この交差点はT字路になっており、秩父方面から来ると左右のどちらかを選択して曲がらねばならないのだが、直近には右の青看が設置してあるから、甲府を目指す殆ど全ての車は右折することになる。
しかし、この青看には嘘がある。
国道140号は右であるとされているが、左も同じ国道140号なのだ。
この交差点、右へ行っても左へ行っても、ともに国道140号なのである。
また、今回紹介する範囲からは外れてしまうが、この旧道はさらに通称「上道」「下道」とされる二本の国道に分かれる区間が、6kmほどある。これは世にも珍しい一般国道のみの三分枝区間といえる。
ちなみに上道が三本の中でダントツに古い道であり、江戸時代以前からの秩父往還のルートに近い。
下道は、大正頃から盛んに建設された電源開発及び森林開発のための軌道(林鉄)跡を利用した、上道に対する腹付け複線としての車道であった。だから、新道が開通するまでの長年、この両者はそれぞれ上り線下り線として、一方通行になっていた。(現在はフリー)
落合を左折し、現役でありながらも閑散とした国道を進む。
しかし、チャリにとっては優しい道になったのだと思われる。
なにせ、次々と小さな集落が路傍に現れるが、一向に歩道はなく、昔ながらの歩車混合の交通事情となっている。
国道の証として、ちゃんと“おにぎり”も取り付けられている。
補助標識には「秩父市大滝」の地名の他に、「彩甲斐街道」と書かれたものが取り付けられている。
これは、平成10年に雁坂トンネルの開通によって、本国道が埼玉県と山梨県(甲斐国)を結ぶ初めての国道となったことを記念して名付けられた、路線愛称である。新道も同様に呼ばれている。
国道は深い谷の底を、川べりに進んでいく。
両側の山並みは、上部を雲に隠されるほど高い。
谷を流れるのは滝川で、落合で合流する中津川とともに、関東の大河のひとつ荒川源流の一翼を担う。
滝川も中津川も、巨大なダムによって姿を大きく変えてきた歴史を持つ。
落合から1kmほど来たところで、なんの前触れもなく「駒ヶ滝トンネルまで3km」という看板が現れた。
何を言いたいのか、ちんぷんかんぷんだ。
ただ… そのトンネルに 「何かあるな」 というのは、大変よく分かる(笑)。
さらに1km進むと、国道は思いがけぬ場所を通らされることになる。
ここは、明らかにセメント工場の構内だと見えるのだが、そこを国道は突っ切る。
しかも、その構内で旧道と分岐する。
土埃がアスファルトを白く変えた分岐地点。
左が旧道で、上流の二瀬ダムが出来るまでは国道だった。
一方、右の道がダム建設によって付け替えられた国道である。
目指す隧道は右だが、ダムサイト直下まで1kmほどと遠くないので、まず旧道へと進んでみた。
あー 奥秩父だ。
思わず、奥秩父の林鉄に通い続けている同志の口癖を言ってみたくなった。
確かに同じような山村であっても、岩手県の奥岩泉付近とは、明らかに別の風土を感じさせる。
何が?と問われると答えに窮するが、確実に違う。
ちなみに、スタート地点の落合からここまでの道は全て、大正10年頃に関東水電という電力会社(後の東京電力である)が布設した資材運搬用馬車軌道に由来している。戦前には廃止され車道化しており、もはや軌道時代の痕跡を見出すことは困難だ。
そして、1車線ギリギリの舗装路はやがて谷を塞ぐ濃灰色の壁に行き当たる。
昭和36年に完成した二瀬ダムの偉容である。
比較的古いダムだが、全国で12基しかない「重力アーチ式ダム」という珍しい形式だという。
確かに堤頂線の緩やかなアーチと、重力式らしいどっしりとした堤体とが併存している。なお、その堤高は95mある。
ところで、写真右に写っている路上に張りだす形の岩場だが、何となく軌道時代の掘削物であるような気がする。
何となくだが…。
もうこれ以上は進めないという、どん詰まり、ダム堤体の直下まで進んでみた。
物凄い迫力である。
いま、手許に昭和27年版の5万分の1地形図「三峯」があるが、それを見るとちょうどこの辺りで、車道と軌道の記号とが真っ直ぐ接している。
この流域の軌道と車道の歴史は複雑で、網羅しようとすればとてもスペースが足りなくなるが、大雑把に言ってしまうと、大正10年にまず関東水電が資材運搬用馬車軌道を布設(強石〜落合〜川又)。その後、川又のさらに上流に広大な演習林を有する東京大学が、材木の運び出しのためにその軌道を改良して利用するようになっていった。軌道の所有者も二転三転している。昭和20年代ごろからトラック運材が盛んになり始めると、例に漏れず下流側から軌道の撤去と車道の布設が始まることになる。
ちょうど同27年の当時は、下流から二瀬までは車道化していた。
また、同25年に「二級国道140号熊谷甲府線」として指定されている。(ただし秩父側で自動車が入れたのはこの二瀬まで)
そして、同36年に二瀬から川又までの区間は当ダムの完成によって永久に廃止されることとなる。
同時に付け替え車道が川又までの便を供することとなったのである。
現在の国道はその時の車道であるし、これから向かう駒ヶ滝隧道も同様の経緯で生まれた。
6:58
旧道の入口まで戻った。(旧旧道と言うべきだったか)
今度は現道を行く。
現道だと、ダム堤体まで旧道の倍の距離がある。約2kmだ。
何故倍の距離があるのか。
それは、ご覧のような猛烈な九十九折りでダム高を稼ぐからである。
写真右下に写っている工場は、上の写真の場所だ。
そこから、1スパン約200mのヘアピン三段を連ね、一挙に高低差60mほどを稼ぎ出す。
勾配はさして厳しくないが、この酷い線形の道が奥秩父有数の観光地である三峯神社をはじめ、奥秩父一帯の生活と観光の全てを支えていたのだから恐れ入る。
また、雁坂トンネルが開通した平成10年の4月23日から約半年間は、まだ並行する新道「大滝道路」が開通していなかったため、開通ラッシュの猛烈な渋滞に悩まされたようだ。
平成の世になってトンネル開通がそんなに珍しいのかと、部外者にはそう思われるところだが、雁坂トンネルの開通がこの地方にとってどれほど特別であったかは、百年の大計などと言う定型句では表現しきれぬものがあるようだ。(例えば雁坂トンネル坑口から約40km離れた秩父市街中心部の国道の青看に「雁坂トンネル有料道路」が“行き先”として表示されていたりする。普通ならその先…例えば「甲府」などと表示するところだろう)
ちょっと極端な写真だが、この九十九折りの鋭角な様子を表現してみた。
ガードレールの真下に、(本当に真下に)道がある。
そして、さらにその真下に、もう一段下の道が見えている。
お陰様で、普通の道路地図だと道同士めり込んでいる(笑)。
九十九折りで高度を得た国道は、ようやく上流方向へと進み出す。
周囲は相当の急傾斜地だが、同時に二瀬の集落でもある。
いつの間にか、明治以前の街道筋と国道は重なっていた。
車が通るようになったのは無論、ダム建設が始まる頃からだが。
路幅をはみ出して上ってくる大型車。
こんな光景が、数年前までは今の何倍も多く展開されていた。
雁坂トンネル開通以前の国道140号は行き止まりの道だったが、それでも三峯山や奥地集落の唯一交通路として通行量はあった。
落合より約4km。
二瀬集落のもっとも家並みの密集した辺りにさしかかる。
街道沿いに立地した集落だからか、殆どの家が道に面して建っている。
「ガソリン点検!!」 「この先 スタンドなし」は、この深山幽谷の奥秩父においてガチである。
県境はまだまだ遠いが、埼玉の西の果ては信州に匹敵する山深さだと思う。
そして、 おまたせしましたー。
メ イ ン ディッシュのおでましだぜー。