二井山隧道   再訪 最終回
遂に逝ってしまった
雄物川町二井山
   天井を覆いつくすコウモリの群れにビビリまくりながらも、辛うじてその目で崩落の現実を内部から確かめることに成功。
あとは、崩落現場となった老方側坑門を確認すれば、いつも重苦しい独特の空気を纏う二井山隧道との、一応の決着を見ることが出来よう。
崩壊した隧道を迂回し、坑門を目指した。



 
 秋田県主要地方道48号線の唯一の不通区間である二井山隧道を迂回する道は大きく分けて2本あるが、二井山の集落内を通る道が一般的だ。
一方、最大限通行可能な部分を利用しようとすれば、このもう一本の迂回路となる。
標識も何もない畦道であり、通行量の少なさは疑いようも無い。
しかし、一応二井山隧道老片側坑門のすぐ傍から南へ別れ、畦道500mほどで、同隧道二井山側坑門に近い出羽グリーンロードに出られる。
写真に写る白いガードレールが、まさしく県道の不通区間の始まりであり、迂回路が間もなく県道に合流する部分だ。



 合流した県道から、不通の隧道方向を見る。
かつては鉄道が通っていたのだが、ちゃんと車道幅(1車線だが)に土手は拡幅されており、畦道として辛うじて生きながらえる。

だが、その先の森で道は唐突に終わる。




 ブツッと森へ消える道。
訪れる度に、時期にも拠るのだろうが、だんだんと森は深くなっている気がする。
もはや、この先に道があったことを確信できる者でなければ、入ろうなどとは決して考えないであろう。
この森っぷりは、はっきり言って、二井山側以上だ。

初っ端から大量の蜘蛛の巣に阻まれ萎えたが、ここまで来たら坑門はすぐそこ。
何も考えずただただ前進!



 幸い深い森の中ほど下草の繁茂は免れており、奥へ進むほど道跡ははっきりとしている。
そして、僅か50mほどで、坑門のあるべき斜面が見えてきた。
遂に、対面のときが来た!



 蜘蛛の巣を掻き分け、一歩一歩前進するたび、坑門の代わりに見えてくる茶色の斜面。
様子がおかしい。
鬱蒼とした森の中に、ひっそりと静かにたたずんでいた坑門は、


どうなってしまったというのか?!


 あと20m。
視界を遮る枝葉の向こうに、遂に坑門の全体像が見えてきた。
そこにあった姿は、衝撃的の一言。
一昨年には、まだまだ健在であったはずの坑門は、無残にも天井が落ち、大量の土砂に埋もれている。



 70年以上も昔のことだが、ここを本州縦断を夢見て走った小さな列車があった。
時代の流れと共にその夢は潰えたが、それでも残された隧道は、地域の人々にとって大切な生活道路として、永く利用されてきた。

押し寄せる老朽化は如何ともし難く、遂に道としての使命を終えた後も、まだ、
昔を懐かしむ好き者たちによって、あるいは、
偶然通りがかった、小さな冒険者たちによって、何度となく“発見”された。

霊気を漂わせ威容を誇った、隧道。
容易に蹂躙されぬ高潔を誇った、隧道。
私が愛した、最初の廃・隧道。
それがこの、二井山隧道だった。

さようならの瞬間は、2003年春のある日、唐突に訪れた。




 最期。
それが朝靄の中であったか、雪解けによって土砂が緩んだ昼下がりのことであったか、それと丑三つのことであったかは、分からない。
しかし、坑門から2mほどを残し、天井が頭上の土砂や木々と一緒に落ちている姿からは、その崩壊が激しく瞬間的なものであったろうことを想像させる。
きっと、最後の瞬間、重力の堰を切って猛烈になだれ込んでくる土砂に洞内の空気が圧搾され、崩落点から遠い二井山側の坑門からは突風と轟音が噴き出しただろう。
たぶんそれが、隧道にとっては十分巨大だった汽車が疾駆した時以来の、洞内の空気が激しく揺らいだ瞬間だったに違いない。

そして、次に静寂が取り戻されたときから、二度と光の届かない闇が隧道を覆ったままだ。。




 実は、坑門の前は大変なプールになっており、接近には細心の注意を要した。
見たところ水深は20cmくらいだが、経験上これは泥沼であり、腰まで水没する覚悟はいるだろう。
当然、そこまでの準備はしていないので、切通の斜面に草木を足がかり手がかりにして張り付き、接近したのだ。
いずれにしても、綱渡りのように不安定な道程であり、墜落の覚悟は必要だ。

 坑門にかつての威厳なく、土砂に蹂躙され無残な姿に。
墜落してきたのは土砂だけではなく、その上に生えていた木々にとっても突然の生命の危機だった。
行き場を失った根が大量に日光の元に晒されている。


 坑門だけを見れば、以外に原形を保っている。
この崩落の姿は、奥羽本線の旧線にあった「橋桁隧道」は弘前側坑門に良く似ている。
きっとこれは、この時期のレンガや石によって作られた隧道の構造的な欠点なのだろう。




 短いアーチと化した坑門をくぐり、さらに上部の土壁を見上げる。
非常に急な斜面であることと、粘土質の土砂が湿り気を帯大変滑りやすいことから、坑門上にこれ以上登ることはあきらめた。
手前の切通部分から上部に登ればそれも可能かもしれないが、この時期は草木の繁茂が凄く、それも断念した。
さらに、崩壊が進む空洞の上に立つことは、生き埋めのリスクを多量に背負うことにもなる。
埋まり死ぬのは、嫌な死に様ワースト3に入るので勘弁だ。




 今度は、坑門に向かって右側から、残された坑門のアーチを見上げる。
これはこれで美しい。



 この写真は、隧道という水路を失いダム湖と化した坑門前の景色である。
洞内はやや勾配があり、二井山側が低いため、このようになったのだろう。
ここを越えねば、坑門には接近できないので、注意されたし。

 いやはや、それにしても想像以上の惨状だった。
今年は決して雪が多かったわけでも無いし、崩落の直接の原因は不明である。
ただ、前回撮影した2年前の今回崩壊した付近の写真や、さらにその後に撮影された、すっす海さんによる『〜旧道・廃線跡探訪〜』サイトのレポートなどを見れば、その老朽化は臨界に限りなく近付いていた事を理解できる。
逆に言えば、そのような状況になった隧道は、いつ崩壊してもまったくおかしく無いから、絶対に立ち入り禁止だという目安にもなる。

おおっ!
自分で書いておきながら、これは良い教訓になった。

では、皆様にもその、“限りなく危険な状態”をご覧頂こう。
これが、2年前の春に撮影された、今回崩壊した地点の映像である。(下)




 これが、誕生後73年目で大崩壊を迎える隧道の、71年目の姿である。
寿命の97%余りを失った姿だけに、確かに「もう限界」感が漂っていると見るのは、結果的だろうか?
いや、まだ健在な廃隧道のどれと比較しても、この汚れぶりは凄まじく、今後このような穴があったら寿命は残り3%未満と理解しておくことにしよう。
それでも立ち入るかどうかは、その時に決めれば良いことだ。



 あと、本レポートを作成しつつ、引き合いに出した橋桁隧道の写真も今一度確認したのだが。
奇妙な一致点を見出した。

写真は同隧道の崩落を免れた大館側坑門の姿である。
二井山と比して、崩落などの損傷は圧倒的に軽微ながら、やはり他の健在の隧道群とは一線を隔した…

白さ である。

 多分、地下水の異常な染み出しによる隧道の腐食がこの白さの原因だろう。
だとしたら、この白さこそが、本当に危険な隧道のシグナルなのかもしれない…。


 ああ。 怖いよぅ。

   二井山隧道

竣工年度 1930年  廃止年度 1990年頃?  
延長 191.4m   幅員   3.5m    高さ  4.5m

2003年春頃に老方側坑門付近が崩落し、閉塞してしまった。
現在も通行は一切不能。更なる崩壊も懸念される状態にある。


 おまけ。

多量に露出した土砂の中に、ご覧のバウムクーヘンのような美しい文様の際立つ石を発見しました。
これ、謎の物体だったのですが、『山座同定』サイト管理人でありの地学に精通されたもっきり氏によれば、“硬質泥岩”というものらしいです。

この年輪のような不思議な模様は、明瞭な板状の層理を成す「女川層」由来のもので、白と黒で一年分。
まるで年輪ですね。
黒い部分は、プランクトンに由来する可能性が高いそうで、この石では本来黒い部分が赤褐色なのは、風化による錆びの作用だそうな。
さらに、木目のような歪曲は、褶曲作用の結果らしい。

うううーーん、…地学の授業を思い出した。
いずれ、こんな内陸の山中が、かつては海の底だったという証拠なのだそうです。

はい、勉強になりましたね、皆様。
テストに出るかもしれませんよ。

もっきり先生、ありがとうございました!!



2003.8.3/2003.9.1部分訂正


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