阨不獨行旅之患實吾邑
之恥也其可以不拓修乎小貫人民應之議以克諧遂各請於其縣而
得允乃界山分功不辭勞費勉強異常起功于明年一月告竣於十九
年十二月其所拓修延長四百八十餘間靡金一千二百餘圓役夫五
千餘人而屬小貫者不算焉於是險阻大夷略成沮途人馬往来絡繹
載路刧盗遠跡而行旅倍舊其益於常野兩州之交通也大矣今茲欲
建碑以刻關役者姓名郡長牧野君正倫賛之命文余余曰逸而忘勞
人之情也進而不息世之勢也今後自巡路者徒喜其逸而忘其勞耶
抑思其勞而益求完修耶寔見記示之不可已也遂書使以知碑背記
名之故焉

明治二十六年十月             三村邦功撰 
             西茨城郡長從七位牧野正倫篆額
                         龜井 直書


※書き下し※
凡そ害を除き利を興す、其事世に益すれば、宜しく紀勒して以て傳ふべし。
若し険を鏟(けづ)り阻を夷(たいら)げて、以て交通に便すれば、則ち其の一なり。

常野の界、山嶺重沓し、通路甚だ少し。
我が西茨城郡西北、片庭里より野(=下野)の小貫に達する部(さかい)は、
曰く仏ノ山、阪路陂陀陟降すること、数里に亘り、山と称して実は嶺なり。
封建の世、為に険要を恃(たの)み、故に官道と雖も修治を甚だにせず、
久しく荒障に委(まか)せ、車馬往来に苦む。
加ふるに、地勢深阻にして、刧盗出没し、畏途(いと)の称あり。

明治十六年、片庭の人民相ひ議(はか)りて、曰く、
「今や世、日を運(うつ)し、[今や世運、日に日に]古来無径之地を開き、往往開通して興る。
其の阻阨に委せて、独り行旅せざるの患、実に吾邑の恥なり。其れ以て拓修せざるべけんや」、と。
小貫の人民、之に応(こた)へ、議りて以て克(よ)く諧(ととの)へ、
遂に各〃其の県に請ひて、允(ゆるし)を得る。乃ち山を界(さかい)として功を分かち、
労費を辞さず、勉強すること常に異なり、明る年一月に起功し、十九年十二月に竣を告ぐ。

其の拓修する所、延長四百八十餘間、靡金一千二百餘圓、役夫五千餘人。而して、小貫に属する者は算(かぞ)へず。
是に險阻大に夷らげられ、沮途略成し、人馬の往来、載路に絡繹し、刧盗は跡を遠ざけて、
行旅旧に倍し、其れ常野両州之交通に益するや、大ならん。

今茲(ここ)に碑を建て、以て役に関る者の姓名を刻まんと欲し、郡長牧野正倫君、之を賛し文を命ず。
余余(われわれ)曰く、逸して[逸(たのし)みて]労を忘るるは、人の情なり。進みて息(やす)まざるは、世の勢なり。
今後自ら路を巡る者、徒らに其の逸を喜びて、其の勞を忘れむや。
抑〃(そもそも)其の勞を思ひて、益(ますます)完修を求めんや。
寔(まこと)に記を見(あらは)し之を示すこと、已むべからざるなり。
書を遂(すい)して、以て碑背の記名の故を知らしむなり。


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