津軽森林鉄道 相の股隧道と六郎越隧道
日本最古の森林鉄道隧道
所在地 青森県東津軽郡蟹田町〜中里町
探索日 2005.11.08
更新日 2005.11.24




 日本で最初に完成した森林鉄道は、青森県の津軽半島を走っていた。
明治39年に、日本三大美林の一つに数えられる、津軽半島のヒバ林を効率的に運材する目的で着工された日本初の森林鉄道は、明治41年 から利用が開始され、42年にはその本線である67kmが完成に至った。
本線上では当初から外国製の蒸気機関車が用いられ、その当時の主流であった筏流しや、橇、手押しトロッコなどを圧倒する運材力を遺憾なく発揮した。
その後も支線の開設が相次ぎ、県内のみならず日本国内でも例を見ないほどの細密な、半島の隅々まで行き渡る路線網が確立されたのである。
運材料の全盛期は、大正3年頃であったという。
交通の立ち後れていた半島内の住民の足としても活躍した津軽森林鉄道であったが、昭和26年には国鉄津軽線の一部が開通、昭和30年代からは全国の例に漏れず、トラック運材への転換が急速に進み、その茫漠な路線網も次第に無用のものとなった。
そして、昭和42年に、津軽森林鉄道は58年の歴史に終止符を打った。
 現在、この森林鉄道跡については、専門的に取り扱うサイト『津軽森林鉄道』も登場するなど、解明が進みつつある。
また、青森市にある森林博物館や、金木町の民俗資料館などで、当時の車体を含む様々なものが展示されており、全国の森林鉄道の中では、よく記録の保存が行われている。

 そして、この本線上のほぼ中心地点にあり、低いながらも列島の脊梁を越えていたのが中山峠である。
そこには、2本の隧道が建設され、廃止まで永く利用されていたと言うが、『鉄道廃線跡を歩くY(JTBキャンブックス刊)』や青森市森林博物館展示資料によれば、その一方は「確認できず」、もう一方も片側の坑口のみしか「確認できない」とされている。

探索意欲旺盛な山行がとしては、「確認できず」「確認できない」などという言葉を鵜呑みにすることはしたくない。
日本最古の林鉄用隧道ということになる、この2本の隧道を、何とか探し当てたいと思った。

2005年11月8日、私は初めて現地入りした。
パートナーは、お馴染みミリンダ細田氏である。





 主要地方道12号「鰺ヶ沢蟹田線」は、津軽森林鉄道に代わり中山峠を越える現代の道である。
しかし、蟹田〜中里間は津軽林鉄の辿った道のりを踏襲こそしているものの、重なっている部分は少なく、殆どが新規に建設された道となっている。
平成に入り津軽林鉄の二つあった隧道に対応するように、やはり二つのトンネルが掘られ、峠はバイパス化されている。

 今回初めに捜索したのは、蟹田町側の大平にある「相ノ股隧道」である。
対応する県道のトンネルは、写真の太平(おおだい)トンネル。
峠越えの旧県道は封鎖されており通行できない。



 相ノ股隧道は、青森市森林博物館展示品によれば、全長187.3m。
中里側の坑口は「確認できない」とされている経緯は不明だが、ともかく地形図等により考えられる中里側の坑口の位置は、写真県道の大平トンネルから中里側に300mほど進んだ位置から、さらに山側に100mほど入ったあたりと思われる。
我々は、夕暮れが迫っていることもあり、準備もそこそこに入山を開始した。



 県道の周り林は笹藪が多くやや進むのに苦労したが、少し杉林に入ると、歩きやすい。
道のない平坦に近い林地を真っ直ぐ進むこと100m弱で、前方に高さ3mほどの起伏が現れた。

そのまま、その起伏の上に立った我々は、唖然とした。







 うわぁ

 すげぇ!


 思わずのけぞった。
だって、あるんだもん。
そこに、林鉄としては恐ろしく広い切り通しと、その奥に黒い穴が。




 こんなに呆気なく発見できてしまって良いのか。
県道からは、本当にちょっとしか離れていないし、道しるべのようなものはないが、帯状に続く深い切り通しには、嫌でもぶつかるはずだ。
なぜ、従来は「確認できない」などと言われてきたのかが分からない。
むしろ、なんらかの事情により「確認して欲しくない」物件だったのだろうかなどと、要らぬ心配までしてしまった。

 ともかく、5mもある法面を滑り降り、落ち葉の沼のようになった底へ降りる。
底なし沼だったら嫌だなーなんて思いながらも、ま、大丈夫でしょ。




 切り通しの底は、これまでの森林鉄道の常識を覆すような広さがあった。
意外に泥は締まっていて、長靴程度でも歩くことが出来そうだが、もとより我々は濡れることを厭わないので、そのままズボズボと歩いた。
隧道の反対方向にも、緩やかなカーブを描く切り通しが、次第に浅くなりつつも続いており、独特な景観となっている。
これほど長い切り通しは、森林鉄道というよりも、国鉄の廃線跡のようだ。
また、写真の手前に写る木材は、回収され一箇所に集められた枕木である。
このような枕木の集まりが、所々に見られた。

 それでは、間近にある坑口へと接近する。





 切り通しの深さが限界を迎えたとき、そこに隧道が口を開けている。

明治41年に開通した、相ノ股隧道である。
粘土質の岩盤に穿たれた坑口は、坑門というものを持たず、直接口を開けているように見える。
また、当初の断面の3分の2以上が土砂によって埋没しており、現在残っているのはアーチの部分のみである。
深い切り通しに毎年堆積する膨大な量の落ち葉は逃げ場もなく、ひたすらに隧道の埋没を進めているようである。

 興奮した足取りで、口々にスゲーを連呼しつつ我々はさらに接近した。
ポシェットから、必殺のSF501を取り出した。





 接近してみると、遠目に見る以上に坑口の破壊は深刻であった。
当初、坑門構造がないと思っていたのは誤りで、現在の坑口は、元々あった坑門が土砂崩れにより倒壊したために、隧道の断面がそのまま出現しているのかも知れない。
そのアーチは、石造(もしくはコンクリートブロック)であり、巻厚は一枚だ。
これは、蟹田側には立派な煉瓦の坑門が現存していることとは、余りにもかけ離れた外見である。
また、一目見てアーチは変形している。
上から押しつぶされたように扁平になっており、そう遠くない未来、中心でまっぷたつに折れて完全に倒壊することが予想される。
これは、宮城県の葉の木山隧道の末期的症状に近い。



 坑口近影。

アーチは石造である。
足元には、一つだけモルタルに包まれた煉瓦塊が落ちていたが、坑口には煉瓦の部分は見られない。
一つの隧道のそれぞれの坑口が、煉瓦と石造という風に別々になっている例は少なく、この坑口の本来の姿が大変気になるところである。

 ただ、象徴的な意味においては、森林鉄道として日本で最初に竣功した隧道として、起点に近い蟹田側の坑口のみ煉瓦で飾り付け、二つの隧道に挟まれる形になる、この中里側の坑口は簡素なものとしたというのも、十分に考えられる線である。

 坑口を見るからに、内部は危険そうな匂いがするが、とりあえずここまで来たからには入るよりあるまい。
幸い、足元の土砂は締まり気があり、歩きやすい。





 逝っちゃってました!


 内部は、僅か10m程の奥行きだけを残し、完全に閉塞していた。
坑口もひどく破壊されていたが、廃止後の半世紀で、隧道としての機能を完全に喪失してしまっていた。

現在確認されているものでは日本最古の森林鉄道隧道は、残念ながら、このように閉塞している。




 となると、通り抜けの出来るもので日本最古は何処かという事が気になるわけだが、それはもしかしたら、秋田県内にあるかもしれない。
秋田県も青森県と並んで、森林鉄道を古くから利用していた県である。
とはいえ、厳密にどこがというのは、難しい。
というのも、森林鉄道となる以前に、手押し軌道として建設された路線が存在するためだ。
例えば、秋田県の仁鮒森林鉄道は明治44年に完成しているが、明治36年(林用手押し軌道は秋田県内が日本最初の利用地だったようだ)にはすでにその一部が手押し軌道として開設されていた。
とりあえず、仁鮒森林鉄道には揚石隧道が現在も車道として利用され続けているので、これが最古の可能性もある。(おそらく明治40年頃〜44年の間に建設されている。)



 通り抜けが叶わなかったのは残念だが、あの崩壊の様子では、とても手が付けられない。
諦めて、隧道の外に続く魅力的な切り通しを、少しだけ辿ってみることにした。

 我々が最初に降り立った地点から、さらに中里側に200m近くも、切り通しはカーブと直線で続いていた。
下るほどに、沼地の水分は多くなり、かなり排水が行き詰まっているのを感じた。
実際に、深い部分に嵌ると身動きが出来なくなる可能性もあるので、出来るだけ隅っこを歩くようにしたい。



 なんと、いまだ立ったままの木製の電柱を発見した!

しかも、上には今なお横棒と碍子が取り付けられているままだ!

このような木製の電柱が林鉄に利用されたのは、初めて見るケースだ。
秋田県内にも多くの電柱が残っているが、いずれも廃レールを利用した金属製のものである。

津軽森林鉄道の建設については、そもそも日本で初めての森林鉄道建設だったということで前例が無く、規範となる規格もなかったことから、様々な面で国鉄のローカル線の規格を踏襲したと言われている。
この木製の電柱なども、その逸話を彷彿とさせる発見だ。
勿論、当初は林鉄用の廃レールなどというものもなかっただろうから、廃レール使用の構造物は無理があったに違いない。
(明治から大正にかけては、レールは国産の難しいとても高価なものであったということもある。)



 そして、ついには大川目沢の川原に行き当たった。

この先も、直進の小道が林鉄跡のようだが、そこには砂利が敷かれ河川改修工事に使われた痕跡がある。
我々は、これ以上辿ることはせず、直ぐ間近を渡っている県道に戻り、現地を後にした。



 切り通し部分の入口を振り返る。

これまで、なぜこの奥に坑口が眠っていることが公にならなかったのかは、かなり不思議である。

確かに、路面はぬかるんでいて歩きづらいが、濡れる覚悟があれば歩いていけないこともない。



 県道が大川目沢を跨ぐ暗渠から、切り通し入口の前にある広場を見下ろす。

軌道跡は、このまま沢の左岸に沿って下っている。


 山行がの「新発見」は、ここまでである。






 次に、その存在が確認されていた相ノ股隧道蟹田側坑口にも行って見た。

こちらは、大平で現県道から旧県道に入り、さらに左に降りる沢沿いの砂利道を走っていくと、300mほどで写真の小屋が現れるので、ここからは歩きとなる。
ここから坑口までの距離はなく、ほんの200mほどしかない。
ただし、時期は選ぶ行程である。




 小屋の裏に続く、僅かな踏み跡に従って森にはいると、すでにそこが軌道跡であることに気がつくだろう。
太い木のない帯状の笹藪が、緩くカーブを描きながら、奥へと続いている。
幅が非常に広く、ここも森林鉄道と言うよりも国鉄の廃線跡のようであるという、私と細田氏の感想は共通した。




 少し進むと、視界が開けてくる。
早くも、前方には隧道が貫く、低くとも険しい尾根が立ちはだかっている。
足元には、ぬかるむ場所もある。




 道中の小さな難所は、この一面の葦原である。
湿地帯となっており、時期を誤ればおそらく、背丈よりも深い緑の地獄に嵌ることだろう。
ここは、晩秋以降の探索を強くオススメしたい。

 路盤は、この辺りで一時不鮮明になるが、間もなく切り通しとして出現してくる。


 時期に恵まれ、さしたる労無く切り通しを見つけると、坑門は直ぐそこだ。

ただし、最後まで足元は沼地に支配されており、面倒でも向かって右側の斜面をへつって進んだ方が身のためだ。
この沼は深く、一時期細田氏がハマリかけた。





 切り通しの奥には、明治の威厳を纏う、日本最古の林鉄隧道が、その威容を誇っていた。
写真で見ていたよりも、ずいぶんと小さく感じられた。
まるで、歩道用のトンネルのようなサイズである。
しかし、外見は明治の鉄道隧道そのものである。
一回り小さく見えるのも、断面の半分ほどが土砂によって埋もれてしまっているためだろう。



 明治の隧道らしい意匠は、一通り揃っている。
イギリス積みの煉瓦は、まだ殆ど崩れることもなく、各所を構成している。
写真左は、壁柱から笠石にかけての意匠。
コンパクトに纏まっているが、丁寧に作られているのが分かる。

 写真右はアーチ部分。
巻厚は3枚であり、要石は見られない。
アーチは粗迫持で、竪積みは見られない。
一見したところ、強度はまだありそうに見えるが、アーチ中央の直上に、縦に大きめの亀裂が走っており、ここが懸念材料である。
また、銘板等は見られない。



 隧道のアーチ部分のシルエットは、かなり正円に近く見える。
この隧道が作られた明治40年代には、すでに国鉄には隧道の断面として標準的な規格が存在しており、林鉄隧道の前例がなかった相ノ股隧道についても、それを流用して設計されたと言われている。
故に、単線かつ狭軌(軌間762mm)の森林鉄道にとっては明らかに大きな断面となっている。
おそらく、津軽森林鉄道の2隧道を除いて、林鉄でこの規格の隧道が設けられたケースはないだろう。
 ただ、現在は埋没が進んでしまったため、坑口からはその大きさを感じることは難しく、せいぜい、扁平な断面だという印象を受けるに留まる。
その断面の大きさを感じるには、入洞する必要があろう。

※写真の上にカーソルを合わせると、サイズ比較用の人間が登場します。





 内部は、かなりの奥行きを見せるが、坑口から10mほどで、深い湖に阻まれる。
そればかりか、ヘドロの堆積がひどく、水深以上にこの泥がネックとなり、奥へと進むことは断念せざるを得なかった。
もしどうしても奥へ行くというのなら、ボートの使用が現実的だが、水際の泥の深さは人間が容易に身動き不能になるほどで、まずはちゃんとした船着き場を設けない限り、それも難しそうである。
また、残念なことに、水際から100万カンデラという大光量の照明で奥を照らしたところ、閉塞部分が視認できた。
本来の隧道延長が200m足らずであることと、直線の隧道であることを考えれば、見えている閉塞部分が、そのまま先ほど見た中里側の閉塞の裏側である可能性は極めて高い。
正直、内部へと進入するモチベーションを得にくい隧道である。

 


 洞内は、ご覧の通り深い湖になっている。
どのくらい深いかと言われれば、岸辺から1歩で泥と合わせて腰丈まで水没。
まだ足元には斜面が感じられ、2歩目を踏み出す気にはなれなかった。
また、隧道内に敷かれていたものと思われる枕木が、泥の岸辺に多数漂着していた。
この流木を泥の上に足場として組めば、ボートを漕ぎ出す際の簡易の艀となる公算だったが、細田氏がおもむろに、「魚雷ごっこ」を行ったことにより、洞内奥の見えざる位置まで、それこそ気持ちの良いくらい流れていった。

 将来的に再度挑むことがあるとしても、排水が困難な隧道だけに、艀の問題は残る。
まあ、この日は時間も遅くボートも持参していなかったので、これで勘弁してくれ…。




 坑口から20m程の位置で、内壁は煉瓦から石組みにバトンタッチしている。
また、ちょうどそこで鋭角的にカーブしており、何とも作りが未熟というか、古風である。
ただし、見える範囲では殆どの崩壊はなく、隧道内部の強度は未だ健在のようだ。
また、ここまで「石組み」という表現を使ってきたが、近くで見ていないので何とも言えないものの、コンクリートブロックである可能性もある。
一般にコンクリートブロックは大正から昭和初期に掛けて盛んに利用されたが、明治末期にも多少の使用例がある。
アーチ部分のみではなく、側壁もコンクリートブロックであるとしたら、鉄道構造物としてはレアな部類に入るだろう。

 …中里側でよく確認しておくんだったorz
あそこなら、手にとってよく調べられたのに…写真からじゃ何とも言えないや…。


 なお、目視では確かに確認できた、茶色っぽい閉塞壁だが、明度を上げた写真にも写ってはいなかった。
いや、かすかに何かは写っているが、判別できるレベルではない…。

もしかして、来期はお得意のボート出航ですか?!
ミリンダさん? 正直、気乗りしないなぁ…。



 写真右。
煉瓦の一部は剥離崩壊しているものの、まだ厚みは残っている。


 写真左。
ここのヘドロは自然界にあるものとしては異例の臭さで、しばらく車の中から匂いが消えなかった。
あんまりかき混ぜていると、狭い洞内で窒息する危険さえある。

 さあ、撤収だ。
相ノ股隧道、終了。

「愛の股はぬめぬめの濡れ濡れだった」なんて、私は言ってませんからね。

 





 さて、津軽林鉄本線におけるもう一つの隧道であり、森林鉄道用としてはおそらく日本唯一の中央分水嶺越えを果たしていたのが、中山峠直下に掘られた六郎越隧道だった。

 こちらについても、従来の「確認できない」から一歩でも前進するべく、少ない時間の中で精一杯の捜索を試みたものの、残念ながら、蟹田・中里側両坑口とも、発見には至らなかった。
ただし、当時地の地形図と照らし合わせてのピンポイントの捜索によっても発見に至らなかったことを考えると、残念ながら、こちらについては、本当に現存しない可能性が高いと言わざるを得ない。

 相ノ股隧道と並び、明治41年に開通した六郎隧道は、延長454.5mと2倍以上の延長があり、峠を越えるサミットの主トンネルとして、その偉容が期待されるところであるが、残念な捜索結果ではあった。




 とりあえず、蟹田側の坑口擬定地は左の写真の箇所だ。
県道の「やまなみトンネル」蟹田坑口から100mほど手前の、峠に向かって右側の沢の対岸で、当時の地形図の坑口に近い位置に、写真のような細長い沼と、これに続く急斜面が存在した。
斜面は、そのまま峠越えの旧県道の直下まで駆け上がっているが、開口部は発見できなかった。
また、相当量の崩壊したような土砂が斜面を埋めており、その基部からは湧き水が沼に注いでいるなど、坑口跡としては信憑性が極めて高い地形となっている。

 おそらく、蟹田側坑口は、ここだ。




 一方、中里側の地形は、改変の度合いが蟹田側よりも大きく、擬定地も一つには絞りきれなかった。
最も可能性が高いのは、この写真の大崩壊斜面のあたりだ。
当時の地図との比較では、ここが一番臭い。
しかし、まるっきり前も後ろも崩壊しており、しかも手前は砂防ダムで路床らしい痕跡も完全に失われているなど、痕跡は乏しすぎる。

 やはり、六郎越隧道は現存しないのか。
あたりの地中のどこかには、一条の光も届かぬ、永遠の闇が潜んでいるのだろう…。





 現在確認できる六郎越隧道の唯一の姿は、この青森森林博物館に所蔵されている、立派な扁額のみである。
扁額は、歴史ある中央分水嶺越えの隧道に相応しい、森林鉄道用としては比肩するもののない大きなもので、「六」「郎」「隧」「道」の文字と、縦長の「延長四六〇米」の5枚が現存する。

 この扁額入手の経緯について、後日博物館に問い合わせたところ、親切にお答えいただいた。
それによれば、昭和42年の廃止の段になって、「もう隧道は使わないから」と取り外したものを、記念に引き取ったものだという。
ただ、それ以上の事は不明で、例えば、扁額を取り外した後の隧道が具体的にどうなったかや、扁額は一対しか無かったのかということなどは、記録がないという。
回答してくださった方は、「県道のやまなみトンネル工事で無くなった」というようなことを仰っていたが、これについては、当時の地図と現在のトンネルの位置とが異なることから、必ずしも正解ではないと考えているが、当時の地図の誤差の範囲内とも考えられ、引き続き情報の収集に当たる予定である。





(2014.9.22追記)  遂に発見! 六郎越隧道の古写真


津軽半島の脊梁である(と同時に本州の中央分水嶺でもある)中山山脈を、中山峠の直下で貫く全長454.5mの六郎越隧道こそは、この半島の東西両側に200kmを超える路線網を有した津軽林鉄における最も核心的な構造物であり、その象徴だといっても言いすぎではないだろう。
だが、昭和42年に廃止されたこの隧道の情報は、津軽林鉄そのものについての情報量に較べれば不思議と思える程に僅かしかない。

そこに隧道が存在したことは間違いないし、津軽林鉄の遺物を最も高密度に集約保存している青森市森林博物館には、かなり前から同隧道の扁額とされるものが(上の写真の通り)展示されていたのであるが、隧道そのものは既に崩壊してしまったらしく、地上に全く姿を留めていないうえ、残された扁額以外に往時の姿を知る手掛かりとなる「写真」も、私が探索した2005年(平成17年)11月当時は未発見であった。
少なくとも、私は写真を探し当てることが出来なかった。

それゆえ、“幻の隧道”などという、私にとって都合の良い言葉で片付けてしまうよりない存在であった。
だが、どう考えても我が国の林業近代化史上に燦然と輝く六郎越隧道は、そのような曖昧な言葉で終わって良い存在ではない。
写真だって、ちゃんとあるところにはあったのだ。

それがようやく私の目に届いたのは、最初の探索から9年後の2014年(平成26年)9月20日、青森市森林博物館で開催されていた企画展「よみがえれ 津軽半島森林鉄道」の中であった。


まずはこの2枚。
キャプションは、「六郎越トンネル 中里側(S29.4.11 藤田健市蔵)」。

これが、初めて目にする六郎越隧道の現役当時の風景であり、私が知る限りでは、現役当時の唯一の写真でもある。

坑口は意外にも扁額を飾るような坑門を有さないタイプで、木造の支保工に支えられた坑道が直接外に露出していたようだ。
特筆すべきは、そんな華奢そうな隧道の作りには似合わない、地山の如何にも崩れやすそうな風合いである。
岩山ではなく土山に掘られた隧道だったようだ。

それに、実際土砂崩れが頻発していたのではないかと思われるほど、坑口前の路盤には土塊のようなものが多く散乱している。
左の写真などはほとんどレールが見えないし、一見すれば既に廃止後のようにも見えるが、撮影時期は明らかに現役時代を示しており、それも津軽林鉄の全盛期!
完成から既に半世紀以上を働いてきた隧道を、毎日のように運材列車が走り抜けていたはずである。
(右の写真はまさにガソリンカー牽引の運材列車が隧道を通行しようとしている場面だ)


この写真は本編でも使用したが、2005年の探索で撮影した中里側坑口の擬定地点である。

探索ではあくまでも“擬定地点”であり、坑口そのものの痕跡を見出せなかったのであるが、今回新たに現役当時の写真と比較が可能になった事で、ここが確かに坑口跡であったと確信することが出来た。

地形、地質、背景、明らかに同一地点である。
そして、ここが隧道跡と確定したことにより、中里側坑口が完全に埋没しているという事実も確認されてしまった。

…こうなると、残された希望は蟹田側坑口である。
蟹田側も同じように擬定地点を見出してはいたが、やはり明確な坑口跡の遺構は未発見だった。




そして企画展では、六郎越隧道の蟹田側坑口の写真も展示されていた。
これももちろん初めて目にする写真である。
六郎越トンネル 蟹田側(森鉄青森事務所1)」。

こちらには撮影時期が書かれていないが、この展示物の制作者である草g與雄氏(前青森市森林博物館専門員)に直接お話しを伺ったところ、正確な撮影時期は不明だそうだが、廃止後に撮影されたものであるとのことだ。
つまり、昭和42年以降の撮影である。
確かに写真の中の隧道は崩土に半分埋もれているようで、廃隧道の匂いがプンプンだ。

だが、この最末期的状況の写真もまた重大な内容を持っている。
まず気がつくのは、先ほどの昭和29年に撮影されたという中里側坑口との作りの違いだ。
蟹田側坑口を撮したこの写真には、コンクリート造りの相当凝った意匠を有する(林鉄用としては見たことがないほどの凝りようだ)坑門が写っている。

本当にこの坑門の意匠は凝っていて、ぶ厚いアーチ環、胸壁の上下を隔てる帯石に櫛形の歯飾り、おそらくは笠石もあるようで、帯石と笠石の間には重厚な扁額が「道」「隧」「郎」「六」と嵌め込まれていて、さらにアーチ環左上には縦書きで「延長四六〇米」の銘板も見える。

総じて明治らしい煉瓦造りであった相の股隧道とは全く異なる意匠であり、同時に開通した同じ路線内の隣接した隧道とは思えないほどだが、先ほど見た昭和29年の中里側坑口が素掘だったことを考えれば、六郎越隧道は開通当初から昭和29年頃までは素掘で、それ以降にこの蟹田側坑口のようなコンクリート坑門の建造や、内部の巻き立て(おそらく)が行われたと見るのが、一番しっくりくると思う。
なぜ六郎越隧道を当初から煉瓦巻にしなかったのかは、今のところ不明であるが。


ともかく、この写真が撮影された後に扁額だけは回収されたらしく、森林博物館に展示されるという光栄な余生を送ることが出来ている。(→)
(ただし、展示されているものが上の写真の蟹田側坑門から取り外されたのかは不明。)

そして、この扁額を除く隧道のすべてはそのまま放置され、やがて地中へと埋没してしまったのである。



残念なことに、私がかつての探索で蟹田側擬定地と判断した右写真の地点もまた、そこが確かに蟹田側坑口の埋没地だったと確認された。

根拠は、同企画展に展示されていた草g氏撮影の現状写真(↓)との比較による。
写っているのは、明らかに私の擬定地と同じ場所だ。



それだけではない。
草g氏によれば、現在でも坑門の上端付近が、僅かに水上に見えているのだという。
確かに氏の写真を良く見ると、コンクリートの段差のようなものが見えるが、それが坑門の上端部だというのか。
私の写真では落ち葉に覆われていて見出せないが、これは再訪する必要があるようだ。

氏は、現地の水を抜いて土を掘っていけば、隧道が再び地上に現れるのではないかとも仰っていた。何とも夢のある話し。
そして、聞き捨てならないニャ〜…。



【追記おわり】





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