安房白石隧道(仮)  後編

探索日 2009.3.18
公開日 2009.4.13


藪蛇を恐れた北口捜索


2009/3/18 15:24

読者の皆様からのコメントを読むと、「隧道ねこ」の可愛い印象だけで終わってしまった感のある洞内探索であるが、実際の印象としては「ただただ気持ちが悪かった」。
確かに隧道ねこには少しだけ和んだが、彼らの糞に塗れた泥の洞床を這い回るのは、苦痛でしかなかったのである。

どうにか閉塞を確定させ、西日射す杉林へ戻ってきた。
だが、この後も全身に染みこんだ土の臭いだけはなかなかとれず、私の鼻が慣れてしまうまで不快な穴の記憶を引きずった。




南口の状況が判明したので、続いて北口を探しに行こう。

新旧地図の比較から見いだした旧道のラインは右の通りで、北側にはそれなりに長い旧道が残っているはず。
ただし、情報提供者であるまきき氏も「ある理由」から北口の捜索は行っておらず、状況は不明であった。

とりあえず白石峠を目指そう。




15:49

海抜約190mの白石峠は、如何にも古びた感じの1.5車線幅の掘り割りだった。
隧道との分岐地点からは200mほどしか離れていない。

この峠の向こう側は鴨川市、こちら側は南房総市である。
今から40年ほど前の昭和40年代には、安房郡長狭(ながさ)町と同郡富山町の境であった。
隧道が描かれた「2万分の1正式図」の明治26年(116年前)には、長狭郡大山村と平(へい)郡平久里(へぐり)村の境だった。

次の明治36年版「5万分の1地形図」では隧道がすっかり消えた代わりに、今いるこの峠が描かれていた。
平郡と長狭郡も合併して安房郡となり、地図から消えていた。






15:51

隧道へ至る旧道の北側入口であるが、新旧の地形図を見較べてみたところ、現在は産直販売所の「しいたけ村」が建っている裏手の山中と見て間違いなさそうだ。

……。

確かにまきき氏が二の足を踏んだのも頷ける。
モロに私有地っぽい雰囲気だ…。


こ、 この看板は…。


「裏道案内→」 って……。



よし!
いいこと思いついたぞ。



「関係者以外立入禁止」だけど…。
黒の高級車が停まっているけど…。
椎茸ドロボウに間違えられても仕方がないような雰囲気だけど…。


もしも「コラーッ」ってされたら…、

「裏道探しに来ました」って言おう。

そうだそうだ。そう言おう。


…こそこそ、こっそり…




15:51 《現在地》

よし、敷地内は通り抜けたぞ。

目指す隧道は、この沢の奥と言うことだな。



……。

マジか。

…やっぱり、道は無いんだな……。




とりあえず自転車を捨て、身軽な状態で藪へ入る。

元は田圃だったらしい沢地は竹林に変わっていたが、更に入ると杉林になった。
どこに道があるのかというような状態だったが、丹念に周囲を観察すると、左岸斜面を登っていく道を発見。

これか。
これなのか。




うむ。
どうやら、これらしい。

隧道を掘ったくらいだから、当然そこには車輪付きの乗り物が通行できるだけの道があったと考えたい。
馬車は無理でも、せめて荷車くらいは。

発見された道は、そんな私の予想のギリギリ底辺付近に引っかかるようなスペックだった。

当初の幅は、1間半から2間くらいだったろうか。
人が3人並んで歩けるくらいはあるので、探していた旧道と考えて良さそうだ。
それにしても、路上に育った杉の太さが時間を感じさせる。




滅多に人は歩いていないようだが、鬱蒼とした杉林が地表をがっちり固めているせいか、さほど形を失ってはいない。
ある程度以上時間が経った廃道の場合、地上よりも隧道内の方が保存状態が良くて得られる情報も多いものだが、今回はアテが外れてしまったので、何とかこの道の正体に通じる発見をしたいのだが…。

厳しいか…。

いずれにしても、車道としては相当に急な道である。
ジグザグを描くでもなく、沢の勾配に合わせるようにして直登していく。
地形図を見ると、この沢の傾斜は奥へ行くほど増す一方なので、おそらくは「我慢できなくなったところ」が隧道はあったはずだ。
もちろん、南口で見た尾根までの高度感も北口探しの重要なヒントになる。




15:57 《現在地》

現在地は、「しいたけ村」から150mほど奥に入った地点。(県道からだと200mほど)

勾配はもうボチボチ限界だ。
行く手には、南側で見たのと同じくらいの高さで稜線が立ち上がっている。
だが、この直前で道は忽然と姿を消した。

念入りに地上の倒木やシダを払っていけばまだ残っているのかも知れないが、それは途方もないことだ。
仕方がない。
ローラー作戦に変更だ。
ここまで来れば、探すべき範囲も半径30m程度に絞れている。




ホッ。

無いね。

 ホッ。


 無いよ。 無い。


坑口は、すっかり埋もれて消えてしまったようだ。

あの隧道内部の惨状。
特に終盤の、上に向かって崩れ放題となっている状況を見ているだけに、この結果は素直に納得できる。
「ここを掘れば出てくるだろうな」という場所も特定できないほどの、完全な消滅である。

今ごろ、“隧道ねこ”もホッと安心しているだろう。

実は私もホッとした。
坑口を見付けてしまえば、また入らざるを得なくなるのは明白で、それを避けるには、発見できないのが望ましかったのだ。

ごめんね、みんな、まききさん。
探索終了だよ。




この探索で分かったことは、確かに隧道が存在したということ。
そして、明治30年代初頭までには廃止されて地図からも早々と消えていた隧道は、廃止されてから経過した時間の長さに相応しい、凄まじい崩壊の状を示していたと言うこと。
以上の2点だ。

逆に分からなかったことは、この隧道がどのような規格(構造)で作られたものであったのかということ。
隧道の正式名称。
そして、隧道を穿った道の正体に係わる一切。


このままでは、終われない。
帰宅後、このレポートを書くかたわらで可能な限りの机上調査を行った。
その結果分かったことを以下に報告したい。




この探索の発端となった「迅速測図」をよく見ると、隧道の近くにこの道の路線名が書いてある。

金束村道

それが、隧道のある道の正体だった。

金束村は現在の鴨川市金束(こづか)一帯で、明治22年の町村制施行時に周辺7村とともに長狭郡大山村になった。

正体判明。 おわり。




…って、これで終わりじゃ味気ないよね。

私が知りたいのは、当時の道が現在の県道88号富津館山線へ、どのように繋がっているのかという、「歴史」である。
隧道の産まれた経緯も出来れば知りたい。

気を取り直し…。
まず、この道の正体を探る上での重要なヒントとなったのは、隧道が描かれた迅速測図や正式図(左図)における、矢印の部分の道のカタチだ。

隧道から南下してきた道は、矢印の地点で進路を90度転じて、西の小さな峠に向かって登っている。
この線形を覚えておいて欲しい。




隧道が表記から消滅し、代わりに白石峠の道が描かれるようになった明治36年版以降の地形図では…

隧道から南下してきた道は、そのまま南へ抜けている。

西の峠道も健在だが、一貫して白石峠を通る道よりもグレードの低い描かれ方をしている。
現在では、白石峠を通るのが主要地方道の「富津館山線」であるのに対し、西へ向かうのは一般県道「外野勝山線」である。

まとめると、隧道があった道の名前は、(明治22年以前には)「金束村道」。
そして、その道は現在の県道「富津館山線」と「外野勝山線」を繋げたようなルートであった。
しかし、隧道が廃止されて白石峠の道が完成したのと同時期に、現在の県道「富津館山線」と同じルートが主要な存在となった。





当初は全く眼中になかった県道184号外野勝山線。
まずはこの道(残念ながら未探索だが)の位置を確かめておきたい(右図)。

図は房総半島の南部一帯で、海岸線を通る2本の国道(127号、128号)と、内陸を格子状に区切る国道410号および主要地方道網が見て取れる。
このうち、県道34号と89号に挟まれた一帯には嶺岡山脈が横たわり、県道34号の北側には清澄山地があって半島中部との境をなしている。

県道184号外野勝山線は、この地図を見る限りにおいて、さほど重要な役回りとは思えないのが率直なところだろう。
実際、wikipediaの記事では、一部区間がかなり狭隘だと書かれている。



だがこの交通網、昔の様子は大きく違っていた。




明治時代を少し遡ると、そこはもう江戸時代である。
そんなわけで、まずは藩政期の一帯の主要交通網は右の通り。

『富津市史』や『長狭街道往来 千葉県の地方道』(石井昇三著)によると、木更津と館山を結ぶ「嶺岡通り」が、幕府公認の馬産地であった嶺岡牧へ道として使われていたようだ。
このうち金束から平久里までは、現在の県道富津館山線よりも東の荒川沿いにある道(現:市道平塚線)が主に使われていた。

長狭街道(現在の県道鴨川保田線)も半島を横断する主要な道であったが、最高所の横根峠は非常に険しく、人がようやく通れる程度の隘路だった。





伝統ある既存の道路網に、車両交通(馬車、荷車、人力車)という新風を吹き込むことになった明治維新。
だが、地勢の険しさから容易に車道改良は進まず、明治10年代に入ってもこの地域には馬車が通れるような道は出来なかった。
房総最大の幹線である海岸沿いの道でさえ、当時はまだ沿岸の回船によって車両交通不能の不便を賄っていた。
横根峠(長狭街道)などは駄馬さえ通ることが出来ず、あらゆる荷は人の背で運ばねばならなかった。

そんな状況を打破すべく、明治14年に民間の手で計画着工されたのが、現在の県道外野勝山線および安房白石隧道(仮)の原点となった、通称「白銀大幡線」であった。



この通称「白銀大幡線」については、『鋸南町史』と『富山町史』に詳しいが、まずは前者を抜粋して引用しよう。
白石峠周辺を示した下の地図を見ながら、お読みいただきたい。


 この線は、奥山村(鋸南町)の高梨勘兵衛、荒川村(富山町)の川名源兵衛、平塚村(長狭町)の山野井与惣右衛門、等が主唱して、明治十四年大幡村から荒川村外野を経て、佐久町地溝帯を下り、下佐久間白銀に至る道路延長約十六キロメートルを、民間の費用によって建設が行われました。工事責任は分担上、外野より白銀の間は、高梨勘兵衛が肝入り(世話役)を引き受けました。(中略)
 この工事は予算に制約がある上に、地形の高低差があるため、かなりの難事業であった、といわれています。現在の切り通しの部分は、南寄りに隧道を造る計画で、工事が進められたのですが、落盤事故が発生したため、変更せざるを得ませんでした。

って、重要証言キター!!

隧道を掘ったけど落盤で中止した?!


でも待てよ。
これ…、文脈通りに取れば、私が探索した隧道のことではないような…。

あくまで、外野から白銀までの区間の話かも知れない。

もしそうだとすれば、白石峠の他にも同時期の廃隧道(跡)がある可能性が高い。
そしてそれは、おそらく【このへん】に…。


今度機会を見て探しに行ってみますね…。

続いて『富山町史』からも、『鋸南町史』と重複しない部分を少し拾ってみたい。

 明治十四年に(中略)通称白銀大幡線として計画着工された道路がある。これは内房と長狭地区の交流を深め、物資の流通を円滑にして、物価の安定を図ろうとしたもので、明治二十七年三月に完成した。幅員溝付き二間で、大八車や荷車が主な交通機関であった当時としては、画期的な事業であった。

ふむふむ。
幅員は約3.6mで、大八車や荷車が通れた… つまり馬車は通っていないようである。
私が隧道の北側で見た旧道と、おおむね一致する道路規格といえるだろう。



で、この通称「白銀大幡線」だが、全線が開通したのは明治27年だという。
(迅速測図に描かれている隧道付近は、工期内の比較的早い段階で完成していたことになる)

その後の顛末についても、『鋸南町史』の記述を引用しよう。

 大正九年道路法の施行に伴ってこの路線は、大山勝山港線として安房郡道に編入されたのですが、大正一一年度となって郡制が廃止となり、この道路も郡道から格下げとなりました。
 昭和二年、平群村字外野から勝山町までが、外野勝山線として県道に編入されることが県議会で採択され、昭和八年八月には、正式に県道に編入されて以来、県費による改修工事が行われるようになりました。

「白銀大幡線」として開通した道は、大正時代に外野起点へとだいぶ“切り詰められた“ことが分かる。
その原因はおそらく、現在の県道富津館山線に当たるルートが開通して(この開通に関しては記録が見つからず、明治36年の地形図からの推定だが)、これと重複したからというのがひとつ。
そして、長狭街道の改良もほぼ同時期に進められていて、明治20年には鴨川から保田まで馬車の往来が可能になった(鋸南町史)というから、荷車までしか通れなかった「白銀大幡線」の利用価値が早々に低下したことも理由だろう。





以上の机上調査によって、明治14年頃という房総半島でも極めて早い時期に白石峠に隧道が造られた背景は見えてきた。

それは、極めて交通不便な暮らしを余儀なくされていた半島内陸部の人々が、当時最大の交通路であった東京湾への車道を得ようとしたことであった。
そして、その構想は幾多の苦労の末に見事実現し、今日に繋がる交通網の一翼を切り開くこととなった。

だが、白石峠の隧道だけは長く残ることは出来なかった。


今回紹介したほかに『安房郡史』や『鴨川郡史』なども見たが、残念ながらこれ以上の情報…、特に白石峠に隧道が掘られたという記述は遂に発見できず、正式な名前も、破壊放棄に至る顛末も解明には至らなかった。
しかし、嶺岡山脈に隧道を掘ることの地質的な困難があったことは、途中放棄された隧道工事の記録から裏付けられたといえる。


白石峠に発見された、おそらく房総全体でも十指に入るだろう古隧道。
仮称「安房白石隧道」の顛末は、
私が命がけで見た洞内風景の印象通りと考えて、まず間違いないだろう。







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