隧道レポート 尾去沢鉱山 煙道  前編 

公開日 2006.10.01
周辺地図

 秋田県鹿角市は、十和田湖や八幡平、湯瀬温泉などの観光地に恵まれた、緑豊かな街である。
だが、市の中心地である花輪地区の西側に、まるで火山地帯のように赤茶けた、巨大な禿げ山がある。
それは、昭和53年に閉山した尾去沢鉱山の跡地である。

 尾去沢鉱山は、本県を代表する金属鉱山で、日本有数の長い歴史を持っている。
その発見は、奈良時代の和銅元年(708年)に遡るという説もあり、ここで産した金が奈良東大寺の大仏鋳造に使われているとも云われる。
その後それぞれの時代の要請に応じ盛衰を繰り返しながら近世を迎えた本鉱山は、やがて主な産出物を金から銅に変えるとともに、幕末には日本三大鉱山の一つに数えられるほどに成長していた。
明治以降、遅ればせながら当地にも近代的鉱業が押し寄せ、現在も一部が残る大規模な鉱山建築物群が形成されていった。
尾去沢鉱山を通じての産出高のピークは、戦中の昭和18年で、年産103万トンという未曾有の大産出となった。その後は全国の鉱山の例に漏れず、海外からの安い鉱石の輸入や、資源の枯渇により経営規模を年々縮小。昭和53年に関連鉱山全てが閉山し、1200年の歴史に幕を閉じたのである。

周辺地図
写真:昭和50年頃の精錬所と大煙突

 現在、広大な尾去沢鉱山跡地の一部を利用して、全国初の鉱山テーマパークであるマインランド尾去沢(昭和54年開業)が営業中である。また、それとは別に、明治22年以降閉山間際まで当鉱山を経営した三菱の関連企業も敷地内で稼働している。
しかし、大部分の鉱山跡地は、閉山当時のまま放棄され、荒れるに任されているように思われる。

 右の写真は、閉山間際の精錬所(昭和41年操業停止)と、トレードマークだった大煙突(高さ60m)の姿である。
そして、2004年の9月に撮影されたのが、右下の画像だ。



 累々と重なるような巨大な三角屋根の選鉱場はすっかり廃墟に変わっており、背景の禿げ山にあった幾つもの高層建築物も殆ど消滅した。
ただ、雄々しく屹立する大煙突だけが、当時と変わらない姿を見せている。

 そして、今回私が挑んだのは、この煙突に至る道。
これまで、人や物、あるいは水が通った道などを扱ってきた当サイトにとっても初めての、“煙道”である。
いうまでもなくこれは、煙突から排出されようとする数百〜数千℃の高温ガスが通り抜けた、灼熱の道。
現役当時は、まず人など通れなかった道である。



 現地の遠望(左)と、昭和50年頃に撮影された空中写真(右)である。

 空中写真からは、半径1km程の広大な敷地内に多数の鉱山施設が点在していた様子が見て取れる。
主たる坑道は、現在のマインランド尾去沢の観光坑道となっている石切沢坑道他で、そこから複線の鉱山トロッコが選鉱所へ続いていた。



 かつての精錬所跡から見上げた大煙突と、そこへ続く煙道の跡。
大煙突は昭和20年の竣功で、高さ60m、直径は頂部で3m、底部で6mである。
精錬所は大型のシックナー(遠心分離器)を併設しており、戦中の超大増産時代を支えたが、戦後は旧世代化し、昭和41年に鉱山全体に先駆け廃止されたものだ。

 右の空中写真(拡大図)にマウスカーソルを合わせると、画像から読み取れる煙道の位置をハイライトする。
こうして見ると、煙道は一本でなかったことが分かる。
この煙道を利用し、険しい山地に建つ巨大煙突を目指したい。


 今回の探索は、2006年9月30日(土)に私と細田氏の2名で行われた。
この探索を行うにあたり、有力な情報を提供してくださったNogana氏には、心から感謝している。




廃墟界の巨人 尾去沢鉱山

 第一階層 迷宮を越えて


 尾去沢鉱山跡地。
ここには、広大な廃墟が眠っており、全国の廃墟好きを惹きつけて止まない。
だが、廃墟群の前庭には現役で稼働する工場が連なっており、平日休日を問わず、多くの人が働いている。
この廃墟探索には、誰何と通報というリスクが常に付きまとうようだ。
私もこの場所へ来るのは4度目くらいだが(通洞の捜索など)、煙突まで行こうとするのはこれが初めてであった。
ご覧のように、煙突のある山は禿げ山。工場の敷地内から嫌でも目立つ。全山が立ち入り禁止なのかは不明だが、煙突付近を歩いていて発見されれば、登山だという言い訳は通用すまい。

 我々も一応は人出の少なかろう土曜日の午前中を探索に選んだ。
社員の車に紛れて停め、ヘルメットなどの装備を調えていると、雷鳴一閃、突如大粒の雨が落ちてきた。
雷雨か!


<現在地点>

 地面を叩く雨粒の飛沫で視界が白むほどの大雨。
しかしこれは姿を隠したい我々にとってはむしろ好都合。
これに乗じて山際に層々と重なり合う廃墟へと侵入する。

 ここは、精錬所跡といわれる。
現在この北側500mほどの位置に残る選鉱場は、大正6年の建造で土木遺産にも指定されているのだが、精錬所の方は竣功時期が分からない。
おそらくは大煙突と同時期(昭和20年頃)ではないかと思われる。
廃止は昭和41年であり、廃止間際には何度もストライキが決行されたと、当時の記録は伝えている。



 巨大な廃墟の最下層。
朽ちて光沢を失ったコンクリートと、くすんだ煉瓦に囲まれた内部は非常に薄暗く、しかも足元は一面の泥の海と化していて、不気味である。



 巨大な建造物だが、もっとも手前にあるこの建物には、余り自由に移動できるスペースはない。
というのも、建物奥への全ての出入り口や隙間が、煉瓦で頑丈に目張りされている。

 目張りの煉瓦や、壁の亀裂などに析出した緑色の結晶は、内部に取り残されたままとなっている何らかの鉱毒物質の現れなのだろうか。
そう考えると、どこからも立ち入れないこの精錬所(一番手前の建物)が、実は一番危険と隣り合わせな場所なのかも知れない。
我々は建物を出て、煙道の起点があると思われる裏手を目指した。



<現在地点>

 精錬所の隣には、シックナーという構造物があった。
下から見るとこの写真のように、ただ円形の天井を持つホールのようだが、重要なのは屋根の上の部分、この円形がポイントとなる。
我々は人目を避けながら、物陰から物陰へと移動を繰り返し、精錬所とこのシックナーとの間を通って裏手へ進んだ。



 最後に階段を上り、ここから先は第2階層とでも言うべき高さとなる。
正面からは見えなかったエリアが一気に眼前に開けてくる。
奥にうっすら見えるのが目指す大煙突で、殆ど崩れて斜面に残骸のようになって見えるのが、煙道の内、右図で「A腕」とした線である。
当初、この「A腕」を使って接近できればと思ったが、この時点で計画を変更せざるを得なくなった。

 今度は、南東方向へ進み、煙道の中でも本線と目される平行2本線の起点を目指すことにした。



 しかし、進行方向にも廃墟が横たわっている。
中規模の煙突を併設しており、工作室だったのかもしれない。
全ての建物の中でも、一番破壊されている感じがする。
前庭の部分は、背後の禿げ山から雨の度に流れてくる泥水のため、既に泥に埋まっている。

 右の写真は、シックナーを真横から見た姿。
特徴的な円形の天井部分が見えはじめたが、もっと上から見ないとよく分からない。



 第二階層 極限的廃墟


 雨が小降りになったのを見計らい、目の前の廃墟を通り抜けるべく、侵入を開始する。
だが、立ち入ってみると、その荒廃の凄まじさにおもわず体が固まった。
天井は殆ど全てが抜け落ち、50cm四方もあるような巨大な梁が砕けて虚空に刺さる。
折れた梁から覗く鉄筋は表面がツルツルの物で、これは丸鋼とよばれ、戦前戦中までは主流であった。(現在主流となっている、表面に波状の凹凸がある物は異形鉄筋という)



 しかし、それにしてもここまで崩壊すると言うことが、自然に起きうるだろうか?
これは、もはや異常である。
昭和41年までは現役で稼働していたと思われる鉄筋コンクリート製の建築物が、半世紀を待たずにこれほど風化するものなのか?!
当然ここまで崩壊していれば、建物内部の様子は殆ど想像不可能。崩れた天井の瓦礫によって全てが埋め尽くされている。

 廃止後、何らかの理由で人為的に破壊したのだとしたら、なぜこのように中途半端な状況で残っているのか。
それはそれで不思議である。
ともかく現状は、並の廃墟の危険度ではない。
重さ数トンから数十トンはあるだろうコンクリートの塊が、子供が積んだ出来損ないの積木のように、無造作に散乱している。
不用意に触れれば、一瞬でお煎餅にされてしまうかもしれない。



 余りの荒廃ぶりに、もはや本来の間取りなど全く意味をなさず、建物の裏手へ回ることが困難であった。
いよいよ、一旦スタート地点に戻ってルートを考え直さねばならぬかと思ったそのとき、細田氏が意外な場所に立っているのを発見!

 なんという!
奴はこの拉げて砕けた梁の上によじ登り、歩いて建物の向こうへ乗り越えようというのか?!

 怖いが、私もこれに従った。 しかし、絶対に真似しない方が良い。



 案の定、一度登ったものの、反対側の地面へ降りるのに難儀している。

 行く手には、円筒形のタンクのようなものが。
でも、確かにこの建物さえ降りれれば、あとはもう煙道まで邪魔をするものは赤茶けた急斜面だけかも知れない。
いよいよあの、のたうつ大蛇のような煙道に辿り着けるのだろうか。



 淀んだ水が残る巨大なタンク。
この縁を伝って、やっと地面に降り立つ。
現在地は、この辺。
時刻は12時16分となり、出発から15分を経過。



 ここからなら直接煙道まで登っていくことも可能だが、瓦礫の急斜面には一切の遮蔽物が無く、麓の工場から丸見えとなる。
現実問題、ここで発見されてもどうと言うことはないのかも知れないが、まだ目的をなしていない今、少しでもリスクは減らしたい。
また、煙道も起点から終点まで通して辿ってみたい。
というわけで、敢えて近道せず、その起点となっている建物を目指した。

 ちなみに、右の写真にに斜面に多数散乱している赤っぽいブロックは、゚(からみ)石というもので、鉱山跡でよく見られる鉱滓固形物である。
並の石よりも遙かに硬く重く、廃墟となり果てた跡地にも、これだけは無傷で残っていることが多々ある。
ここでは、煙道に並行して石敷きの歩道か階段として使われていたようだが、自重に耐えかねて転げ落ちてしまったのだろう。


 最初に侵入した建物の2階部分に辿り着いた。
やはり、密閉された下層へ降りる術は全て塞がれている。
また、上層は上層で階段ごと崩れ落ちてしまっている。
 確かに冬は2mも積雪する豪雪地ではあるが、自然にこれほどコンクリートの構造物が崩壊するとはどうも思えない。人為的にある程度破壊されたのだろうか。



 そして、やっと起点へ辿り着いた。
この頑丈そうな壁と鉄の扉の向こうが、煙道の起点となる部屋(おそらくは窯)である。
ここには、このような部屋が2つ並んでおり、それぞれから煙道が始まって、並行して大煙突へ向かっている。

 煙道とは、高温のガスを正しく煙突へ導くための空気の通路である。
この尾去沢鉱山ほど、この煙道が大規模で、しかも山体斜面に目立つように築かれている例は珍しい。
しかしこの煙道、実際の運用法となると素人の私には予想の付かない部分が多い。



 2つの巨大な窯(?)に挟まれた空間。
緑青のような結晶が浮き上がった壁面は、かつては数千℃という高温にさらされ続けたのかもしれない。
前方、ガラスが全て落ちた巨大な窓の向こうには、尊大な態度の煙道が二本も伸びている。



 まるで中世の城の廃墟のよう。
しかし、瀟灑な大窓から見えるのは、覆い被さってくるかのような煙道と赤茶けた山肌だけ。
その異様な光景に、私の心は躍った。



 煙突に向かって左側、要するに南側の窯には鉄の扉が外れた場所があって、ついに内部へ入ることが出来た。
 ここの壁はコンクリートの下に耐火性煉瓦を積んである。
私は以前に窯焼きの手伝いのバイトをしたことがあるが、陶器を焼く窯と、この煙道の起点の部屋とは、もちろんその規模こそ天と地だが、色々と似ていると思える箇所が多い。

 中に入ると、ますます確信は強まった。
真っ白な煤が内壁にこびり付いていて、数千℃の超高温に壁まで赤く灼けた情景が瞼に浮かぶ。



 いよいよ人が滅多に踏み込むことのなかった煙道を、煙突目指して移動開始だ!

…と言いたいところだが、いきなりの問題発生。

傾斜している煙道の始まりは、この部屋の床から3mくらいも高い位置にあったのである。
細田氏の奥の壁を、どうにかよじ登らねばならない。



 この段差にも、以前は木製の階段が設置されていた(当然廃止後に設置したのだろう)ようだが、この階段もステップの部分だけ取り外されていて、まともに上り下りできないようになっていた。
しかし、この段差をどうにかしなくては始まらない。



 結局は、上の写真の細田氏のように、僅かに残った切り掛け部分に足を乗せながらオーバーハング気味に傾斜した階段跡を登るより無かった。
かなりヒヤヒヤしたが、どうにかこの段差を突破。

 今度こそ、ようやく煙道のスタートラインに立ったのである。




光と闇が入り交じった、急傾斜の煙道内部。

ライトがなければ、とても歩くことは出来ない。

それほどに、暗い。

が、老朽化のせいか、至る所から外光が漏れ入ってもいる。

それがまた、美しい。


 次回、
 危険極まりない煙道を、ぐいぐいと登っていきます!