奥羽本線旧線 大釈迦隧道 前編
奥羽本線で最も古い隧道
青森県 浪岡町〜青森市
 
 明治27年12月1日、後の奥羽本線の一部として建設された奥羽北線の最初の開業区間は、青森駅から弘前駅までの区間であった。
その大部分は広大な津軽平野にあり平坦な線路が続くが、途中一度だけ峠を越えている。
それが、青森市と浪岡町の境を成す大釈迦峠である。
これは、標高100m強に過ぎない丘陵状の峠であるが、その浪岡側には最大25‰の急勾配が控え、秋田青森県境の矢立峠と並び、奥羽北線を代表する難所であった。
この大釈迦峠が、勾配を緩和した新線に切り替えられたのは昭和38年のことであり、昭和40年前後に各所で路線の改廃が進んだ奥羽本線内でも、比較的早く交換された部分である。(災害を原因としない路線付け替えとしては最古)

そして、峠を貫く隧道が、取り残された。

奥羽本線で最も早く開業し、いち早く消えていった隧道とは、一体どんな姿なのか。
レポートしよう。

 
 2004年2月18日。
この日の青森は変わりやすい天気だった。
空は、冬の透き通った青空が広がったかと思えば、今度は夕暮れのように暗い雷雲に閉ざされた。
そして、今また天候の急激な変化が起きつつあった。

国道7号線を、いよいよ大釈迦峠に向け登り始めようと言う、そのときに。




 峠の登りが徐々に姿を現すも、道の両脇には民家が軒を連ね、事業所やコンビニまである。
勾配も緩やかで、とても困難な峠という景色ではない。
しかし、それでも私は全く容易ではなかった。
なぜならば、この雪だ。
降ってくる雪もそうだが、この、道の狭めるように路肩を埋める雪が、邪魔だ。
ここは天下の往来「国道7号」である。狭い歩道もあるにはあるが、全く除雪されておらず、全く用をなさない。
車道を走るのは専らのこととはいえ、路肩に寄れば濡雪に足を取られ、あまり車道に出ればトラックにクラクションを鳴らされ…。

どないせーちゅんじゃ!!(怒)



 イライラしながら登っていたら、あっけなく峠に到着。
この時、天候は最悪の吹雪となっており、カメラを取り出すことも躊躇われた(壊れるから)。
人生初めてチャリで青森市入りするという感激もそこそこに、こんな所に立ちつくしていては、いつ車に轢かれるか分からない!

冬の山チャリ…、いや、とにかく冬のチャリは、めちゃくちゃ危険なのだ。
私が肌で感じる危険の度合いと言えば、そうだなー。
いつ崩れてくるか分からないような廃隧道よりも、さらに怖い。
マジな話。



 峠をほんの50mほど下ったところには、またコンビニがあった。
さっきはミニスト、今度はサーケイだ。 …青森では秋田ほどローソンは強くないのだな(涙)。

今回の探索に於いては、私は非常に頼れる事前情報を得ていた。
それは、廃線フリークのバイブル(?)『JTBキャンブックス刊 鉄道廃線跡を歩くV』『同W』に加え、『無明舎出版刊 とうほく廃線紀行』など、多数の書籍だ。
この大釈迦隧道を含む旧線については、本稿の初めにも述べたとおり歴史的に貴重な物件であり、これまでも多く取り上げられてきたのだ。
というわけで、今回の私の探索では今まで取り上げられていない「隧道内部」に焦点を絞って行こうと思う。
この積雪では、隧道以外の遺構の発見は困難だろうし。

前出の書籍によれば、隧道の唯一現存する坑口は、このコンビニから国道を挟んだ反対側の沢の底にあるらしい。



 サーケイにチャリを置き、かんじきを着用して国道を横断。
そのまま道路脇の雪の壁によじ登り下を覗くと、そこにははっきりと隧道の姿が。
夏場は猛烈なブッシュとなっているというが、この季節視界を遮る物は、吹雪だけだ。
雪の下の地形が全く分からないのが不安であるが、どう迂回しても急斜面を下らねばならないようであるし、慣れないかんじきでの徒歩を減らしたいという意向から、強引にこの斜面を降りることにした。

帰りのことも顧みず…。


 いざ雪の斜面に踏み込むと、そこは20cmの新雪と、その下の50cm以上のザラ雪が想像以上の難所を形成していた。
斜面も急であり、一気に滑り降りるつもりが次の瞬間には、腰まで埋もれたあげくに、かんじきが脱げ雪の奥に行方不明となってしまった!
ぐわー!買ったばかりなのに!

あわてて雪を掘り返し、かんじきを発掘した私はもう、全身雪まみれ。

それにしても、腰までの積雪で、降りるだけでもえらい疲れる。



 腰まで埋まった状態で、国道を見上げる。
この斜面が、とにかく大変だった。

ここを登って帰れる気がしないのだが…。
そんな具体的な不安を感じながらも、もうここまで来たからには、まず隧道だ。




 大釈迦隧道、明治27年の竣工は、私が今まで目撃した鉄道隧道の中でも一番古い。
総煉瓦造の坑門はさすがに貫禄を感じるが、扁額はなく、奥羽本線に見られる廃隧道としては一般的な形状である。

谷の底の線路跡には1m以上の積雪があり、かんじきがなければ、身動きが出来なくなりそう。
しかし、この猛吹雪では、いつもなら恐ろしい隧道の中のほうが、むしろ快適そうに見える。
カメラの故障が心配なので、付近の探索も後回しでまずは隧道内部へ進んだ。





 坑口から、細長い切り通しとなって残る旧線跡を振り返る。

路盤上にも木が生えており、廃止されてから半世紀を経た姿となっている。
白銀の森の底には、雪のせいか国道の喧噪も届いていない。



 色を失った煉瓦を割って、なんと木が生えていた。
別にこんな場所に根付かなくてもと思うが、文化財級の建築物をも容赦なく自然は同化していく。
そこに人の営みがあったかどうかなど、全く意に介さない。

人類の痕跡など消えてしまった遠い遠い未来。
この坑門だけが、巨木の根に守られて、その姿を留めているとしたら?
その可能性は万に一つ以下だが。

そんな幻想は、私に楽しみを与えてくれる。



 いよいよ内部。

静かな洞内の、異様な光景。
峠直下の隧道と言うことで、地被りが低く地下水が少ないのであろうか。
この時期の廃隧道の風物詩である巨大な氷柱は存在しない。
しかし、天井の全体が白く、変色している。
まるで、雲のような模様が奥まで続いており、美しいと形容しても差し支えがないのかもしれないが、私には、危機を感じさせる。
内壁の白い変色は、地下水の影響が大きい。
そして、この様な状況に陥った隧道のうち幾つかは、…致命的な崩壊により、消滅しているのだ。

たとえば、同じ奥羽本線では秋田県大館市の旧橋桁隧道や、有名な横荘線は二井山隧道などが、やはり同様の白化現象に見舞われているが、既にいずれとも崩落してしまった。



 より坑口に近い部分の天井には地衣類が自生しており、煉瓦の上にコンクリートを巻いていたのであろうが、それらはもう、土と化しつつある。
こんな有様でもなお、元々が素堀の隧道よりは強度もあるのだろうが、これらの変状を見ていると、隧道の断末魔のように感じられてくる。
ただし、本隧道については自然崩落を待たずに、既に通行は出来ない。
隧道の浪岡町側は宅地化などで地形が改変され、既に坑口は埋められて久しいのだ。
当初274mあった隧道が、現在どれほど残っているのか、それは、この目で確かめるしかない。





 次回、入洞。
 そこで痛恨のアクシデント発生!!


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